Anonymus

白井惣七

はじめに

解題

 白井惣七によって、ラテン語で「名の無き人」を意味する『Anonymus』と題されたこの奇妙な作品について、私たち読者はあらかじめ幾つかのことを把握しておいたほうがよい。そうでなければ、読者は白井惣七をこの作品の「翻訳者」としてしか理解できないからであり、このによって欺かれ続けることになるからである。だが、欺かれないようにすることは、読者にとって望ましいことなのだろうか? 白井惣七は、しかしながら、この作品において読者を欺き続けることを意図していたのである。読者が読み間違えることを望んでいるのである。それならば、私たち読者は、白井惣七の策略どおりに、欺かれ続けながらこれを読み、読み間違え続けるのが望ましいのではないだろうか。しかしながら、ここでまた考えなければならない。。そもそも読者は、(仮に「正しい」読みというものが存在するとしても)与えられたテクストを「正しく」読むことなど決してできない。読者の読みと思考とは、テクストに根ざしていたとしても、そこに留まり続けることなく、めいめい好きな方向へ伸びてゆく。そうして生じる思考は、必ずしもテクストにのみ依拠しているわけではない。そこには、人間に共通な要素ではなく、むしろ個々の読者に固有な、感覚・思考等に基づく精神的な要素が色濃く反映される。私たち読者にとってテクストとは、そこへ私たちが向かうところの終着点なのではなく、そこから私たちが自由に思考を広げていくところの出発点でしかない。ひっくり返ったおもちゃ箱のように多彩な思考は、自由な空想によって斜に据えたテクストを、自分の望むように読み、読み替え、そして読み間違えてゆく。このような意味で、読者とは本来的に読み間違えるものの謂であるとすれば、、白井惣七によるこの作品を、どのように読むことが適切なのだろうか。どのようにことが、この作品において望まれており、あるいは可能であるのだろうか。読み間違うことを期待されている作品において、私たちが読み間違えをしたとするならば、そのとき私たちはその作品を読み間違えているのだろうか。何をどう読み間違えているのだろうか。そもそも私たちは、そのとき「読む」という行為を行うことができているのだろうか。私たち読者には、この奇妙な『Anonymus』を前にして以上のような問いが次々と到来する。私たち読者がこのテクストを可能な限り正しく読みつつ、かつ可能な限り誤って読むために、適切な行いであるかどうかに関して絶対的な自信を有しているわけではないものの、私は作品の冒頭にごく簡単なものではあるが、解題を付すことにした。読者は以上のような事情を踏まえて以下の解題を読んで欲しい。また、生身で『Anonymus』にぶつかっていき、そこで存分に読み、読み替え、読み間違うことを望む読者はここでこの解題を読むのを打ち切って、早々に「訳者による序言」から読み始めるのがいいだろう。この解題は、この作品を手にするすべての読者に読まれるということを期待してはいないのだから。


 さて、前置きが長くなってしまったが、以下ではこの作品を、その成立過程から大まかに説明することにしよう。

 白井惣七による『Anonymus』は、オリヴィエ・ベルナール Olivier Bernard という架空の研究者による *Utrum possit amare aliquis individuum ? La dispute médiévale de anonyme sur l'amour et l'individu : texte et commentaire*, Paris, Venir, 1992 という書籍(日本語にすれば、白井惣七が「訳者による助言」で翻訳しているとおり、『ある人は個別者を愛することができるか?~無名氏による愛と個別者についての中世の討論:テクストと註釈』となる。この書籍がどういうものとして設定されているのかについては、「訳者による序言」における白井惣七の説明、および実際に『Anonymus』の中でベルナール氏が「前書き」において行っている説明に任せることにする)の翻訳という体裁をとったである。目次を見ただけでは、これが小説であることを見抜くものはまずいないであろう。これと同じように、学術的な出版物に擬せられた小説として、ナボコフの『青白い炎』がよく知られている。白井惣七の手記によれば、彼がある時期、『青白い炎』のスタイルに強く共感し、影響されて『Anonymus』を執筆したことは明らかである。手記のその部分をすこし引用してみよう。


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 自宅近くの本屋でナボコフの『青白い炎』が私の目にとまった。私がみつけたというよりも、私がみつけられたという感覚に近かった。……そのスタイルは、これまでみたどの小説よりも私に馴染んでいる気がした。私が以前『薔薇の名前』を読んでいたときにたわむれに思いついただけで書かずに断念した、架空の写本の校訂版に註釈を付けたという体裁の小説を、いまこそ書くべきかもしれない。……やせ細ったナボコフと言われようとも、書かねばならない(白井惣七研究会編『白井惣七集第三巻:「書簡集」・手記』、Y 書店、2017 年、p. 292.)。

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「私がみつけられたという感覚」とは、『青白い炎』の奇妙なスタイルへの共感と、その根源を同じくするものであると言えるだろう。白井が、『青白い炎』のような学術書的な体裁をとった小説を書くことへの共感は、彼がずっと学問へのあこがれを抱いていたことに根ざしている。彼自身が自らに関して「私は小説家たり得ない (Ibid., p. 251.)」と評しているように、彼は小説を書くことよりもむしろ学術論文を書くことを得意としていたようである。事実、彼の手記は、学術論文を執筆する前後にその調子が高揚していることが見て取られる。小説を執筆している時期には見られない、彼の生の流れとして特徴づけることができる。「小説家たり得ない」という自己評価に囚われ続けた中で、白井は『青白い炎』に出会うことで、『Anonymus』を書くことを決心したのである。

『Anonymus』は、十四世紀初頭に活躍したとされる、名前の伝わっていないある一人の哲学者(以下「無名氏」)、すなわち Anonymus が主題として取り上げられる。白井の手記 (Ibid., p. 293.) によれば、執筆当初より「第二問題」と題が付された章では、無名氏によって書かれた哲学的な議論が行われ、それへの註釈を付すという、『青白い炎』スタイルは構想されていたものの、「第二問題」部分では、どのような問題を扱うかは定まっていなかったようである (Ibid., p. 294.)。当時すでに発表されていた「結晶」のように、学術的色彩の強い作品を『Anonymus』という型に焼き直すという構想もあったようだが、最終的に主題として白井が選んだのは、「個」の問題である。「個とは何か」という根本的な問題を包摂しつつ、「この石がまさに石であるのは何のゆえか(白井惣七研究会編『白井惣七集第一巻:学術論文』、Y 書店、2015 年、pp. 52-62.)」、「ソクラテスがソクラテスであるのは何に基づいてか (Ibid., pp. 78-92.)」、「個であるものが個であることの根拠は何か (Ibid., pp. 93-105.)」という幾つかの論考に代表される、いわゆる「個体化の原理」と関わる問題を、『Anonymus』で取り上げたのである。彼の関心からして、「個」の問題を取り上げるというこのテーマ選択は必然的なことであるとさえ言うことができるだろう。


 そのようにこの作品の執筆の動機と主題を確認した上で、作品の特徴を簡単に整理しておこう。すでに述べられた通り、『Anonymus』において白井が翻訳したと称する書物も、それを執筆したという研究者も実在しない。『Anonymus』の題にもなっている無名氏は実在しない。作品の主要部である「第二問題」のもとになった「ラテン語写本第一七〇四番」という名で呼ばれる写本も実在しない。そのような空虚の上に、実在する様々な権威、たとえばアリストテレスやトマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥスなどの議論が、第二問題のテクストや註釈に据え付けられ、議論が進んでゆく。空虚が基になっているはずなのに、議論は実質を伴って進んでいくという構図は、読解に際して意識されてもよいだろう。だが、読解に際して架空のものと実在のものとを強いて腑分けしてゆくことはおそらく重要ではない。むしろそのような架空と実在との間で揺らぎ続けるテクストが、その総体として何を表そうとしているのか、ということに注目せねばならない。「名前」が与えられない(そしておそらく白井によって意図的に名前を剥奪されている)というしかたで極限まで実在性を欠いた存在である無名氏に、様々な伝記的内容が、彼が実在するかのように帰されているという事態も、この作品の構図とパラレルである。私たち読者は、この構図を読解のための一つの手がかりにすることができるだろう。


 それでは、私たちはこの『Anonymus』をどう読めばいいのだろうか。まず第一に、学術的な作品として読むことは、ほとんど意味をなさないと思われる。というのも、先に述べたとおり、「第二問題」で取り上げられる写本はそもそも実在せず、それゆえ時おり付されている校訂に関する「訳註」と称される一連の文章は、決して学術的な考証に基づくものではないし、「註釈」もそれと同様であって、学術書の翻訳という体裁をとっているとしてもこの作品の全体は、ただ白井の思考によって創造された幻影に過ぎず、学問の共同体において価値を有するものでは決してないからである。だが、かといってこの作品は、私たちに小説として読まれるということを拒んでいる。この作品では、読解を進めていくに際して「第二問題」と「註釈」との間で何度もページを手繰ることが要求され、前から順に話の展開を追う、という通常の小説のような読まれ方が想定されていないからである。小説として書かれたこの作品は、。その意味で私たち読者は、小説としての『Anonymus』の読み方を失ってしまっている。

 しかしながら、私たちが小説としての読み方を失っていても、読む行為そのものを失ってはいない。読むことそのものは多様なしかたで可能である。テクストは依然としてテクストとして現前し、読者によって読まれることを、そして読み間違えられることを期待している。「第二問題」と「註釈」とによってバラバラに分解されてしまった(あるいは「第二問題」に根を張りつつ、「註釈」によって再構成されてゆく)無名氏は、「第二問題」と「註釈」との間で反復横跳びを行う読者によって継ぎ接ぎするようにテクストが読まれることによって、パズルのピースのように組み合わされて、読者のうちに蘇り、読者のうちで「個」について、「愛」についての探求を再開する。これは『Anonymus』の、可能な読み方の一つであるだろう。

「無名氏」、「ラテン語写本第一七〇四番」、「オリヴィエ・ベルナール氏」と彼の著書、そしてそれの翻訳という、様々なレベルでの虚構を組み上げることによって構築された『Anonymus』というテクストを、私たちは「第二問題」なら「第二問題」だけ、「註釈」なら「註釈」だけ、というしかたで、断片化させて読んではいけない。断片を断片として読むことは、木の全体を眺めようとして葉の一枚一枚を顕微鏡で覗き込むようなものである。繰り返しになるが、これは学術的な作品ではなく、小説である。架空と実在、無名氏と彼の伝記的内容、写本テクストと註釈とを全体として、遠くから眺めるようにして読まなければならない。どのような絵画であるのか、その全体像を捉えなければならない。そのような読解作業の上でようやく、私たちは顕微鏡を通して精密に『Anonymus』という作品を読んでいくということが許されるのである。


 以上で、ごく短いものではあるが、白井惣七の『Anonymus』という作品についての解題を終えることにする。願わくばこの解題が無名氏による写本のように架空的なものであるのではなく、むしろ『Anonymus』についての実際的、実在的な解説にして、読者たちがテクストに迷うための手引きとならんことを。


(解説者:** 大学大学院 S.S.)

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