アヒルチャン

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手記.txt

 私がそれと遭遇したのは、ある夜のことだった。

 その日は確か金曜日で、翌日に特に予定もないということで、友人数人を自宅である狭いアパートの一室に招待し、夜通し飲み騒ごうという計画を立てていたように記憶している。というのも、この記憶を担保してくれる者は私以外存在しないためである。私たちは18時頃から早くもアルコール類の缶やら瓶やらを開栓し、顔を紅潮させながら、やれ誰が誰と付き合っているだの、やれ何とかという店に美人の店員がいるだの、そんな下らない話を極めて下劣な表現も交えつつ言い合っていた。

 やがて6時間も経つと、大量に買い込んだと思っていた飲料や食品も尽き、誰か一人が近所のコンビニへ追加の買い出しに行くことになった。その頃には出席者の全員がアルコールに中てられ、すでに身体が浮遊しているような感覚であったが、飲み明かすという当初の計画を頑なに完遂しようという共通の意識が私たちを更なる飲酒に駆り立てたようだった。ただじゃんけんで決めるというのも面白くないと誰かが言い出し、私は電話台の上のメモを一枚取って阿弥陀籤を作成した。完成した籤を参加者一人ずつに順番に回し、名前を記入させた。最後に私のもとに戻ってきたメモ用紙に書かれたそれぞれの名前は線の乱れよう甚だしく、数人は辛うじて読める程度の文字らしき図形を記していた。私は最後に残った線の上に自分とわかるよう丸印を付け、籤の当たりを確認した。当たりは丸印に繋がっていたので、のたうちまわるミミズの如き乱筆を解読する手間は不要だった。

 私は家を出てコンビニへと向かった。自宅に他人だけを残していくことに多少の抵抗はあったが、彼らにも最低限の良識はあるものだという殆ど期待に近い信頼でそれを塗りつぶした。今思えば私の脳もアルコールの多幸感に鈍らされていたのだろうが、そのときにそれを自覚する術などなかった。事実、私はこの一件ののち、冷蔵庫に入れておいた秘蔵の洋菓子数個が盗み食われていたことに気付いたのだった。

 コンビニは近所といえど、徒歩で10分ほどかかる場所にある。酩酊の中で自転車を運転しないだけの良識を持ち合わせていた私は、肌寒い夜風に吹かれながら、ふらつく足取りで歩き始めた。平時の二倍ほどの時間をかけて目的の店の前へ辿り着いたときには、幾分か酔いも醒め、冷静な判断力を取り戻したように思えた。というのも、ここに来て私は携帯電話を家に忘れてきたことに気づいたからである。何を購入するべきかをまったく決めていなかった私は取り敢えず入店し、その取り戻した知性でもってなるべく安く量の多いものを選び、買い物を済ませた。

 私は重いビニール袋を抱えるようにして持ち、帰り道を歩き始めた。腕時計もしていなかった私は、ふと現在の時刻を確認したい衝動に駆られ、確か帰り道の中間地点あたりにある公園に時計が立っていたことを思い出した。深夜の公園は数本の電灯の光があるのみで殆どが暗闇であったが、時計周りは幸いある程度の明るさが確保されていたように記憶していた。

 私は公園入り口前まで歩くと、そこから薄ぼんやりと照らされた時計の文字盤を確認しようとした。しかし灯りが弱く、闇の中に白い円が浮かぶばかりで数字や針といったものは一切視認することができなかった。私は仕方なく、公園に入り時計のそばに歩み寄った。時計まで数メートルの位置に近づいて漸く、私は0時59分という時刻を得た。家を出てから少なくとも30分以上は経過したということになる。私はそれを知ったことでえも言われぬ満足を抱き、踵を返した。

 そこで私は奇妙なものを見た。先ほど私が通ってきた公園の入り口に、奇妙な黄色の光があったのだ。それ自らが発している光というよりも、何らかの光を受けて反射されたもののように見えた。私は奇怪に感じつつも、その光へと近づいていった。距離が縮まるにつれ、やがてその光が人の形をしていることが分かってきた。つまり何ということはない、それはただの人影であった。私は安心して力強い一歩を踏み出そうとして、あることに思い至り足の動きを止めた。

 この時間に公園の入り口で立ち止まっているだけの人間とは何者か。その者が放つあの鮮烈なまでに黄色の光とは何か。あれは人の肌が放つ光沢の色ではない。つまりあれは何か普通ではない……人ならざる者なのではないか。夜闇も私のこの荒唐無稽な不安を助長し、私は多少遠回りになるとしても別の出口から公園を去ろうと決心した。

 そして私が体の向きを変え、その光から目を逸らしたとき、一際強い夜風が私の体に横から吹きつけた。そして私の脳を直接振動せしめるような距離感の掴み難い、冷たい響きを持った女の声が、その風の来たる方角……すなわち私が先程まで見つめていた光の方向から聞こえてきたのだ。

「すみません、道に迷ったのですが」

 私は跳ね上がり反射的にその声の方を向いた。そして私は思わず後ずさり、バランスを崩し転倒し尻餅をついた。

 私の振り向いたすぐ目の前には、鮮やかな黄色の肌をした女性の顔があった。その顔立ちこそ美人の要素を揃えていたが、夜を写したような色の長い髪、すべての光を飲み込むが如き虚無を抱く黒い瞳、そして何よりその暗い色に不釣り合いなまでに鮮烈な黄色の肌が、彼女が人の範疇にある者ではないと私に直感させた。彼女は倒れ込んだ私に、腰を曲げて礼をするようにして顔を近づけると、先程と同じ言葉を繰り返した。

「道に迷ったのですが」

 私は何と答えるべきか分からず、ただ呆然として座り込んでいた。彼女は私に声が聞こえていないと思ったのか、私の力無く伸ばされた足を跨ぐように近寄り、さらにその黄色い顔を私の視界をすべて塞ぐほどの距離に近づけて繰り返した。

「道に迷ったのですが」

 私は間近にその底無しの闇と目を合わせてしまい、脳が次第に機能を放棄していくような感覚を味わった。彼女の目を長く見つめていては危険だと感じ、私は目を逸らし、倒れたときにそばに転がったビニール袋に視線を向けた。袋の口からは購入した酒の瓶が半分ほど覗いており、ゆっくりと左右に転がることを繰り返していた。その反復を意味もなく見つめていると、突然袋に向かって黄色の手が伸びた。その手は袋を探り、そして500mLペットボトルのジンジャーエールを取り出した。そのときになって私は漸く、例の黄色の女性が私の目の前から移動していたことに気づいた。女性はジンジャーエールのキャップを捻り開封すると、先程の不気味なまでの無表情から打って変わって、にこやかな笑みをこちらにくれながら言った。

「いただきます」

 そして彼女はその言葉通りに、ジンジャーエールを両手で持ち、喉を鳴らして飲み始めた。私は何が何やら分からず、取り敢えず立ち上がると服についた土を払った。そして転がったビニール袋を拾い上げると、ジンジャーエールを心底幸せそうに飲み続けている黄色の女性に再び目を向けた。

 確かにこの女性は人ならざるものかもしれないが、先程見せた笑みや今見せている表情から受ける印象は、決して悪意のあるものではないと感じた。或いは、これは超自然的な現象の遭遇体験として理想的なのではないかとすら思えた。少なくとも今の彼女に害意は無い。このまま少しでも会話が成立したり、ともすれば親睦を深めることもできるのではないかと期待を抱いた。そして私は愚かにも、この女性がジンジャーエールを飲み終わるまでの数分を、ただ棒立ちで過ごしていたのである。

 彼女はジンジャーエールを飲み終わると、律儀に「ご馳走さま」と発言した。そして私がまだ近くに居たことに不思議そうな表情を見せた。

「どうして逃げなかったんですか?」

 私は数分の間に考えていた質問を投げかけようとした。貴女は何者なのか。何の目的でここにいたのか。道に迷ったというのはどういうことなのか。何故ジンジャーエールを飲んだのか。しかし、私がそれを口に出そうとした瞬間、彼女の声が遮るように響いた。

「なら、食べてもいいってことですよね?」

 彼女の目の色が、文字通り変わった。彼女が瞬きをした一瞬で、彼女の白眼は黒く染まり、虚無の黒をたたえていた瞳に毒々しい赤紫の光が灯った。私はその光に本能的な畏怖を抱き、持ち上げていたビニール袋を取り落とした。嫌な破砕音がして、ビニール袋から液体が漏れ出し、私のスニーカーを濡らした。逃げるべきだと感覚が告げた。私は情けない悲鳴を上げ、一心不乱に公園の出口へと駆け出した。

 最短距離を走ったかどうかなど分からない。とにかく私は無我夢中で走り続け、漸く自宅アパートに辿り着いた。息を切らし、ドアを開け放ち、安全と思われる部屋の中に飛び込んだ。

 そして私は不自然なまでの静寂に気づいた。部屋の中には友人の誰も居なかった。帰った筈はない。その証拠に、床には彼らが飲み散らかした缶やツマミの袋などが散らばったままだ。私は部屋の壁に掛けてある時計を見た。短針は1、長針は12を指している。これは、明らかにおかしい。

「逃げられませんよ」

 私はその言葉の聞こえた方向にぎこちなく向き直った。そして、直立姿勢のまま私の目の前に浮かぶ、先程の黄色の女性の姿を見た。毒々しい瞳の光が私を射竦めた。彼女は口を開いた。鋭く尖った牙が二本、両端で光っていた。

「では、いただきます」

 彼女が浮かびながら迫る。眩く光る黄色が私の視界を埋め尽くし、首筋に鋭い痛みが走った。そしてその直後、私の意識は闇に落ちていった。


 気がつくと私は自室の床に倒れていた。開け放たれたドアから吹き込む風の冷たさに覚醒を余儀なくされ、私は気だるい身体を起こすと、床に散らばった空き缶を意図せず蹴り飛ばしながら玄関へと向かった。ドアを閉め、鍵をかけた。そして散らかった部屋を振り返り、溜息をついた。洗面所に向かい、鏡に映る自分の姿を見たとき、私は昨夜のことを漸く思い出した。

 私はすぐに、昨日集まった友人それぞれに携帯電話で連絡をとった。不可思議なことに、誰もが昨夜はずっと一人で過ごしていたと答えた。私の部屋に遊びに行ったと答えた者は一人もいなかったのだ。

 だが、昨夜に私が経験したすべては確かに現実であった。それは私が翌朝に一人で片付けた十数個の空き缶や空き瓶と、彼らの乱筆の署名の残る阿弥陀籤、そして私の首筋に残る小さな二つの傷跡が示している。私は、私の経験したこの怪異のすべてがいつか、私の友人たちの記憶と同様に消え去ってしまうことを怖れ、それに対するせめてもの抵抗としてここに、事件の全貌を書き記しておくものである。そして畏れよ、かの黄色の怪異は私を


(21歳 大学生・男 遺品より)

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