君と詠う。

珀乃

第1話

ずっと何かを探していた。

この灰色に染まった世界で、何かを__


赤に染まった信号をぼんやりと眺めて真琴はギターケースの紐をぎゅっと握った。


仲が良さそうな家族が笑いあってる。高校生くらいの男女が高らかに声をあげた。車が目の前を通り過ぎて行く。


雑踏。喧騒。雑踏。雑踏……。


何もかもを捨ててにげることができたらなんて幸せなのだろう。真琴は目元が熱くなるのをぐっと抑えた。


信号が青に変わる。真琴は苛つきを踏み潰すかのように走り出した。

苦しくなったら、あの神社へ。走れ、走れ。灰色の世界を振り切るように、今はただ全力で。


茜色に染まった夕日が真琴の瞳の中にうつしだされていた。



***


この蓬玉楽ほうぎょくらく神社は歴史の古い建物である。朱色に染まった鳥居がずっしりと鎮座している。苔生した虎の置物が古よりある事を物語っている。だが大昔から存在しているにも関わらず目で見る限りでは少しも荒れたり、廃れたりはしていない。真新しい訳ではないのだが、御神体や社から生気が感じられる。正直不思議に思うくらいにだ。僕は速くなった息を和らげるために大きく深呼吸した。

ここの空気は綺麗だ。それなりの都心に位置するが、ここだけは一切の汚れを感じない。何もかもが洗われて、喉の奥の言葉にできないどろどろが浄化されていくようだ。鳥居をくぐって御神体に軽く挨拶してから、いつもの大きな石の上に腰を下ろした。辺りを見渡しても、不思議とこの時間帯はいつも神主さんや他の参拝客はいない。


ここに来る理由は一つ。とても落ち着くのだ。何故かこの石の上に座っていると、誰かに見守られているような心の底の安堵が感じられる。そしてここは歌の練習場所でもある。流石にギターを弾いたりはしないのだが。


先刻よりも赤赤しく木漏れ日が今日ばかりはブルーな気持ちに誘う。


小さく息を吸って、大学の祭りで歌うことになっている歌を口ずさもうとして__やめた。


僕は歌うことが好きだ。幼い頃に両親を亡くして施設で過ごした僕は、歌うことで自分の居場所を見出してきた。だが最近ではそれは間違いだったと気づいた。誰も僕の歌なんて本当は聞いていないのだ。居場所なんてはなからどこにもなかった。

僕の居場所は両親と一緒に死んだ。


古き父の言葉を思い出す。

『音楽は楽しくなきゃつまらないだろ?』

大きな掌が頭を豪快に撫でる。


その言葉に今は息がつまりそう。


「…でも、父さん、楽しい歌は苦しいよ、歌えないよ」


驚くほど掠れた声が喉の奥から絞り出された。


自動車の事故だった。幼かった僕はあまり覚えてはいないけれど、父と母と僕で旅行へ行った帰りに事故は起きたらしい。僕だけが生き残った。


僕もあの時、死んでしまえば……


そう思ったその時、美しい蝶が目の前を横切った。勿忘草色の羽から輝く鱗粉を散らしている。

こんな美しい蝶がこの世に存在するのか。

灰色に染まって見えた世界に始めて色を感じた気がした。

気づけば両目から一筋の雫が流れる。最初は何かわからずに、拭った。けど拭っても拭っても止まらない。溢れ出て、溢れ出るのだ。


__どうしても辛い時に歌う歌を教えてあげる。


記憶の蓋が開いた。優しい母の声が、頭の中で再生される。覚えている、教えてもらったあの歌を。


日はすっかり沈んでいるが、星々の煌めきがほのかに明るい。

再び小さく息を吸い、ゆっくりと目を閉じた。すると境内の木々が風でざわざわと揺れた。






あなたの声が聞こえる

それは星々の声

それは花々の声

それはせせらぎの音

桜散る季節にあなたをきっと見つけてくれるでしょう


1人寂しい月が囁く

それは悲しみの嘆き

それは別れの挨拶

それは愛の訪れ

確かな決別の時は誰にでもきっとあるのでしょう


蝶が舞い、あなたは永遠を詠う

あなたの声に手を伸ばして






僕はここにいる、存在している。深呼吸して目を開いた。


ちかり、輝く。ふたつの黄金の瞳と僕の目が交わった。時間が止まったかのように風が止んだ。

大きな御神木の枝の上に青年が座っていた。青年というにはあまりにも貫禄を感じる着物姿なのだが。細い体躯のその青年は、真っ直ぐにこちらを見つめている。


それも少しも目をそらさずに、まるで僕の心の中を見透かすように。


美しく宝石のような鋭利なその瞳からは慈愛に満ちた、優しさを見た気がした。僕はしばらく息もせずにその青年に見入った。艶やかな黒髪に触れてみたいと思った。

「あ、あの…」

あまりに長い間青年がこちらを見るから、思い切って声をかける事を試みる。


すると青年は僅かに身体を強張らせると、驚いたように瞳を見開いた。そしてすっと音も立てずに枝から飛びおりた。黒布の着物に身を包んだ青年のその姿は飛んでいるように見える。僕は驚いて、大きく後ろにのけぞって後ろに倒れてしまいそうになった。

「う、わっ」

石はまあまあ高いし、ここから落ちたら絶対に怪我する。ぎゅっと目を瞑って衝撃に耐えようとしたがいつまで経っても痛みは来ない。ふわり__桜のような花の良い香りがした。何事かと恐る恐る目を開くと、金色の瞳の青年が僕を抱き抱えていた。


僕は思わず息をのむ。


細くて美しい指が僕の手首を優しく掴んでいる。そしてこちらをみて、微笑んだ。


「やっとお前に会えた」


その青年の声は予想よりも遙かに優しくて、温かかった。





これは、僕が彼を好きになるまでのお話。





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