夕方 Hold On Me

 今回行われるイベントは、黒沢正嗣自身が主催するもので、当然大規模なものではない。いくら名の知られた人物といっても、所詮はオカルトライター。しかもこのイベントが企画されたのは妖怪騒ぎの前だ。今ほどの爆発的な知名度はまだ得るに至っていない頃である。

 そうしたわけで、場所はとある商店街の所有する野外ステージである。祭りなどのイベント事で芸人がネタを披露する程度の簡素なものだ。当然警備は手薄――というより端から想定していないのも同然なので、こちらとしてはやりやすい。

 しかし、会場付近で車を降りた三月たちは絶句した。

 人の山だ。

 野外ステージを中心に、凄まじい数の人間が目をぎらぎらと光らせて立っていた。ステージの前には結構な数のパイプ椅子が置かれているようだったが、そこは完全に埋まっている。立ち見客が広がりに広がり、商店街は通り抜けができないような有様だった。

 椅子の置かれたスペースのすぐ後ろには取材用のカメラが複数並んでいる。どう見ても商店街のイベントという騒ぎではない。黒沢正嗣という男が今や完全に時の人となっているのだということがいやでもわかる。

「やりにくい――ですね」

 連絡用の無線インカムを耳に入れながら、少佐が苦々しげに呟く。

「あんたにやってもらわないと全部おじゃんなんだがな」

 仕事道具と言って持ってきたトランクを提げ、山住が嫌味っぽく言う。

「まあ、俺は俺のやるべきことをやる。あんたらもそうするしかないだろ」

 これは皮肉ではなく激励だろう。そう言い残すと山住は雑踏の中に紛れ込んだ。

「当然、やるしかないですね。じゃあ、ステージに辿り着けるルートを確保しないと」

 しかしこの人の数である。正面突破は不可能だろう。

 そこで少佐は裏から攻めるとインカムで山住に指示を出した。

 手筈では、山住がお得意の呪術で警備スタッフを足止めし、その隙に少佐がステージに上がるというものだった。ということはスタッフを足止めすることができるのだから、出演者用の動線も自由に使えることになる。山住は面倒そうに舌打ちをしたものの、すぐに了解の旨を伝えた。

 午後五時。それまで騒然としていた群衆が、水を打ったように静まり返った。

 ステージ上に、一人の男が小難しい顔をして現れたからだ。中肉中背の身体に合ったさっぱりとした黒いスーツに、派手なネクタイ。いつの間にかお洒落ということになっていた太縁眼鏡と整髪料でかき上げられた黒髪からは、ファッションに目覚めたばかりの高校生のような印象を受ける。そのおかげか雰囲気は若々しく、情報で知っている四十五歳という年齢よりはるかに若く見える。

 拍手でも歓声でもなく、観客は無言でこの男――黒沢正嗣を迎え入れた。

 三月は思わず背筋が寒くなる。この場の雰囲気は興奮でも熱狂でもない。ひたすらに純粋な期待だ。

 皆一様に、この男の言葉を固唾を呑んで待っている。黒沢正嗣という人間の放つ言葉が、途轍もない価値を持つかのように。一歩間違えればカルト同然の状態だ。

 舞台裏からのルート――この会場の見取り図は事前に入手し、全員が把握している――に向かった少佐を見送りながらハンディカメラを起動して、これは想像以上に厳しい任務を仰せつかったことになるなと三月は冷や汗を拭う。

「皆さんこんばんは。本日はお集りいただきありがとうございます。主催者の黒沢正嗣です」

 少しくぐもったような低い声。それでもテレビ出演で慣れているせいか発音ははっきりしている。

 黒沢が自己紹介をしても、やはり拍手はない。黒沢はその雰囲気に物怖じするどころか、満足したように笑い、ステージ上に用意された椅子に腰かけた。

「皆さんが私に期待することはわかっています。今、日本を覆う妖怪現象。私はこの件について多くのメディアから、妖怪研究の第一人者として取材を受けてきました。その真相は一体なんなのか。なぜ妖怪が跋扈する世の中になってしまったのか。お答えできる範囲で、お答え――」

 そこで黒沢が固まる。

 客席――並んだパイプ椅子の一番前の列。そこから何者かが、ステージに上がろうと手をかけていた。

 それまで静まり返っていた会場に、初めてどよめきが走る。止めに入るべきスタッフは、現在山住が足止めしている。

「おいどういうことだ。止めるか?」

 インカムに山住から通信が入る。

「――スタッフの足止めに専念を。少佐さんはその場で待機してください」

 三月は自分でも信じられないほど滑らかにそう指示を出していた。同時に、客席の最前列までとはいかずとも、とにかく前に出るべく人混みを押し退けて前進する。

 スタッフが止めにこないことに業を煮やした観客の一部が、ステージに上がらせまいと身体に飛びつく。

「山住さん、観客の無力化を! できますよね!」

 直接聞こえるのではないかというほどの大声で三月は叫んだ。山住は困惑の色を浮かべるが、三月が必死なことを察すると自棄になったかのように気合いを入れる。

 身体を掴んでいた観客が、次々ぴくりとも動かなくなってステージの下に落ちていく。それを好機とばかりに勢いをつけ、一気にステージに這い上がる。

 遠目でもわかる荒い呼吸で黒沢と向き合ったのは、いつもと同じジャージ姿の慈姑だった。

 黒沢と向き合ったまま、慈姑は完全に固まっていた。ただはあはあと息を継ぎ、黒沢を見ては目を逸らしを繰り返す。

 慈姑は三月以外の人間と会話ができない。それは慈姑自身がいやというほどわかっているはずだ。その慈姑が、それでも立ち向かおうと前に出た――一体どれほどの覚悟が必要だっただろう。

 三月はしゃにむに前に突き進む。激しくぶつかったことで手に持ったカメラはどこかへ吹っ飛んでしまった。宮内庁の備品だろうがたとえ恩賜のカメラだったとしても知ったことか。三月はとにかく前へ行かねばならない。慈姑に、自分がここにいるのだということを示さねばならない。

「なんとか言ったらどうだね」

 黒沢が冷淡に問いただす。

「君の行動が一体どれだけ迷惑をかけているのか考えてみなさい。興奮するのはわかるが、これはいただけない。この場で全員に謝罪して、すぐにステージを下りれば、厳重注意だけですませよう」

 慈姑は微動だにしない。黒沢は徐々に苛立っていく。

「何か言えと言っているんだ。謝罪はどうした。謝罪だよ!」

「慈姑!」

 それまで固まっていた慈姑が、はっとしたようにステージの下を見る。

 息も絶え絶えに最前列まで直進してきた三月は、しっかりと慈姑と目を合わせる。

「私に、話せ」

 慈姑の視界から、一斉に夾雑物が消えていく。慈姑は今、三月と二人で向き合って話している。そう思わせるため、三月はここまでやってきた。

「かぶきり小僧は斧を振り回したりしない」

 普段の、三月の知る慈姑の声。

「かぶきり小僧と斧を結びつけたのは『正体判明! 超解読! 世界の妖怪』という本で、これがウィキペディアの出典にもなっている。著者は黒沢正嗣」

「おい――」

「牛の首を妖怪に仕立て上げたのは『全部本物! 超解読! 日本の妖怪』という本。現在ウィキペディアはこれをソースに情報が加えられている。著者はやっぱり黒沢正嗣」

 慈姑は凄まじい勢いで、次々に黒沢が広めた間違った妖怪の情報を上げていく。完全にブチギレている。いい傾向だと三月は笑う。

「黒沢正嗣の手口はこうだ。明らかに間違った情報を本に書く。それをソースにウィキペディアに加筆させる。自分の信用度をネットとテレビを触媒に高めていく」

「いい加減にしたらどうだ」

 黒沢の恫喝は全くの無意味だ。今の慈姑は三月に話している。三月しか眼中にない。

「以前から似たようなことをやっていたようだけど、ここ一年間でそれが顕著かつ過激になっている。ウィキペディアや既存の研究所の引用だけだった妖怪についての説明が、ある時を境に、今のような出鱈目を書くようになっている。まるで自分の知名度と信用をある程度高めてから、それを信じた人間に丁寧に嘘を吹き込むかのように」

 観客は呆然と慈姑の話に聞き入っていた。客席の三月に話しかける慈姑の言葉は、自然と客席に向かって話す形になっている。

「黒沢正嗣がやっているのは、妖怪を滅ぼす行為にほかならない。藤沢衛彦、斎藤守弘、佐藤有文、そこから連なる妖怪図鑑に、水木しげる――こうした流れの中で生まれたそれまで存在しなかった妖怪や、本来なかった属性を付け加えられた妖怪は数知れない。確かに妖怪というものは、全て創作だ。その創作するという行為を否定することは、誰にもできない。でも、彼ら先達と黒沢正嗣は決定的に違う。彼らは荒野に土を作り、耕し、種を蒔いた。黒沢正嗣はそのようやくできた土壌と作物を使うだけ使って、荒れ野にしているだけだ。わからないものに答えを求めるのではなく、わかっている解を捻じ曲げる。こんなことは許されない」

「〈妖怪ばけもの〉の手先になったのかな? 樹木慈姑」

 三月の頭を激痛が襲った。違う、頭だけではない。三月という肉体の容器を満たす全てが、沸騰するかのように荒れ狂っている。

「だが、君のような価値観の持ち主は、それだけで十二分に、こちら側にきてもらう価値がある」

 目を――開けなければ。全身が粟立つどころか泡立つような怖気を振り払い、三月は目を見開き、慈姑と、ぞっとするほど穏やかな笑みを浮かべた黒沢を捉える。

 三月の目に映る黒沢の姿は、すでに人間のものではなかった。慈姑は気づいていない。見鬼の山住は――インカムに通信がないということは異変を察知していない。三月の目にだけ、黒沢のおぞましい姿が浮かんでいる。

「慈姑! 逃げろ! そいつ、人間じゃない!」

 三月は絶叫したが、黒沢のほうが早かった。

 黒沢は慈姑の腕を掴み、どこからか取り出した注射器を突き立てようと舌なめずりをする。

 山住に止めさせるように叫ぶ。だがそれでは間に合わない。

 三月の左目が、ひとりでに限界まで見開かれる。火花が散るのが――目が焼け焦げていくのがわかった。全身が鉛のように重い。使い方を覚えたばかりの身体から、急に統率が失われたように力が抜けていき、感覚がどんどん鈍麻していく。

 だが――慈姑には、手を出させない。

 凄まじい突風が走った。ステージ上の重量のある機材は宙を舞い、組み合っていた慈姑と黒沢は揃って壁に叩きつけられる。黒沢の持っていた注射器も風に吹き飛ばされ、地面にぶつかって転がっていく。

 山住と少佐がステージに上がり、黒沢を取り押さえる。

 慈姑――と名前を呼ぼうとしたが、声が出なかった。三月は自分がまた、何も知覚できない状態になっていることに気づく。

 三月の身体はステージの下に崩れ落ちていた。力が抜けたのではない。肉体が、崩壊している。なんだかよくわからない肉塊のようなものになり果てた三月は、それでも慈姑の名を呼ぼうと先刻教えられた通りに叫んだ。

「三月……?」

 ステージから慈姑が下を覗き込む。そこに転がっているのはもはや人間とは呼べない肉の塊だ。

 だけど――三月は慈姑の顔を確かに見ることができた。

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