番外編 腕の中の愛しい人
彼女の希望通り、好きなだけ彼女を抱いた夜。籍だけは入れていたが、自分の引っ越しや休みの都合でずっと彼女を腕に閉じ込めて眠るだけだった。
その彼女を、やっと抱くことができた。好きなだけ抱くと言っても、俺と麻衣では体力がまったく違うため、初めてでもある麻衣に負担がかからないよう、できるだけセーブはしたが。
俺の腕の中で眠る麻衣を見ながら、麻衣から聞いた十年前の事故のことを思い出す。
当時、俺はレスキューになったばかりの若造で、勤めている所轄の消防署にはハイパーがいた。
いつかレスキューになって、さらに上のハイパーになりたい。たくさんの人を助けたい。
その思いで消防官になった。レスキューになって、レスキューとしての初めての仕事が脱線事故だった。
「脱線事故発生! 多数の負傷者と死者が出ているもよう! ハイパー出動要請あり!」
その第一報で室内がざわめく。路線自体は近いものの、ハイパー出動要請が出るほどの規模の脱線事故となると、かなり大規模な事故だ。
第二報、第三報を聞きながら装備を整えていく。ハイパーだけではなく、レスキューにも出動要請が出ていることから、相当数の人数で探索することになる。
現場に到着後、飛び散ったガラス片に気をつけながら、それぞれ探索を開始する。歩ける人はまだいいが、車両の座席の下敷きになっている人がいるかもしれない。
慎重に、そして迅速に探して……少女を見つけた。
連結部分に近かったせいか、連結部分で潰されたのか足が潰れて血が流れており、手もガラスで深く切っていた。パッと見には既に死んでいるように見えた少女。
(まだこれからのに……)
ギュッと手を握り締める。助けられなかった。助けるために消防官になったはずなのに……。
そう思っていたら、少女がピクリと動き、呻いた。生きていることに安堵して慌てて駆け寄る。
「西! 誰かいたか!?」
「負傷者を発見! 出血が酷いうえ、足が潰れています!」
「わかった!」
声をかけて来た先輩のハイパーに怒鳴ると、先輩はあれこれ機材を使って救出作業を始める。それと平行して自分にできる作業を始めると、少女が薄目を開けた。
「もう大丈夫だ。助かるからな」
少女が安心できるようにできるだけ優しい声を出して笑顔でそう告げると、少女はホッとしたように笑顔を浮かべてまた目を瞑った。
彼女の足を見る限り、たぶん切り落とすことになるだろう。それくらい酷い状態だった。
それを残念に思いながら救出し、また次の負傷者を探す。
その救出作戦は、今にして思えばいつもの光景。だが、その時はなぜか……初めての救出作戦だったせいか、少女の救出だけは印象に残った。
あれから十年。日々の業務や訓練、救出に明け暮れながら過ごした。目標だったハイパーにもなれた。
ハイパーになってから出動もした。都内でヘリを所持している部隊だからか、大規模な水害や地震の救出にはヘリで行った。印象に残っていた少女の記憶もいつの間にか忘れた、日勤上がりのある日。
「あ、の……西さん、ですよね?」
遠慮がちにそう声をかけられて振り向けば、若い女性が立っていた。知っているような、懐かしいような顔の女性に首を捻りつつも「そうだが」と返事をすると、彼女は顔をパッと綻ばせて嬉しそうに笑った。
「あの、私、以前西さんに助けてもらったことがあるんです! すごく嬉しかったから……あの、これ、お礼です! もらってください!」
そう言って差し出された紙袋を受け取ることはなく、そっけなく彼女に「もらえないから」とだけ言ってその場を離れた。業務上仕方がないこととはいえ、少々冷たかったかと思い直して少し離れてから振り返ると、彼女は背を向けて歩いていた。
その姿があまりにもしょんぼりしていて、少し反省した。
それからだ。彼女は俺を見るたびに紙袋を差し出して「もらってください!」と言う。だが彼女は一度それを言って俺が断ると、その日は二度とそれを言うことはな。ほとんどが他愛もない話をしたりするのが常で、俺はそれが不思議だった。
町田や中井が彼女といつの間にか仲良くなっていて、彼女が朝丘 麻衣という名前だというのも教えてくれた。
歩いていたはずの彼女が車椅子で来た時は驚いたが、「義足の調子が悪くて、仕方なく車椅子です」と明るく言った彼女に、記憶の隅で何かが引っ掛かった。そこで改めて彼女の顔をじっくりと眺める。
すると、印象に残っていた少女の顔と重なり、どうしてこんなにもはっきりと思い出せるのかが不思議だった。
彼女と少しずつ仲良くなって話をするたびに、彼女のことがわかってくる。好きな本、最近見た映画、映画はDVDのレンタルがほとんど、などなど。
中井や町田が彼女を見つけて話しかけるたびに、苛つくのがなぜなのかもわからなかった。
――たぶん、この時の俺は、彼女に惹かれ始めていたんだと思う。
一回り以上も下の彼女だったからセーブしていたんだと、あとになって思ったが。
あの日はすごく苛ついていた。今年入ったばかりの女性消防官が事務仕事でミスを連発していたからだ。
そのツケが全体に回り、進まない事務作業と相まって全体をイライラさせていた。いつもなら何とか抑え、訓練で発散させることができていた。
だが、この日はそれが上手くできず、結局は彼女に八つ当たりをしてしまった。
しょんぼりと肩を落とした彼女の姿に、胸を痛めた。
だからこそ次の日、彼女に会えたら謝ろうと思っていた。でも彼女はあの日以来署に来ることはなく、時間だけが過ぎていって……彼女がまた事故に遭った。
なぜ彼女だけがこうも事故に遭うのか……。
長時間雨に晒されていたせいで、肺炎寸前だった彼女……麻衣。
頭部に負った損傷は大丈夫だと聞いてはいたものの、麻衣が目覚めなければどんな影響が残っているのかがわからない。熱に魘される麻衣の手を握りながら、ただ無事でいてくれと祈ることしかできなかった。
短い逢瀬の中、帰ろうかと席を立ったら、麻衣の家族らしき人が見舞いに来た。
「あれ? 西さん?」
そう声をかけて来たのは別の署にいる後輩の消防官だった。不思議に思って彼から話を聞けば、やはり彼らは麻衣の家族で、後輩は麻衣の姉の夫だという話だった。
「お義父さん、彼……西さんはハイパーレスキューなんだ。俺の先輩」
「ほう、そうなのか。もしかして、麻衣と喧嘩した相手かな?」
「え?」
「あら、そうなの? だったら納得ね。麻衣ってば明るく振る舞ってはいるけど、本当はずっと沈んでるの」
寝ている麻衣の頭を撫でる母親は、辛そうな顔をしていた。
「……確かに、喧嘩と言うより、俺が彼女に八つ当たりしてしまいました。そのことを謝れないうちに彼女に会えなくなって、事故に遭ってしまって……」
「そうか……。西さん、だったかな? 西さんは麻衣のことが……」
「とても大事に思っています。今回の事故も、前回の事故も、発見したのは偶然にも俺でした。今回発見した時は、既に熱が高くて……心配だったから、時間の許す限り彼女についていたくて……」
支離滅裂なことを言っている自覚はある。だが、言葉がうまく出て来なくて、思いつくままに言葉を紡ぐ。
「西さんは麻衣の足に障害があるのは知っているかしら?」
「知っています。歳もかなり離れていますが、でも俺は、麻衣が好きです。好きになった子がたまたま障害を持っていた……それだけです。障害を持っていたからといって嫌いにはならないし、ちゃんと謝ったあとはプロポーズしようと思っています」
するりと出て来たその言葉に、内心自分でも驚く。麻衣から告白されたとはいえ彼女には返事も返していないし、付き合ってもいない。
今の言い方だと誤解をしただろうか。だが俺の気持ちはわかっているし、誤解されたままでもいいと思う自分もいる。彼女を手離したくない……ずっと一緒にいたい。
「そうか……なら、麻衣を頼むよ。結婚する気があるなら、私たちの家に住んでほしいと思うがね」
「……理由を聞いてもいいでしょうか」
「単純な話だよ。麻衣は義足だし、家の中でも車椅子に乗ることがある。だから各部屋はバリアフリーだし、手摺もついている。本当に一緒に住んでくれるというのならば二人のための部屋を用意するし、その部屋は防音にするが……どうかな? もっとも米軍基地や自衛隊基地が近いから、家全体もかなりの防音になってはいるがね」
急にそんなことを言われて混乱する。そこまでは考えていなかったし、麻衣にプロポーズしてから二人で話し合えたら、と漠然と思っていただけだ。
正直にそれを告げると、「それもそうか」と麻衣の父親は苦笑していた。
「ただ、今はいろいろと混乱しているので、考える時間をください。次にお会いした時に、必ずお返事をしますから」
「次はいつ会えるのかな? 忙しいんだろう?」
「忙しいというより、通常勤務が二十四時間なんです。明日は通常勤務なので、お会いできるとしたら明後日の夕方になると思います。その時でも構いませんか?」
構わないと言った父親にホッとして、その日はその場を辞して帰った。
帰りながらじっくりと考える。
本当ならば、バリアフリーのマンションかなにかを借りて、麻衣と住むのがいいとは思う。だが、麻衣の父親があそこまで言うということは、きっと探すのも大変なんだろう。麻衣の家がどこにあるかわからない、というのもある。
どのみち、俺には親代わりの伯父はいるが、両親は既に他界していないから何の問題もない。
(親孝行させてもらえるだろうか……)
麻衣の両親なら、麻衣と一緒に親孝行をしてあげたい。一緒に住むことが親孝行になるなら、と考えている自分もいる。
麻衣の両親にいろいろと聞いて、それから決めよう……そう思った。そして、未だに熱で魘されている麻衣の病室で両親から話を聞いて、一緒に住むことを決めた。
あとは麻衣が目覚めて……俺の気持ちをわかってもらうだけだ。
(麻衣……ずっと一緒にいよう。早く起きてくれ)
彼女の手を握りながら祈るようにそう思っていると、彼女の瞼が動いた。顔を覗きこめば彼女が目を開けた。
すぐにナースコールのボタンを押して、少しだけ話をして。やっと目覚めたことに安堵して仕事に行く。
次に会いに行った時に俺の告白を夢だと思っていたようだが、俺にしてみれば付き合うことも、結婚の約束も、好きなだけ抱いていいと言った麻衣の可愛いおねだりも、全部現実だ。
そして、十年前から俺が好きだったことにも驚いた。それほど長く思ってもらえるほど、俺は麻衣に何もしていないに等しい。
だが、そのぶん麻衣をたくさん甘やかして、たくさん愛すると決めた。退院してからも我儘ひとつ言わない麻衣に、たくさん外に連れ出そうと決めた。
今はまだ車椅子に乗っていることを遠慮している麻衣。義足が治り、リハビリが終わったら……。
映画館でも、動物園でも。麻衣の行きたいところに連れ出そうと思っている。
ただ、今は……彼女の温もりを感じていたい。
――そっと彼女の唇にキスをし、彼女を腕に抱いて眠った。
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