03 珈琲

 斉藤が去って半時程経った頃、今度は準教授である十川先生が見舞いに来た。記憶を失ってから初の対面である為、十川先生は簡単な自己紹介をし、

「まぁ、細かいことは思い出して仕舞えば万事解決だ。今は私が君の研究室の準教授であると言う事だけで十分だろう」

 とだけ言って、斉藤が世話を焼いて病室に持ってきてくれた電気ケトルで湯を沸かした。

 十川先生は準教授と言う肩書きにそぐわず、かなり若く見えた。ともすれば同世代とも思われる程の年齢にしか見えない。といっても、仕草が幼いとか童顔とかいう類の若さではなく、活気のある溌剌とした若さである。どこかサバサバした口調とテキパキとした動きがそう思わせるのかもしれない。肩まであるかどうかという短めの髪と、くっきりとした目鼻立ち、切れ長の涼しげな目からは知的な美人という印象を受けた。白いワイシャツに黒のタイトなスカートという小綺麗な格好であるが、その上からは白衣を羽織っている。病院と言う場所柄を考えれば完全に女医に見える。

「此処はうちの大学の大学病院だからな。そして研究柄、君の主治医とも旧知の仲なのだ。キャンパスも近いし、一般道もほとんど通らずに病院まで来て仕舞えるのでな。ついこの格好で来てしまった。しかし君の言う通り、この格好ではまるで医者だな」

 そう言って先生は白衣を脱ぎ軽くたたんでベッド脇の椅子の背の背凭せもたれに引っ掛けた。

 どうやら湯が沸いた様である。見れば先生の手には売店で購入したであろうドリップ式という、一杯分ずつ挽いた豆が小分けにされた珈琲の袋が二つ握られていた。

「君は珈琲が好きだったな」

「分かりません、其れも覚えていませんので」

「そうか、まぁ研究室で飲んでいるのを見かけた事があるから、嫌いではないと思うのだがな。不味いようなら無理して飲まなくてもいい」

 先生は俺に珈琲を差出し、続いて二杯目も淹れた。如何やら先生も珈琲好きらしい。

 一口飲んでみた。好みであったかどうかは思い出せないものの、確かに嫌いではない。味というよりも薫りが良い。そう言うと、十川先生は

「では残りの八杯分はお土産だ。十パック入りを買ったのだ。缶珈琲よりも経済的且つ缶珈琲より美味い」

 缶珈琲の味というのもいまいち良く分からなかったので、今度は缶珈琲も飲んでみようと考えながら、ふと研究の事について尋ねてみたくなった。

 思えば俺は自分がどんな研究をしていたのかも綺麗さっぱり忘れている。その研究室の準教授たる人が見舞いに来てくれているのだからこれ以上の話題はないだろう。そう思って質問してみたのだが、

「記憶を無くしても君は真面目だな。一応記憶障碍と言う病気を患った病人なのだから、記憶が戻るまでは小難しい事を考えなくとも良いというのに」

 と、不平を返された。だが、そうは言いながらも十川先生は微笑している。それほど厭な話題でもないのだろう。もしこれが厭な話題であったなら、十川先生は自分の研究を厭々ながら行っていることになる。この微笑はそうではない事の証だろう。

「研究の話をしても良いが、君はベースとなる心理学の知識やらも忘れているのではないか?というか、どの程度の学問的な知識を覚えているのだろう?例えば、基本的な四則演算はできるのか?」

 これに関しては、昨日斉藤と調査をした。つまり、俺がどの程度の段階までの学問的な記憶があるか調べてみたのである。それを探ることで、どの程度の期間の記憶を失ったかを探ろうとしたのである。

 結果として、高校数学程度なら見覚えがある事が発覚した。見覚えがあるというのは、高校数学に出てくる公式の名前や数式に覚えがあったと言う意味で、そこに書かれた文章題が全問完答出来たかと言えば、そんな事は無く、解けるものもあれば解けないものもあった。

 しかし斉藤に依れば「これが全問正解ならお前はもっとレベルの高い大学に居る筈だ」との事なので、おそらく高校までの平均的な教養は記憶に残っている様である。親の顔や名前は思い出せないのに算数は出来る、というのは人間の記憶の優先順位として正しくない気もするが、なって仕舞った以上、文句を言っても始まらない。

 一方で大学に入ってから学んだこと、特に研究関係についてはそのベースとなるであろう心理学や哲学、脳科学といった分野の知識はほとんど覚えていなかった。実のところ俺は其れがかなり不安だった。

 医者によれば一時的な記憶障碍で、暫くすれば徐々に恢復するだろうとの事だったが、今のところその気配は無い。少なくとも俺には思い出せる気がしない。それとも、何か契機さえあれば、漫画やドラマの記憶喪失者がそうであるように、一瞬にして全てを思い出せるのだろうか。

「そうか、高校までの知識はあって、大学で学んだことはあまり覚えていないのだな」

 十川先生は、「ふむ」と顎に手を遣りながら一寸の間考えた後

「いや、この際寧ろ好都合だ」

 と良く解らないことを呟いた。斉藤に続き本日二度目の意味不明な発言である。誰にとってどの様に好都合なのか、その旨を尋ねると、

「君に対して悪意が在る訳ではないのだ。記憶も早く戻って欲しいと心から思っている。そこは信じてくれて良い」

 そう言って珈琲を一口飲み、続けて

「実のところ、私はうちの研究室に入る学生には、事前に心理学や哲学と言ったものを学んでいて欲しくないのだ。そういった一見体系だった学問としての心理学や哲学を学んでしまうと、どうしても固定観念や先入観を抱いてしまう者が多いのだ。

 フロイトをはじめとする著名な心理学者、哲学者は確かに偉大だが、それは飽く迄も自分の見解を体系立てて学問として確立させた事に意味が在るのだ。其処へ来て、我々がさも知った風な口調で彼らの見解を自分の物の様に語るのは、私は間違っていると思うのだ。そういった過去の偉人たちの功績は参考にするべき物ではあるが、其処に自らの知見を見出せなければ只の真似事に過ぎない。そういう意味で、今の君はそういった先入観を持たずに居る。今の君はとても無垢な状態で物事を考えられる状態に在ると思うのだ。まぁ、高校までに個人的な興味で心理学等々を学習していたのなら話は別だが。そういった事はあるのかい?」

 「多分、ありません。この学部に通っているのだから、心理学や脳科学に興味はあったのでしょうが、高校数学の知識の様に定着している哲学の知識はありませんし、大学以前は理系学生だった様ですから」

 「いや、理系だからこその哲学と言うのも私は在ると思うがな。まぁ、とりあえず君の現状は諒解した。やはり今の君は興味深い」

 研究対象として、と付け加えて十川先生は悪戯を企んでいる子供のような微笑を見せた。そして「すまない、冗談だ」と言った。しかし先の微笑から察するに半分くらいは本気なのではないかと思う。

 「気を悪くしないでくれ。さっきも言ったが、悪意はないのだ。ただ、君がベースとなる心理学哲学等々を覚えていないのなら、いきなり大学の研究室レベルの話をしても珍紛漢粉(ちんぷんかんぷん)だろう?だからここは一つ、私と幾つかの話をしてはくれないか」

 「話?話というのは・・・」

 「何、一寸した問答のようなものから世間話、それから君の得意分野である理系的な話もしようかな」

 「僕は理系を専攻しただけで、別に得意ではないですよ。高校の成績は寧ろ文系科目の方が良かった様ですし・・」

 というか、理系的な話が心理学や哲学と結びつくのだろうか。現代科学とオカルトというのは水と油のような極めて親和性の低いモノのように思うのだが。

「構わないさ、別に難しい数学物理化学の問題を吹っかけるつもりは無いからな。まぁ、思考実験的な事を、先入観を持たない君と考えてみたいのだ」

 思考実験という言葉には俺も興味を持った。有名所の「アキレスと亀のパラドックス」等も思考実験の類だろう。それなら俺の記憶にもある。いつの頃かは分からないが、それについて一人で悶々と考えたことがあったような気もする。

 結局、納得の行く結論には及ばなかった気もするが。

「まぁ、物は試しだ。ここは一つ君に手品を見せよう」

 唐突に十川先生は言った。

 世間でも変わり者で通っているという話は聞いていたが、記憶喪失で病床にいる男へ掛ける言葉としては珍妙な一言だと思う。しかし暇を持て余してまだお釣が出るほど退屈な病院生活の中では非常に面白そうな提案である。しかも先程の前ふりから察するに単に手品の腕を披露したい訳ではないだろう。その点はお互いのアイコンタンクトで直ぐに解った。なので俺は何も言わず、手品を見せてもらうことにした。

「ここに珈琲の入ったカップがある。これをテーブルの右端のほうに置く」

 十川先生はそう言いながらベッドに備え付けの簡易テーブルの右端へ俺の珈琲カップを移動させた。

「良いか、このカップの位置を覚えておくのだ。・・覚えたか?では目を瞑ってくれ」

 どういう手品なのかこの段階ではよく分からなかったので、素直に目を瞑った。

「目をしっかり閉じたか?薄目で見ていないだろうな?」

 そういってかなり執拗に本当に目を閉じているかどうか確認された。小学生ではあるまいし、そんな事をしてまで手品の種を見破ってやろうとは思わない。というより、目を閉じなければ成功しない手品なのだから、大した物ではないのだろう。

「よし、目を開けていいぞ」

 俺は目を開いた。見ると珈琲カップがテーブルの中央へ移動していた。

「・・・・はい?」

 思わず疑問符を投げかけてしまった。これが元来の俺の性格なのだろうか。いや、流石にこれは誰でも同じような反応をするのではないかと思う。

「どうだ、すごいだろう。カップが自ら移動したのだぞ?」

 俺は揶揄(からか)われているのだろうか。勿論、先ほどの疑問符は「不思議だ、何故珈琲カップがひとりでに動いているんだ?」ではなく「こんな幼稚な真似をして一体先生は何がしたいのだろう?」という点に対してのそれである。

 「先生が動かしただけじゃないですか」

「何!?矢張り薄目を開けていたのか!君という奴は小学生でもあるまいし・・・」

「いやいや、見てないですよ。でもそうとしか考えられないじゃないですか。此処は個室の病室で、此処にはカップを動かせる人間は僕と先生の二人です。で、僕は何もしていないのだから、珈琲カップを動かしたのは先生でしょう」

 「だから言っただろう、カップが自ら動いたのだ。私は目を開けていたからその様子をじっと見ていたのだぞ」

 笑っている。明らかに何か企んでいる。

 「君の言うようにこの病室には君と私の二人しか居ない。そして君はカップが動くのを見ていないと主張し、私は見たと主張する。これは見ていたのだから私の主張の方が正当性があるだろう?」

 そうだろうか。お互いが嘘を付いていないならそうかもしれないが、いくら記憶喪失とは言え、それこそ小学生でも「それは先生が動かした」と主張するだろう。そう言うと

 「では、私が動かしたことを証明できるかね?」

 と宣った。如何やら此処からが本題なのだろう。

 「証明は出来ませんよ、指紋採取でもすれば出来るかもしれませんが、でも、物理的に先生が動かしたというのが一番自然でしょう?」

 「一番自然だとそれが事実になるのかい?因みに指紋を取っても何の説明にもならないぞ。私が君の珈琲を淹れたのだから、私の指紋が出るのは当たり前だろう。話を戻すが、一見不自然なことでも不可能でないことならば、五番目、百番目に自然な移動方法が事実かもしれないぞ。例えば、君が目を瞑ったのを確認してから私の合図で看護師が入って来てカップを動かし、君が目を開ける前に部屋から出て行った、とかな。」

 「それは不可能じゃないでしょうが、わざわざそんな面倒なことをする必要が無いじゃないですか。でもまぁ、証明可能かどうかという点については・・・つまり先生は、さっきの僕の主張と先生の主張は対等だと仰りたいんですか?」

 「流石はうちの研究室を選んだだけの事はあるな。察しが良い」

 とても嬉しそうな表情である。笑顔だと少し幼さを感じさせる顔である。

 「その通りだよ、一之瀬君。君が見ていなかった以上、君の主張も私の主張も対等なのだよ。それどころか、どんな突拍子の無い方法でも珈琲カップを動かせる方法があり、それが此処で実行可能な方法ならば、君にとっての真実は無限にあるのだ。さらに言うならば、例え私がカップを移動させるところを君が目撃していたとしても、それを私が認めなければそれを証明する事は出来ないんだ」

 「何故です?見ていたのならそれで完結でしょう?民間人でも現行犯逮捕はできるんだと、昨日テレビで見ましたよ」

 「現行犯とは人聞きの悪い。珈琲カップを移動させると逮捕されるのかね、この国は。まぁ、現行犯逮捕というのは、加害者が居て被害者が居て、その加害者が第三者に捕まる、あるいは被害者に返り討ちにあって捉えられる場合だ。この場合普通なら目撃されている以上犯人も言い逃れはほぼしないだろうし、まさにその場で捕まっているのだから言い訳の仕様がない。ただし」

 そこで一度先生はカップに目を遣り

 「その場合でも、過去を証明するなんて事は誰にも出来ないんだ。そんな事を言ってしまっては元も子もないから、一番現実的な―さっきの君の言葉を借りるなら一番自然な状態が便宜上事実として採択されているに過ぎないんだよ。例えば、この世界は五分前に創られたという説だって誰も否定は出来無いんだ。でも普通はそんな事は思わない。自分には自分の過去があり今があり未来があると信じている」

 未来を信じるというのは何となく解る。未来とはこれからやって来るものだ。しかし、過去もまた信じるものであるのだろうか。過去とは既に在った事の集積であり、その事実は人間が信じるという曖昧なものではなく、厳然と横たわっていて、現在から遡って信じるような賜物ではない様に思う。


 いや、そんなことはないのか。


一寸ちょっと待ってください、それじゃ僕が昨日見たテレビのニュースはどうなるんです?僕は確かに昨日殺人事件のニュースを見た。僕は記憶障碍ですが、それはある一定期間の記憶が欠落しているだけで、昨日の夜から現在までの記憶は連続しています。五分前に世界ができたとは思えません」

 病室で目覚めてからの記憶は明瞭としている。眠っている間を除けば、確実に連続した記憶を持っている自信が有る。

「それは君の言葉通りそう思えないだけだ。五分前、まぁ別に一分前、一秒前でも構わないが、此の世界が創られた瞬間に、君の昨日から現在に至る過去、もっと言えば君が生まれ幼稚園小学校中学校高校大学と進学し記憶喪失になって入院しているという記録や記憶そのものが生み出されたとしたら、君は時間的連続を持つ世界に対して何ら疑問を抱かない筈だ」

 「そんな・・・全ては思い込みであるということですか?」

 「その可能性も否定出来ないというだけさ。過去は確認の手段が無いからな。そういう意味では、君が見ているこの世界は全て幻想であるという仮定だって否定出来ないさ」

 明瞭言って、俺は少し混乱してきている。世界が五分前に出来たかと思えば、今度はその世界自体が瞞(まやか)しだと、この先生は述べている。今まで俺が経験してきたものと言うのは、そんなに簡単に揺らいでしまうのか。まぁ、記憶がないので既に揺らいでいるような物だが。思考が停止気味な俺は考えを纏め切る事ができないまま、やっと

 「どういうことですか」

 とだけ口にした。漠然とした質問である。それでも、先生には俺の意図が、混乱している俺以上に伝わったようで、饒舌かつ聡明な準教授は嬉々として語り始めた。

 「君が認識している世界と言うのは遍く五感、つまり視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、さらに第六感・・が存在するかどうかは一旦置いておくとして、そうした器官から入力される刺激を脳の各分野が組立てた結果だろう。機械で例えるなら五感と言うのはセンサーに相当するわけだな。センサーからの入力を電気信号に変換し、コンピュータ、つまり脳で意味のある情報に置き換えられている訳だ。では、センサーに不具合が起こったらどうなると思う?」

 「コンピュータ側は誤った認識をするか、エラーや警告が出るのではないですか?」

 「そうだな。それは人間でも同じなのだ。基本的に人間の五感から入力された刺激も電気信号として脳に伝えられるからな。例えば錯視などは如何に人間の視覚が曖昧に世界を視ているかを物語っているだろう。放射状に伸びた直線上に平行線を重ねると、平行線が膨らんで見えるとか、同じ色でも背景色が変わるとまるで別の色に見えるとか、そういった類のものだな。これはある意味ではエラーに相当する訳だ。

 まぁ、このエラーこそが、人間らしいといえばらしいのだが、而してそれは事実を認識しているとは言えない。事実は事実として確固たる存在だが、それを認識しているのはいつも我々の脳なのだ。

 そこで、だ。そんなエラーだらけの脳みそに意図的に刺激を加えたら、しかもかなり精密に五感からの入力を再現したような電気信号を送り込めるとしたら、脳はどう判断するだろうか」

 恐ろしい話だ。何処がどの様に恐ろしいかは自分でも良く解らなかったが、漠然と恐い、いや、怖い、と感じた。

「錯視ごときで騙される脳は、その擬似信号を五感からの入力として受け止めてしまうと?」

 「その可能性は高いだろうな。そしてその情報に基づいて、脳は世界を構築してしまう訳だ。ただ単に電流が流れたというだけで、暑いだの寒いだの、美味い不味い、心地よい、痛い、空が青い、夜は暗いといった世界を、脳は勝手気儘に想像し創造する訳だ」

 目の前のこの助教授も只の電気信号なのだろうか。そうならばその信号を俺の脳に入力した輩は相当変人なのだろうな、などと無為な感想が頭を過ぎった。

 「取り留めのない話ですね。それが事実だとしても、僕にとっての世界は此処にしか在りません」

 自分の世界。自分の脳だけが紡げる世界。今はその一部が欠落している世界。

 「それは皆そうなのだ。個人には個人の世界が在る。意図的な電気信号の入力で創られた世界だとしても、それを解釈して構築しているのは個人の脳味噌だ。同じ信号でも私と君では違う反応を示すだろう。それはこれまで君が経験してきた日常と何ら変わらない。同じ雨が降ったという状況に対して、日照り続きで水不足の地域の人にとっては恵みの雨、土砂災害に悩まされる地域の人々にとっては厄災の雨という様に、同じ入力に対して百八十度受け止め方が違う。これは良くある話だろう」

 つまりは入力に対してのリアクションが個人の世界を規定していることが肝要であって、入力自体は飽く迄もリアクションを起す契機に過ぎない、ということだろうか。

 「そんなところだ。どこぞのオッサンが私達の脳に電極をプスプス刺してリアクションを観察していたとしても、我々はそれを知覚することは出来ない。

 知覚できるのはそのオッサンが流した電流に対応して脳が構築した世界だけだ。我々の世界を構築しているのだから、そのオッサンは最早『神』にも等しい存在だな」

 神様をオッサン呼ばわり、いや、オッサンを神様呼ばわりしているのか、何れにせよ何処かの宗教団体なり何なりにバッシングを喰らいそうな発言である。

 「要は個人の受け止め方次第、と言うことですか」

 「それこそ取り留めが無いがな。まぁ、ざっくり言ってしまえばそう言うことだ。まだまだ語りたいことは山のようにあるが、君もまだ病床の身だからな。今日はこの辺りでお暇するよ。少し仕事も残っているしな」

 そう言って、椅子に引っ掛けてあった白衣を手に取り、「また話をしに来るよ」と言って先生は帰って行った。

 簡易テーブルには、先生が、或いは電気信号が、或いは看護師が、或いはどこぞのオッサンが、或いは神が動かした珈琲カップにすっかり冷めて香りの消えた珈琲が残っていた。思えば会話に夢中で一口も飲んでいなかった。脳に電極を刺すオッサンを想像しながら、冷めた珈琲を一口飲んだ。

 「ごはっっ!!!」

 思い切りむせた。珈琲カップの中身は冷めた珈琲ではなく醤油だった。

 

「個人の世界認識とはその程度の物なのだよ」


 帰ったはずの十川先生が病室の出入り口の引き戸からひょっこり顔を出し、白衣の内ポケットから醤油の入った小瓶を覗かせ、実に愉快そうに笑っていた。

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