3-2-05

 ヨシカさんの店が入っている雑居ビルの前に、俺たちを迎えに現れたのは黒塗りのベンツだった。俺は車には詳しくないからわからないけど、かなり高級なんだろう。ウィンドウもスモークガラスで中が見えない。

 助手席のドアが開いて、アイノさんが顔を出した。

「三人とも、乗って」

 後部座席は俺たち三人が乗ってもゆったりとしていた。運転席にはリーリンが座っていて、俺たちがちゃんと乗ったのを確認すると、車をスタートさせた。

 その車はほとんど音を立てることなく、するすると滑るように走り出した。車に乗っているというよりも、何か不思議な乗り物で海の中を深く静かに潜航している、そんな感じがした。

「遅くなってごめんなさい」運転席のリーリンが少しだけ顔を横に向ける。「いろいろとやることがあって」

「ヨシカさんが、物語が消えてるって。それってつまり、本が――小説が消えていってるってことなんですか」

 俺の言葉に、リーリンがうなずく。

「そうよ。でも、まだすべてじゃないわ」

「どうやら、書かれた時代が古い順に消えていってるみたいなの」助手席のアイノさんが後部座席の方に身を乗り出す。「それに、今回は書物だけじゃない。絵画や映画も。たぶんありとあらゆる創作物が根こそぎ消え去ってしまうことになる」

「ウキョウさん」前を向いたまま、リーリンがいった。「古い小説家の名前を言ってみて。そうね……十九世紀くらいの」

「ええと」俺はとっさに頭に浮かんだ作家の名前をいった。「バルザック、スタンダール、ゾラ……」

 車内は静まり返った。誰も何もいわない。

「それは――小説家の名前?」

 俺はアイノさんにうなずく。

「そうです。誰もが知ってる有名な作家です」

「フランス人の名前ね」

「昔のフランス文学を最近まとめて読み返したから」俺は隣に座っているほたるにいった。「おふくろの部屋にもある。お前も読んでるはずだ。覚えてないのか」

 ほたるは、困った表情で首を振った。

 あの開かずの間は、今ではもう鍵はかかっておらず、俺はまたあの部屋に置かれている本を読み返し始めていた。

「アイノさん、こうしている間にもどんどんこの世界から小説が消えているんですよね」ほたるがいった。

「そうよ」

「どれくらいのスピードなんですか」

 アイノさんはリーリンを見た。

「おそらく」リーリンが前を向いたままいった。「音楽が消えたスパンよりもさらに短いと思う。私たちは二日と見ている」

「そんな……」

 たったの二日。

「それで、これからどうするんですか」

 俺は前の座席のふたりにいった。たぶん、リーリンたちには何か考えがあるんだろう。

 助手席のアイノさんにリーリンがうなずくと、アイノさんが俺たちの方に体を向けた。

「メサ。あなたの力が必要よ」


 車はやがて郊外の住宅街を通り抜けて、田んぼの中の道を走り続け、うっそうと茂る森の中へ入っていった。しばらく行くと大きな鉄の門が行く手を阻んだ。両側には背の高い塀が続いている。すぐに門が開き、車は再び森の中へ向けて走り出した。

 十分ほどで突然森は途切れ、車は洋館の前で静かに止まった。

 単調な呼び出し音が鳴って、リーリンがジャケットの胸ポケットからスマートフォンを取り出した。

「先に行ってて。私はあとから行きます。アイノさん、あと、よろしく」

「わかりました」アイノさんが俺たちを振り返って、ドアを開ける。「行きましょう」

 洋館の扉は外見に似合わず音もなく開いて、俺たちは中に入った。

 建物の中はがらんとしたホールになっていた。

 両側にはらせん状の階段が二階へ続いている。ホールは薄暗く階段が暗い影を落としている。

 突然、メサがぎくっと立ち止まってアイノさんを振り返った。

「アイティ」

 アイノさんがメサの背中にそっと手を乗せた

「大丈夫よ、メサ」

「でも……」

 恐る恐る、といった感じでゆっくりとホールの奥の方へ向き直ったメサの視線の先、階段の影になっている場所から、人影が歩み出た。

 フードを目深にかぶっているからはっきりと顔は見えないけど、誰かはすぐにわかった。

 メサがじりじりと後ずさる。

「に、兄さん?」

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