月に雪、かかるは虹

K.night

第1話 出会い

お腹が減ったな。そんな感覚に、意識が現実へ浮上した。真っ暗な部屋の中、パソコンの無機質な光だけが僕を照らしていた。ディスプレイの右下で、今は深夜2時だと僕に知らせる。


 またやってしまった。ディスプレイの中では、やたら胸が強調された美女が炎の魔法を繰り出していた。このエフェクトを付ける為に、かれこれ14,5時間はトリップしてしまっていたようだ。しかしまだ作業は終わっていない。思い出すように背中を動かしてやると、バキバキと音がした。動ける。よかった、今回はまだ良い方だ。集中すると人間としての営みを忘れる僕は、よく椅子から滑り落ちてぶっ倒れるまで作業に没頭してしまうことが度々あった。とにもかくにも、食物を体に入れないと。取り急ぎ、デスクに常備している固形ハチミツに手を伸ばす。優しい甘さが舌の上で溶ける。ひとしきりその優しさを味わったあと、よし、と声を出しながら席を立つ。すぐに食べられるものは他になかった。近くのコンビニに行こう。僕はダウンジャケットを手に外に出た。


「寒っ!」


思わず声が出た。玄関の扉を開けるノブの冷たさに嫌な予感はしていたが、想像以上の寒さが僕を襲った。吐く息は長くその白さを残した。福岡の冬は意外と寒い。南国のイメージがある人達は、きっと驚くことだろう。マフラーを取りに入るか一瞬迷ったが、戻ればもう二度と外には出られなさそうだ。覚悟を決めて足を踏み出した。


 この寒さと時間、すれ違う人など誰もいなかった。自分の腕をにさすりながら歩く。ふと、違和感を覚えた。街灯の光だけが頼りの道に、その原因を探る。


 何かある?


見慣れた郵便ポストの奥に、何かしらの固まりがある。


 ゴミ?今日はゴミ出し日でもないのに。


街灯の明かりの下、黒にしか見えないそれは、泥縄のようなものが付いていた。


 何だ?


目を凝らすと、その固まりが動いた。そして、はっきりとそれだとわかる強い瞳にぶつかった。


「ひっ!」


声にならないほどの驚きに、僕は思わず走った。そのままコンビニに駆け込む。


「いらっしゃいませー。」


店員はそんな僕の様子など気にせず、いつもの調子で挨拶してくる。


 人?浮浪者?


心拍数の爆発を押さえるようにゆっくりと息をするように心がける。落ち着いてみたら、大したことではない。しかし、この寒空の中、あの状態で夜をこせるのだろうか。落ち着きを取り戻した僕は、本来の目的をこなすことにした。今の作業はまだまだかかる。この寒空だ、多めに買っておこう。賞味期限を見ながら、カゴにテンポ良く食料を入れる。


「あざーしたー。」


深夜、よく見る軽そうなその男はいつものイントネーションで言った。おそらくは学生だろう。寒さを覚悟して、外に出ると、すぐに景色が変わった。


「嘘だろう。」


ちらつく、を通り越して、待ちきれなかったとばかりに雪が降りしきりだした。その静かな美しさに一瞬気を取られたが、あっという間に冷たくなった手の感覚に、家路を急ぐ事に決める。大きなビニール袋を揺らし、足早に歩いていると、先ほどの郵便ポストが目に入った。


 この寒さと雪。せめてもう少しあたたかな場所を選べば良いのに。ほのかな心配を、その視線に乗せる。その人物は先ほどと変わらず、やたらに大きな瞳を自分に向けていた。一度冷静になった僕は、まともにその視線を受ける。その視線に、僕は猛烈は既視感を覚えた。その既視感から得る懐かしさに、視線をそらせない。僕はこの目を知っている。


「ごほっ」


突然、その人物は咳き込んだ。止まらない咳。これは、多分、ちょっとまずい。


「うちに来ますか?」


滑り落ちたその言葉に、自分で少し驚いたが、引き取ることはしなかった。


「立てますか?」


その人物はかすかに首を縦にふった。瞳以外はその動きしかわからない。


「じゃあ、少しだけ歩いて下さい。」


僕が歩き出すと、その人物はゆっくり立ち、付いてきた。相変わらず雪は、僕らを優しく埋め尽くしていくようだった。


 パタン、と優しくドアは閉まった。暖かさに息をつけるかと思えば、異臭が鼻をついた。発生源はもちろん隣の人物。


「ちょっと待っていて下さい」


僕は溜めていたチラシを並べて、お風呂場まで道を作った。お風呂場にタオルと自分の服。そして、ゴミ袋を手際よく置いた。


「すみません、お腹が減っているかもしれませんが、まずはお風呂に入って下さい。」


その人物はうなずき、チラシの道をゆっくり歩きだした。お風呂の扉を僕は開く。


「使い方は分かりますか?」


「狭いな」


「はい?」


聞き返す声の返答はなく、その人物は服を脱ぎだした。


「あ、脱いだ服はこの袋に。申し訳ないですが、これは捨てます。僕の服を着てもらっていいですから。」


うなずいたことを確認して、僕は浴室から出た。ほどよくして、シャワーの音が部屋に響いた。


 自分らしくないことをしている。出したチラシを片付けながら、自分の行動に自分で困り果てた。僕は人と関わるのが苦手だ。極力、関わる人間を減らして生きていくことを追求した結果、今のライフスタイルに落ち着いた。ゲームのグラフィックの仕事は、ほとんど在宅で出来るようにしている。友達、同僚、上司、どんな人との関係も何が正しいか分からずに、居心地の悪さだけがいつも増していく。しかも今回は通りすがりに拾った浮浪者だ。テンプレートなどまったくない関係性に、どうすればいいか今更ながらに分からない。それに、あの人物が男か女か、年齢すらまったく分からなかった。若そうな気配はあるが…。頭を悩ませていると、お腹が鳴った。


 とりあえずは腹ごしらえだ。


買ってきた袋を広げ、おにぎりにかぶりついた。米粒が五臓六腑に染み渡る気がする。少し落ち着くと、なぜこんなことをしようと思ったか、考える余裕が出来た。ふと見上げるとオフモードに入った大きなパソコンのディスプレイに自分の顔が映っている。


 そうか。あの目は昔の自分だ。


僕は赤ん坊の頃から擁護施設育ちだ。両親の記憶なんて全く無い。幸い、預けられた施設は教会の運営で、決してひどい扱いは受けなかった。むしろ、愛してくれていたと思う。それでも、僕はずっと自分には何かが欠けている気がしてならない。どこにいても、誰と接していても、空しい。そんな感覚を持つ人間の青春は最低だった。あまりの息苦しさに、何度、人生から逃げ出そうとしたか分からない。それなのになぜか死のうと思ったことは無かった。絶対に生き延びてやる。どこからわき出たのか分からないその執着に、必死にすがって生きていた。あの頃、鏡の中で見る自分は、自分ですらはっとするほど眼光だけがやたらに強かった。あの人もあの頃の僕のように必死で生きているのだろうか。一度開けた記憶のフタは、次々と嫌な思い出を出してきた。自分の姿を消したくて、マウスを動かす。また画面には炎の魔法を放つ女性キャラクターが現れる。最近「ペレ」という名前が付いたそのキャラは、リアルだが、到底現実にはいない浮き世離れした美女だ。


 その時ゴボゴボっという聞き慣れない音が聞こえた。何の音だろう。答えにはすぐにたどり着いた。おそらく浴室の排水溝が詰まったのだ。慌てて浴室に向かう。


「すみません、開けます。」


返事を待たずに、僕は扉を開けた。開けた瞬間、密封され、暖まった異臭に思わず口を押さえた。言葉を発することがためらわれ、そのまま浴室を覗いてみると案の定、排水溝が詰まって、汚水が溢れていた。慌てて、シャワーを止め、排水溝のつまりを取る。クレンザーをかけるとシューという音がして、水が勢いよく流れた。詰まったゴミを袋に捨てる。手を洗うと異臭も、外気に薄れてきた


「申し訳無いですが、また詰まったらこのようにして対処して下さいね。」


そう言ってフタを戻そうとしたところで、初めてその人物が僕を見ていたことに気付いた。その瞬間、息を飲み、慌てて浴室から出た。濡れた足がペタペタと音を立てる。一瞬なのに、息が上がっていた。


僕が拾って来た人物は絶世の美女だった。


付けっぱなしにしていたディスプレイでは相変わらずペレが魔法を出し続けていた。そんな人工的に作られた美女すら越える美女が今自分の部屋の浴室に居る。

 

 ソファーに座る僕の耳に浴室の扉が開く音がした。あれからどのくらいの時間がたったのだろうか。いや、一瞬だったのかもしれない。服を着るかすかな音さえ聞こえる気がした。実際はきっと自分の心臓の音の方がうるさいはずだが。ほどよくして、彼女は現れた。膨よかなのに、それを感じさせないくらいにすらりとした肢体、長く美しい黒髪、筋の通った形の良い鼻、赤く美しい唇、小さい顔に不釣り合いとも取れるほど大きな瞳は、それでいて切れ長で涼しげだ。直視をためらうほどの神々しささえ感じる美女だった。

僕はどうしていいかわからず、情けなく目を逸らした。


「腹が減った」


「はい?」


「腹が減った。これは食っていいのか?」


外見からは想像が付かないしゃべり方だった。

彼女はいつの間にかテーブルに並べていたおにぎりをしっかり掴んでいた。


「あ、ああどうぞ。」


おずおずと勧めると、彼女は袋に入ったままのおにぎりにかぶりついた。


「ちょ、袋からだして食べて下さい!」


「なんだ?すぐに食べられないのか?」


不思議そうな彼女からおにぎりを取り上げた。おにぎりの袋を開けると、その動作を彼女は興味津々に見ていた。お陰で緊張が少し解けていた。


「すごいな!魔法みたいだ!」


「現代の日本において、この動作を知らない人がまだ居るとは思いませんでした。」


そう言うが早いか、彼女はおにぎりに僕の手ごと食いついた。


「何をしてるんですか-!」


「ふぁらが減った。ふぁらが。」


慌てて手から離したおにぎりはあっという間に彼女の口に吸い込まれた。とてもそんな容量はなさそうな頬が、ハムスターのようにふくらんで動いている。そして、テーブルに残っているおにぎりを僕の前に差し出した。


「剥けと?」


嬉しそうに彼女は頷いた。納得いかないまま、おにぎりを剥くと、剥いたそばからおにぎりは彼女の口に吸い込まれた。


「そんなに詰め込むと詰まりますよ。」


注意した側から彼女は咳き込んだ。


「言った側からですか!」


僕は慌ててお茶を彼女に渡す。あっという間に500mlのペットボトルは空になった。

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