第1話

 マーシネリア大陸。


 この世界に於いて三番目に大きな大陸であり、海に囲まれたこの大陸は、他の大陸へ貿易に行くための中継地点でもあったがために、独特な気風と文化が築きあげられ、それぞれの港や街は活気に満ち溢れていた。


 それ故にお宝を狙う海賊も多く出没し、出入国する船を守るために、他国にはない、海を守る軍隊――海軍が存在していた。


 それを束ねるのはマーシネリア大陸唯一の国であり、大陸名をそのまま国名に冠した、マーシネリア帝国である。


 その首都・シネリアでは、若き皇帝の成婚式で賑わっていた。

 それぞれの街や村などには屋台が立ち並び、行商人やキャラバンが行き交い、そこかしこから、そして老若男女問わず、お祭りムードが溢れていた。



 ***



「エル兄様はまだかしら……」


 薬屋の前にあるベンチに腰掛け、薬を取りに行っている兄を待っておりました。

 夏が近いとはいえ春の温かい陽射は熱がある身では少々つらいので、帽子を目深に被って陽の光を遮ります。

 そんなわたくしですが、体が怠くて仕方がありません。


 二日前から微熱があったのですが、『いつものこと』と放置して侍女と一緒に出かける支度をしておりましたら、どうやら風邪をひいていたらしく、頭痛と共に熱が上がってしまいました。父にも止められておりましたのに。

 薬を切らしていたのを忘れていたため、主治医に診ていただくついでに薬を買いに行こうとして、それを見咎めたエル兄様――二番目の兄である、エルンスト兄様に止められてしまい、一緒に行くことになってしまったのです。


『可愛い妹のためだから遠慮はなしだよ』


 優しいエル兄様はそう仰ってくださいました。けれど、わたくしはお仕事がお忙しいのに、悪いことをしてしまったと深く落ち込んでいたのです。


 はぁ、と溜息をついたところで、低い声音で声をかけられました。


「ルナマリア嬢?」

「あ……」


 その声に顔を上げると、見知った相手でした。ですが、相手の顔の眉間に皺が寄ったのを見てしまい、胸が痛みます。

 それを隠し、慌ててよろよろと立ち上がり、挨拶をいたします。


「ごきげんよう、ジュリアス様。お久しぶりでございます」

「ああ、久しぶりだね、ルナマリア嬢」


 彼も挨拶を返してくださったことに安堵いたします。

 彼はジュリアス・ホワイト・ライオール様と仰います。この国の公爵家の嫡子でいらっしゃいます。銀灰色の髪と緑の瞳、背中まである髪は、首の後ろで緩やかに飾り紐でひとつに束ねられております。

 ライオール家は帝国の筆頭公爵であり、若き皇帝陛下の懐刀ふところがたなと言われ、次期宰相と噂される将来有望な方でもあるのです。

 身分に拘らない方で、ご友人はそれこそたくさんいらっしゃいます。わたくしの一番上の兄である、レオンハルト兄様とも友人なのです。


「ルナマリア嬢、その声……」


 わたくしの声を聞き、ますます眉間に皺が寄ったジュリアス様を見て、わたくしことルナマリア・ウル・ホルクロフトは、喋らなければよかったと後悔してしまいました。かと言って、知り合いで公爵家の方でもあるジュリアス様を無視するわけにも参りません。


「あ……申し訳ございません。風邪を引いてしまいまして……。お耳汚しでしたよね……」

「違う! そんなことを言ってるわけじゃ……っ?! 危ない!」


 熱があるのに立ち上がって礼をしたせいなのか、ふらついて倒れそうになったところを、ジュリアス様に抱き止められました。そのまま額にジュリアス様の手が添えられ、思わず鼓動が跳ねます。


「熱があるのか……随分高いな。すまない、無理をさせた。ルナマリア嬢、座って」

「……申し訳ございません」


 促され、ジュリアス様に支えられながら座ると、ジュリアス様がスッと離れました。そのお顔を見上げますと、ジュリアス様が視線を横に逸らします。


(やはり、嫌われているのですね……)


 そのことで胸が痛くなってしまい、俯きます。

 レオン兄様のご友人であるジュリアス様はすごく気さくな方で、煌びやかな兄妹と違い、平凡なわたくしにも話かけてくださった男性ひとでした。

 話題がとても豊富で、家族以外の前では滅多に笑わないわたくしを、よく笑わせてくださいました。

 そんな彼に、いつの間にか恋をしていました。


 けれど……。


「一人で来たのか?」

「いいえ、お兄様と護衛と……」

「ルナ、お待たせ。って、ルナ?! だいじょ……あ、ジュリアス様! 本日は申し訳ありませんでした」


 ジュリアス様とお話をしていると、エル兄様が近寄って参りました。わたくしの傍にいるジュリアス様を見て、丁寧に挨拶をするエル兄様。そんなエル兄様を見て、ジュリアス様は幾分か表情を和らげました。それを見て、やはりわたくしだけが嫌われているのだと、また胸が痛くなってしまいます。


「急用で休むなんて珍しかったんだが、こういう理由だったんだな、エル。エルが一緒ならルナマリア嬢も大丈夫か。そういえば最近城でレオンに会わないが……」

「ああ、実は……」


 わたくしに背を向けて二人で話し始めようとしたので、失礼かしらと思いつつもそれを遮ります。


「お話をするところ申し訳ありません。エル兄様、お薬をくださいますか? ギルと先に馬車に戻っておりますから」


 わたくしの護衛である方の名をあげて、二人の話の邪魔はしませんと意思表示をいたします。


「ごめん、ルナ。はい、これが薬だよ。中に飴が入っている。声のことを言ったらそれをくれたよ。本当は蜂蜜のほうがいいんだけど……薬屋のおばさんがそれを舐めてって言ってたよ。ギル、頼んだよ」

「ありがとうございます、エル兄様」


 兄の言葉に、薬屋の傍からひょいと男性が顔を出します。赤みかかった金色の髪を首の後ろで束ねており、見目麗しいかんばせとグレーの瞳をしております。男性にしては線が細いこの方をよく見れば、男装している女性だということがわかると思います。


「ご無沙汰しております、ジュリアス様。わかりました、エルンスト様」

「はあ……エリザベス様……。最近城で見ないと思ったら、ホルクロフト家にいたのですか?」

「この格好の時はギルとお呼びください」


 胸に右手を当てて腰を折る男装の女性は、騎士の礼をして顔をあげるとにっこりと笑いました。


 この方の本名は、エリザベス・フォン・マーシネリア様と仰います。若き皇帝、ライオネル・フォン・マーシネリア様の、二番目の妹姫でもあるのです。

 女性だというのに実力で海軍や騎士団に入団できるほど武芸に優れていらっしゃるのですが、エリザベス様がどう頑張っても唯一勝てなかった相手が騎士団団長兼海軍提督でもあり、ホルクロフト家の長兄であるレオンハルト・ウル・ホルクロフト兄様でした。そんなお強いエリザベス様はレオン兄様の婚約者でもあります。


「さあ、参りましょう、ルナ様」

「はい。それではジュリアス様、ありがとうございました」


 エリザベス様に支えられながら丁寧にお辞儀をし、馬車に戻ります。ほんの少しの距離でしたが、熱がある体ではそれだけで疲れてしまい、はしたなくも馬車の座席によりかかってしまいました。


「エリー姉様、申し訳ありません……」

「まあ、何を言っているの。申し訳ありませんはなしって言ったでしょう? か弱い女性を守るのが、騎士の務めよ?」

「ですが……せっかくホルクロフト家に生まれたのに、弱い自分が恥ずかしいですわ。兄さまたちや姉さまに申し訳ないです。体の弱いわたくしなんて、ホルクロフト家の恥ですわよね……」


 そう呟いて、俯きます。

 ホルクロフトは筆頭伯爵家です。代々皇帝一家の護衛を務め、騎士団や海軍など、多くの軍人や騎士を輩出している家系なのです。文武両道に優れているためか、文官も輩出しております。

 エル兄様は武芸も優れていらっしゃいますがむしろ文芸に優れ、次期宰相と言われているジュリアス様の護衛を兼ねて、仕事の補佐をしているのです。


 そんなことを考えておりましたら、突然むにーっと両方の頬をつままれました。


「……いひゃいれふ、ヘリーへえひゃま」

「レオン様とエル様とマリュー様がいたら、確実にこうしてるわよ? もちろん、ジュリアス様もね」


 ジュリアス様の名前を出され、寂しげに笑います。そんなことは絶対にありませんのに。


「それはありませんわ。ジュリアス様は、わたくしを嫌っておりますもの」

「ルナ様? 何をどう考えたらそんな答えになるのかしら?」


 エリザベス様に優しく抱きしめられましたので、わたくしも抱きしめ返します。


「……だって、わたくしには笑いかけてくださらないもの……」

「ルナ様?」


 エリザベス様には聞こえないよう、小さな声で呟いたのです。


「……なんでありませんわ」


 泣きそうな顔を見られたくなくて、努めて明るく振る舞いました。


 エリザベス様ととりとめのない話をして待っておりますと、「お待たせ」とエル兄様が戻ってまいりました。


「はい、これ。開けてみて?」

「はい?」


 エル兄様に茶色い紙の袋を手渡され、首を傾げながら中身をみますと、蜂蜜が入った瓶が二本入っておりました。


「エル兄さま、これはどうなさったのですか? 買う予定ではなかったはずですけれど……」

「ジュリアス様がルナに、ってわざわざ買ってくださったんだ」

「……え?」

「愛されてるよね、ルナ」


 ジュリアス様が買ってくださったことはとても嬉しいのですが、エル兄様のその言葉に、哀しく笑うわたくしがいます。


「愛されてなど……」

「ルナ?」


 心配そうなエル兄様とエリザベス様を見て、泣いては駄目だ、エル兄様やエリー姉さまに心配をかけてしまうと少しだけ気合をいれました。そうでないと本当に泣いてしまいそうでしたから。


「……なんでもありません。エル兄様、帰りましょう? なんだか疲れてしまいました」


 伸びてきたエル兄様の冷たい手が、額を覆います。


「うーん……ちょっと熱が上がっているね……。そうだね、すぐに屋敷に戻ろう」


 隣に座るエル兄様によりかかりながら目を閉じます。

 熱に魘され、苦し気な息をしながら、いつの間にか眠っておりました。


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