紫陽花

夏川 俊

第1話、『 紫陽花 』

 6月の半ば。

 猫の額ほどの我が家の庭に、薄紫の色も鮮やかに、あじさいが咲く。


 目にしみるような、力強い緑色の葉を背景に、迎える夏を感じさせるが如く、徐々に高くなる気温に、涼しげな薄紫が心地良い。


『 あじさいは、好きな花の1つなんだ 』


 以前、あの人がそう言っていた。

 花に関しては全く無頓着だった、あの人・・・

 乙女心を、微妙にくすぐる一言だった。


『 1つ 』と言うからには、もっと他にも、好きな花があるように想像できる。

 私は、聞いてみた。


『 他の花の事は、よく分からない 』


 花好きな私の期待を、見事に裏切る回答が返って来た。


 今から想えば、きっとあの人は、花の名前をあまり良く知らなかったのだろう。

  私の花好きは、あの人も良く知っていたはず。 おそらく、『 そんな名前も知らないの? 』と、私に指摘されるのが嫌だったのかも。


( あの人らしいわね・・・ )


 薄紫の花びらにそっと触れ、私は笑みを浮かべた。

 小さなカタツムリが、葉の上をゆっくりと滑って行く。 ゆっくりと。


 あじさいの花言葉は『 移り気 』。


 その花が好きだと言ったあの人には、確かにそんな一面があったように思える。  だが世間で言う『 浮気 』の一言に含まれるほどの事はなかった。


 自宅近くにある八百屋で、店を手伝う娘さんを気に入り、料理も出来ないのに野菜を買い込んで来たり、あまり飲まないタバコなのに、角のタバコ屋さんの奥さん目当てに頻繁に出入りしたり・・・ 可愛いものだった。


 あれから18年。

 八百屋の娘さんは、嫁に行った。 角のタバコ屋さんも、今はもう無い・・・

 巡る季節と共に、時は泡沫のように過ぎて行く。


 薄曇りの空が、にわかに明るくなり、薄日が射して来た。

 私の淡い影が、薄紫の上に映っている。


 そっと、庭バサミを葉の間に入れ、寄り添うように咲いている小さな淡い薄紫のかたまりを取り上げる。


 ・・あじさいの花言葉は『 移り気 』。


 あの人は、きっと今頃、誰かに同じような事を言っているのだろう。

『 あじさいは、好きな花の1つなんだ 』

 

 私は、摘み取ったあじさいを手に、濡れ縁に腰を下ろした。

 花瓶に挿しやすいように、茎の葉を摘む。

 たわやかに、トパーズ色をした初夏の風が、私の頬を滑って行った。


( あじさいの花の、どこが好きだったのか、聞いておけば良かったわね )


 そっと、一輪のあじさいの花を、傍らの畳の上に置く。

 先程より、やや強い日差しが、淡い薄紫の上に踊っている。


 私は、独り言を呟いた。


「 好きな花の1つ・・ か 」


 きっと今頃、あの人は、天国で綺麗な女性相手に、その言葉を送っているのだろう。

 

 今、庭先に舞い降りたような南風が、あじさいの葉を白く裏返し、軽やかに渡って行った。



               『 紫陽花 / 完 』

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