ヘブンズケイブ

蚊帳ノ外心子

ゴブリン

 一面に広がる澄んだ空。青い天井はどこまでも続き、そこに白色と灰色で描かれた入道雲が存在感を出していた。

 地平線を見れば草が生い茂る一面の絨毯。延々と続いている草原と朽ち果てた道路の上で彼女はポツンと立っていた。

 頭はボーッとして考える事を止めていた。ただ目の前にある大空と大草原と蝉の音にただ身を寄せて五感を感じることだけだった。


 ――このままじゃ何も始まらない。


 どこからか頭の中で警鐘された感覚に陥ると瞬きを二回して我に返った。


 ――ここは何処?


 それを最初に際限なく湧き上がる疑問に不安と恐怖を知った。

 途端に自分の置かれている状況が自分の理解が及ばない事が解った。

 そして最後に、自分が自分自身を解っていないことが解った。

 だがそのすべてが現実でもあった。白いワンピースを纏っただけの華奢な少女は長い黒髪を頭から鷲掴みにしてその場にうずくまった。

 恐怖に涙を流す訳でもなく、不安に体を震わす訳でもなく、ただただその場にうずくまった。



 どれぐらいその姿勢だっただろう。足が限界に来たのを皮切りに立ち上がった。だからと言って何も解らないというのに変わりはなかった。

 一応、辺りを見回してみた。草しか生えていないだだっ広い草原と思っていたが、左を向くとそこに建物があった。

 その建物の周りだけは草に覆われずに誰かの手が行き届いているのが分かる。

 和風建築の二階建て。純白の漆喰と鈍色の瓦。そして玄関前には看板が立っていた《ヘブンズケイブ》と書かれた横看板。

 その真下の引き戸に彼女は手を掛けた。




「………ここだよな?」

 古い街並みが残る商店街の一角。

 自動車が絶えず行き交い、平日の忙しなさを演出する。

 そこに、紙切れ片手に辺りを見渡す男が、人の流れから外れて路地裏に消えて行った。

 路地裏と言っても光が入らないだけで汚くはない。多少湿ってはいるが、臭くは………いや臭い。

 ここで商売をしている連中は人間と違ってナマモノを好むから、その腐った悪臭が口から溢れるのだろう。しかも風通しも悪いから臭いが篭もる。我慢できる範囲ではあるが。

 そんな路地裏にある商店の一角。今時鑑賞するしか価値の無い剣や杖などの武器が展示してある店でその男は止まった。

「おやおや、旦那もこういうのがお好きで? やっぱり、武器は男のロマン。ちなみに今人気なのはこういう小さめの短剣ですぜ」

 不揃いな歯が見える度に漏れる魚の腐った臭い。尖った耳と人間の半分ほどの背丈。海松色(みるいろ)の肌から覗く大きな目玉。身なりはそれなりに整えてある。と言っても人間の古着をゴブリンサイズに縫い合わせているのは素人目にも分かる。

「へぇ、こんなのが人気か」

「ヘッヘ、どうです? 安くしときますよ。もちろん長い物だってありますぜ」

 ゴブリンが背中を見せた時、ズボンのポケットに異様に白い骨が見え隠れしたのを見逃さなかった。

「今日は商品を買いに来たんじゃないんだ。その骨に用がある。」

「!?」

 咄嗟に片手間で後ろポケットを隠したゴブリン。よほどびっくりしたのか、元より大きな目玉を更に大きくしてその茶味を帯びた深い黄緑色の肌から冷や汗が一筋流れた。

「あんた………そっちのもんか?」

 上下黒のイートンコートに丸眼鏡を掛けた男は、無言で姿勢を正してゴブリンを見やった。

 その佇まいにゴブリンの店主は向かいの商店にいるゴブリンに目で合図を送った。

「付いて来い」

 ゴブリンは店の床の絨毯をめくってそこに隠していた取っ手付きの石畳を開けた。

 周りのゴブリンは一斉に店仕舞いを始めると男の背後に二人、他は武器を手に路地裏に隠れた。

 ゴブリンにしては手際の良い連携だった。しかしながら、そのイートンコートの男が信用に足る人物なのか、確証の無いまま連れていくのはやはりゴブリンと言ったところか。


 薄暗い洞窟の階段を灯り無しで下ること数十分。洞窟の先から灯りが見えた。そこは倉庫だろうか。左右に商品棚が並んでいるが中央は空けてあり、机が一つ置いてある。

「商店街の真下を勝手に掘って、路地裏で商売とは………さぞ、良いもん食ってんだろうな」

「何を言う。それも全部あんたらのおかげだろう?」

 本当にこの男を信用しきっている。当の男もここまでとは思っておらず、すぐさま辻褄を合わせる。

「そうだったのか。いや、こっちに来たのは初めてでね。色々教えてもらえるとありがたい」

「なんだ、新参か。まぁ、良くしてもらってる礼だ。それなりの交渉には答えよう」

 中央の机に乗り、交渉のテーブルだと言わんばかりに向き直ったゴブリンは、そこで自分の想像とはまったく違う光景に目玉を丸くした。

「………誰だてめぇ」

 イートンコートの男の背後にもう一人、ハンチング帽に厚着のジャケットを着た初老がタバコを咥えて立っていた。

「上は?」

「白と赤が片付けてくれた」

「またパンツの色で言ってると殺されるぞ」

 イートンコートの背後にいた見張りのゴブリン二人は跡形もなく消え、立っていた場所には灰だけが残っていた。

「ちなみにこのゴブリンはノーパンだ。趣味が悪いねぇ」

「自分の趣味を他人に押し付けるな」

 男二人がパンツパンツと連呼して、まるでアウェイと思わせないどころか、ホームだと言わんばかりの余裕ぶりに、机にいるゴブリンは目玉を更に大きくして手が震えていた。

「な、なんだてめぇらは………………一体………どうして…………」

「なぁ、ゴブリン。その《骨》の奴らから大事なもの預かってるだろ?」

 ようやく正気に戻ったのか、それとも本能が先だったのか。ゴブリンは奥の通路に逃げ込もうと後ろを振り返ったが、すぐに襟元を掴まれた。

「コラコラ、今更逃げてもしょうがないぞ。さて、奴らから頼まれた言葉、言ってもらおうか」

 すぐさま机に引き戻して仰向けにさせると頭を鷲掴みにして伏した。

「俺が口硬いのは知ってるだろ? だからこうやってケルタのゴブリンが庇護に――ああああああああああ!! 痛い! わ、割れる!!」

 少し力を入れただけで、ゴブリンは目玉に大量の涙を浮かべながら悲鳴を上げた。

 イートンコートの腕を引き剥がそうとするが、ゴブリンの華奢な筋力ではそうそう解けまい。

「御託はいい。さっさと吐かないと本当にこめかみから頭割るよ?」

 冷徹な、しかし一瞬足りとも視線を外さない眼にゴブリンは悟った。

 こいつは本気で殺しに来ていると。

「あ、アスガルド……9784938409029………」

 何かのパスワードなのか、羅列を口にしたゴブリンだが頭を鷲掴みにした手は一向に緩まなかった。

「こ、これで全部だ!」

 懇願するように涙を零すがこれが本当とは限らないのは目に見えている。

「どう?」

「パスワードの文字数は三十。足りないねぇ」

 二本目を吸い始めたハンチング帽の初老の言葉に、さっきよりもこめかみへの力が増した。

「嘘を吐くならもうちょっとマシな嘘を吐いてくれ。頼むよ」

 悲鳴とも取れない、獣の雄叫びに近いそれが倉庫中を、通路を駆け巡った。

「おいおい、やり過ぎだトニー。下のゴブリンに聞かれたぞ」

 少し本気になってしまっていた。

 ゴブリンは死んではいないが、呼吸を荒々しくして放心している。これじゃ、まともに聞けないだろう。


 ヅン、ヅン、ヅン………………


 直後に、重い振動が地下深くから鳴り出した。

 それは徐々に大きくなり、奥の通路から何かが這い上がってくるのは分かっていた。

「お客さんだ」

 ハンチング帽の初老――ジョン――の言葉と同時に上がってきたのは、通路より大きな巨躯を窮屈そうに押し出しながら出てきたゴブリンと同じ海松色をしたトロール。

 おまけにその巨躯に見合う棍棒付きときた。

「でっけぇ………」

 それがイートンコート――トニー――の最後の言葉だった。

 野球のスイングの様に振り下ろされた棍棒は、彼の胴体を引き千切らんとばかりに、強引に商品棚のある方へと吹き飛ばした。

「ハァ――ハァ――ベスタード……………助かった」

 失神一歩手前のゴブリンは、机の上で仰向けのまま体を動かせないでいた。

「酷いことするねぇ」

 降りかかった砂埃を払うだけで何食わぬ顔を見せるジョンに、なんとか起き上がったゴブリンは殺気の籠った声で言い放った。

「ついでだ。奴もやっちまえ!」

「モーン」

 言葉とは言えない言葉で返したトロールは、棍棒をジョンの頭上に振りかざし、そのまま目にも留まらぬ速さで振り下ろした。

「パワーに極振りってのもいいねぇ」

 しかしジョンは生きていた。ましてや傷一つ負ってない。

 しかも棍棒は柄の部分を残して無くなっていた。

「!?」

 ゴブリンは言葉も出ないほど驚愕し――

「?」

 トロールは何が起こったのか把握しきれず、疑問符ばかりが浮かんだ。

「モーン」

 しかしトロールにとってそれはどうでもいい。

 目の前に殺せと言われた男が生きているのだ。棍棒がなくとも自分の素手がある。

 残った柄をポイッと捨てて手の平をグーにして今度は殴り掛かる。

「でも、それでオツムが何も無いんじゃねぇ」

 今度は手が無くなった。

「………………………ボォアアアアアアアアアアアァァァァァアアァァァ!!」

 くるぶしから先のない右腕を眺めて一拍。理解が追いついたのか、激痛が襲ったのか、なんともトロールらしい遅まきの反応はその部屋を揺らした。

「ば、ば、ば………バケモノォ!」

 今度こそ逃げる。そう決意して奥の通路に逃げ込もうとゴブリンは無我夢中だった。

「よーっし! 捕まえた。今度こそパスワード吐いてもらうよ」

 しかし捕まった。あっけなく、簡単に。

「お、お、お前…………何で生きてるんだ………?」

 しかも捕まった相手が、先程フルスイングで商品棚の奥深くへと吹き飛ばした男。

 全身埃が被ったのだろう。真っ白になった黒のイートンコートを払う気もなく、再度こめかみを鷲掴む。

「お願いだ! 殺さないでくれ!」

 なんとも定型文かのような言葉。

「それはお前次第だ。さあ、パスワードを言え」

「べ、ベスタード!!」

 しかしそれに反応しない。いや、あれだけ暴れて喚き散らしていたトロールの声が聞こえない。

 フッと視線を逸らすと、そこには大量の灰と、あのハンチング帽の初老が立っていた。

「べ、ベスタード………どこ行った………?」

 ジョンはタバコに火を点けて一服するとこう言った。

「死んだよ」

 嘘だろ………と言いたげな目は絶望を語り、皮膚から溢れ出る冷や汗は恐怖を映した。

「頼む………殺さないでくれ。頼むから………」

「はいはいはいはい。殺さないから答えろ。ベサリウスから預かったパスワードの羅列を」

 それを信じてたのか否か、ゴブリンはコクコクと掴まれた頭を縦に振った。

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