生活の一環として

韮崎旭

生活の一環として

 今日は頭痛を感じることがなかったと上機嫌で話す。壁に向かって。壁は人が好いので、僕の至極下らない話にも逐一相槌を打ってくれた。壁がいなかったら、僕は今頃自殺既遂をしていたに違いない。それくらい、壁の存在には感謝が尽きない。断熱性も十分だから、夏場などに空調を働かせた際にも、十分に室内の温度を保ってくれるし、目隠しという点でプライバシーの保護にも有用であり、なおかつ、構造として、建物の重要な部分を占めてもいる。ここまで素晴らしい壁が、なぜ僕のようなこれ以上なさそうな粗大ごみにかまってくれるのかは、不思議な点ではあるものの、やはり、壁の存在なしに生きることなど考えられない。

 ある人はチョコレートがなければ生きていけないといい、ある人は向精神薬が手放せない。ある人にとっては、それは護身用として保持する銃でありうるし、また、対人関係や行為が、その人にとって欠かせないものになることもある。それは嗜癖かもしれないし、健康的な依存かもしれない。


 僕はその日は頭痛どころではなかったが、それは、電車で移動する用事があり、その先にいる人間どもに甚だ疲労させられて、その上、人間どもの居る空間であるところの列車でもって帰宅する必要があったために、そのような苦痛から、身体的環境にまで気を配る余裕が皆無だったのかもしれないが、電車から人間が一個体減り、二個体減り、一群減り、二群減り、大宮駅を過ぎる頃(下り列車)にはだいぶ視界に隙間ができてきて、顔を上げることが尋常ではない苦しみではなくなってきた。呼吸もまともにできない心理状態が緩和された僕はまるで躁状態に転じるある種の病の境目を飛び越えたみたいに陽気になった一方で、自傷行為をしたいという強い欲望を感じた。それはかならずしも自殺願望や抑うつ気分とは繋がらない代物で、とにかく自分の身体を損傷したい、程度なんて知ったことじゃない。というものだった。だから、僕は、努めて何かと対話したがったのだが、列車の壁は、僕に冷淡だった。当然の待遇として。何故なら僕が気に掛けるに値しない可燃ゴミ未満のクズで見下げ果てた人間性を抱えて人間どもにせいぜい言い古された皮肉を心の中でぶつけることでかろうじて現状をやり過ごしている有様だからで、まあそんな人間に関わりたいものはいないと思う。つまり、見下されて当然の心性と精神構造、行動をなしていながら、周囲を見下さずには過ごせないような端的を持つ人間になんて関わり合いになりたくないものだろう。

 僕はしかし計画する必要があった。自傷行為を滞りなく生活に組み込む必要をまた、自傷行為へのつよい欲望と同時に感じたからだ。そうすることでもなければ、ただでさえ低空飛行の生活が破たんする気がしたし、感染症やまた自分自身で処置のできない損傷は、僕の希望に反するとしても、医療機関への受診に繋がりここでまた医者とか言う厄介な人間との会話、というより、医者との意思の疎通とか言う厄介なミッションを抱え込んでしまうことに繋がり更には他の医療機関への紹介状が書かれる事態、精神科病院への通院の推奨やそれでなくとも、叱責やありがたいお言葉などに僕が逐一対応してはいそうですねとただただ静かになってもらうためだけに頷き続けることにもつながりうるから絶対に自分で処置できる範囲の損傷か致死的な損傷を自分に、僕が与える必要があることを当然の過程として思いついた。ということは、ピクニック用シートやブルーシートなど、何でもいいが、ものへの被覆材の準備、刃物と、応急処置のできるものどもの準備(この組み合わせにはまったく笑ってしまう)、などを行う必要があり、それができるのは終点の駅の薬局、文具店、スーパーマーケット辺りか?(ブルーシートは望めないが、ピクニック用のシート位あるだろうし、他の耐水性の高い何かでも別に構わないわけではある)


 そういう訳で、終点の、下車する駅に着くころには、僕はこれらの計画ですっかり上機嫌だった。別に強い気分の落ち込みによって自傷したがったわけではないからだ。これらの計画がすべてうまくいったら、壁に報告することに決めて、刃物をまず適当に買ったりした。


 部屋の中心で、たらい(血液を受ける)やピクニック用シートを用意し、刃物を利き手でない方の腕の皮膚にあてる頃には傷みがまともに認識できないくらいに高揚していた。この先が非常に楽しみだ。

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生活の一環として 韮崎旭 @nakaimaizumi

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