第二十五話 「ありがとう。愛してる、ずっと」
昔々、から始まる物語だ。
ボクがまだ、私だった頃に読んだ無数の物語の一つ。
王子様がお姫様と出会い、そして、ハッピーエンドを紡いでいく物語。
でもその二人は、結ばれることなく永遠のさよならをする。
憧れていたんだ。自分が外に出られないから。
たくさんの世界の主人公に自分を重ねて。
深窓の姫君にもまた、自分を重ねて。
あの時世界は、本当に小さかった。
たくさんの世界を知っていたのに、ボクの世界はほんとうに、ほんとうに小さかった。
*
「我は何百年も、待っていたのだ」
突然開けた空間。ここが、最上階なのだろう。光の通う壁の隙間から光が漏れている。ガランとした空間にひとつだけ、木の根を組み合わせたかのような玉座があった。そしてその後ろに立っているのは、
「モンド」
名を呼ぶと外を見ていた体をくるりとこちらに返した。「我は待っていた。巫女ルーテルの願いを叶えるため」赤い眼がゆっくりとボクを捉えると、その中まで見透すかのようにじっと視線を離さない。こちらも離さなかった。いつもの通りラルさんがボクの前にでる。それを見たモンドが口角を上げた。
「彼女は苦しんでいたのだ。《仲間》は皆彼女にすがりきっていたからな。その悲しみが、苦しみが、世界から、リュミエルから、記憶を消した。お前がドリラにすがるとは、こんな皮肉なことがあるだろうか、な?」
「俺は……!」
言い返そうとしたけれど、言葉が出ない。そんなラルさんの手をぎゅっと握る。「ボクは、彼に助けられてる。ちょうど今もずっと。ここにいられるのだって、彼のおかげだよ」そう言って少し驚いた顔をしているラルさんに笑いかける。
「お前のそれは錯覚だ」
「ううん。これはボクの意思だよ」
「我はお前を殺したくはない」
「……ボクだって殺したくない。エナトはここにいる。諦めて退いてよ、モンド」
そう言うと、静かにこちらに向かってくる。ラルさんがそっとボクを隠して半歩下がるが、歩いてるはずなのに一瞬で間合いを詰めて。『逃げてッ!』エナトが焦った声をあげる。言われなくても、と下がるが、動きを全て見越していたようにその分まで近づいて、ボクの手首を捻り上げる。
「いッ!」
「手段なら、ある」
そのあまりの負の気の濃度に全身の力が抜けて、腕でぶら下げられる。意識が飛びそうになる中で気を溜めて吹き飛ばそうとするがそれは彼を通り抜けて消えた。体の中身を弄り回されるような感覚に全身の毛が逆立って吐き気がする。真っ暗な世界に閉じ込められたように何も見えなくなって、聞こえなくなる。
『少々、体を借りるぞ』
内部から久しぶりに聞こえてくるモンドの声に焦る。だが体はいくらもがいても金縛りみたいに動かない。不安と焦燥で叫び出したいのに、声も出ない。喉から聞こえるひゅうひゅうと空気が抜けていく音だけが、やけに大きくて一層ボクを焦らせる。
『……そんなのっ、させない!』
突然聞こえてきたエナトの声にはっとすると、突然頭の中に《言葉》が浮かんだ。何も考えないでそれを呟く。
「《我を解放せよ》」
とたん、頭の中がすっきりして体の感覚が帰ってくる。驚いている様子のモンドの腕を振り払い、素早く距離を置く。みんなに背中で庇われた。今のは……神術? でもどうして? その動揺を押し殺して、未だ少し残っている悪寒を落ち着けていると、モンドは狂ったように笑い出した。が、それはそのまま、怒りの感情に変わる。その肌を刺してくるような負の気に思わず体を庇って、座り込みそうになった。
「そういうことか……っ、ふざけるなエナト! どこまで我の邪魔をする! 今まで生きてこれたのは、何故だと思っている!」
もういい……と呟いたその声が不自然に揺れている。ぴしぴし、と氷が張るみたいな音が聞こえてきた。「待って、モンド!」叫んで駆け出しそうになったボクの腕をオルフが掴む。左の腕が変形して、羽毛みたいなのに覆われて、大きな鍬みたいになるまでが一瞬。
「お前を殺して、仕切り直しだ」
*
ボクはきっと、お姫様と王子様に憧れることはもうしないだろう。
その二人も、ただのヒトなのだから。
きっとお姫様は迷っただろう。物静かでおっとりしていたとしても、不安になって大声で泣いたり、本当にこれでいいのかって悩んだり、全てが嫌になって逃げ出したくなったりしたんだろう。王子様もきっと、お姫様が何も言わないから悩んだんだろう。苦しくて誰かに八つ当たりしたり、責務を放棄してお姫様と逃げ出したくなったりしたんだろう。
そして、二人はきっと、当たり前にお互いを愛していたんだろう。ボクが、彼を愛するように。
「エナト!」
わかった! と頭の中で声がしたと思ったら、ボクの周りに気が集まってきた。知っている歌の歌詞をわざわざ意識しないように、自然に頭の中に詠唱すべき呪文が浮かび上がる。これはきっと、光の呪文。ボクが欲しいと思った呪文。その術を剣に乗せて、ボクはモンドに切りかかる。
(これでっ、終わりだッ!)
血飛沫を上げてその場に倒れ、それでもなお藻掻くモンドの喉元に剣をピタリと当てる。深い呼吸のなかで、ぽつりぽつり、というふうに言葉を吐く。
「お前は……いずれ後悔することになる……ここで死んでおけばよかったと、きっと思うようになる」
「未来のことなんてわかんない。ボクが彼女と同じ運命を辿るなんて、どうして断言できるの」
ふん、と鼻を鳴らして、モンドは仰向けになる。
「殺せ。我の負け……だろう」
ボクは切っ先を彼の心臓のあたりに一瞬あてて、そして大きく振り上げた。モンドは静かに目をつむり、死を覚悟しているようだった。が、ボクはため息をついて、剣をぽいっと床に滑らせた。カランカラン、と音が響く。
「ドリラ?」
「……殺さないよ。もう、いい。無意味だ」
くるりと踵を返して玉座に向かいながら言う。
「きっと、キミも満足する世界になる。だから、この世界を見守って」
「お前をっ、玉座に座らせるわけにはいかない!」
「黙って。キミの命はもうボクのものだ。そんなに死にたいなら、舌を噛みきればいい」
「ドリラ!」
「……もう、自分のために生きていいんだよ。理由は、すぐにわかる。オルフ、治療を」
オルフが彼の治療をしている間、玉座に手を掛けて、じっとそれを見つめる。簡素だが、品を感じる不思議な椅子。装飾らしい装飾は一切ない。それから、怖いとか、寂しいとか、でも、自分がやらなきゃ誰がやる、なんてことを感じた。……おそらく、ボクまでの巫女の思いなのだろう。脆いのに、強い。
「じゃあ、ボクもう行くね」
手が震えないように、足が震えないように、力をいれて。振り返ってそういった。
「忘れたりせぬ」
そう言ったのはソリスだった。全てを見越しているかのようなその声に、その目に、ボクは思わず目を見開く。凛とした声で彼女は続けた。「何があっても、私だけは、お前を忘れたりせぬ」そのあとは続かなかった。踵を返して先ほどボクが入ってきた入口へ、そして出口へ進んでいった。
「帰ってこい」
そう続けたのは、タクトだった。思わず苦笑いして「無理言わないで」とでも言おうかと思ったが、やめた。余りにも無粋すぎる。
「俺たちは、待っている。たとえ、何十年、何百年経とうと。……俺は待ちきれないかもしれないが。それでもこの命が終わるまで、いや終わっても、待っている」そう言ってソリスを追いかけて、消えた。
「そうですね。必ず、帰ってきてもらわなければ困ります」
また、エルスやノースもうるさいですし。そう言って肩をすくめる。「そういえば、貴方の母親のこと。エルスが『話せてないから今度聴きにおいで。ついでに一緒にお茶でもどう?』なんてふざけたことを言っていましたね。忘れていました」遠まわしな表現に、うん。と微笑んで、ボクは言う。「ありがとう」
泣かないって、そう決めていたのに。胸に熱いものがこみ上げてきて、必死にそれを抑えるので精一杯だ。やっと立てるレベルにまで回復させたモンドに肩を貸して去っていく。ラルさんの体からするりと抜け出したリュミエルが、反対の体を支えて、同じように出ていった。
「……ラルさん」
一人残ったラルさんに、そう声を掛ける。いや、掛けてしまったといったほうがいいだろうか。そう言ってしまった瞬間に、堰を切ったように感情が溢れ出る。怖い。まだ……生きたい。『忘れられたくない』。力が抜けて座り込むのを、素早く駆け寄ってきたラルさんに支えられる。
「やだ、やだやだ、やだ……怖い、」
ぐ、とラルさんの腕の当たりをつかんで、俯いて頭を振る。つかんだ手が、壊れたんじゃないかっていうくらい震える。体も全部、もう立てないんじゃないかってくらい震えて。……本当は怖い。離れたくない。ここにいたい。みんなと笑って、みんなと生きて。またダネスネーラに戻って、おばさんのケーキを食べたい。読みかけの本もある。みんなに読み聞かせをしていた絵本の続きを、子供たちはまだ楽しみにしているだろう。まだまだやりたいことがたくさんある。感情と共に久しぶりにあふれ出てきた涙が、ぼろぼろと頬を伝っておちていく。ラルさんにも、ほかのみんなにもたくさん伝えたいことがある、あったのに、いざ口を開くと何を言いたいのかわからなくなって、くしゃくしゃになって。
そして今は、言っちゃいけないことばかり、口から出てきて。
「やだよ。ここにいたい。いたいんだ。でも、でもボクがやらなきゃだめで、でもボクは、いやで、」
つっかえながら、しゃくりあげながら、それでも必死に言葉を紡ぐボクはなんて愚かなんだろう。こんなことを言ったら、困らせるだけなのに。どうして。
「でも、キミに生きてて欲しい」
キミに、ボクのかわりにおばさんのケーキを食べて欲しい、読みかけの本を読んで欲しい。読み聞かせの途中の絵本を読んで欲しい。みんなと沢山話をしてほしい。たくさんのことを経験して欲しい。誰かと恋をして、いつの日か結婚して、可愛い奥さんに子供を産んでもらって、幸せに。……幸せに生きて欲しい。
「そんなまだ来ない無数の道を、ボクが、あげたい」
ぎゅっ、とボクは抱きかかえられた。同じようなことを考えているようで、複雑な感情が流れ込んでくる。手が当たってる手から、同じように震えが伝わってくる。どうしてこいつが。とか、伝えたいとか、愛おしいとか、一緒に、たくさんのことを経験したいとか、そういう、今じゃなかったら恥ずかしくてどうしようか迷っちゃうような感情までも流れ込んできて、ああ、お揃いだと思う。
「俺は、お前の考えてること、全然分かってなかった。ずっと自分のことばっかりで。お前が辛いって思ってることは知っていた。でも、そんな」
「……一緒だね、ボクたち」
一緒のことを、考えているね。でも、ひとつだけ違う。
「帰ってこい、必ず……!」
ボクの涙をそっとぬぐって、反対の手でボクの手を握る。あったかい、大きくてやさしい手。大好きな手。
「ずっと、来世の先の先まで、ずっと、この魂ってやつが繰り返される先の先まで、待ってる。でも、できるだけ早く、俺が俺である間に、帰ってこい」
「……うん」
その頃には、きっとボクのことを、忘れてしまうけれど。何度呼んだかわからないくらい、大好きなその名前を呼んだけれど、これがきっと最後だ。やっと、言いたいことが分かった。
「ラル」
「なんだ」
耳元で、そっと、五文字の言葉と、五文字の言葉と、おまけのように三文字の言葉を囁く。彼はその言葉を受け入れて、たった一言、「馬鹿」と言った。しばらく迷ってから、「俺もだ」と続ける。やっぱり一緒だ。一緒だけれど、これからは、一緒じゃないね。また、サヨナラだね。笑えているかわからない、そんなほほ笑みをやっぱりボクは浮かべて、言う。まるでラルさんが体の震えを取り除いてくれたかのように、ボクの震えは止まっていた。……いや、違う。相殺したのかな。だってラルさんの震えも止まっていたから。
「じゃあ、さよなら」
「……ああ。また」
最後まで触れていた手を離すと、彼は立ち上がって歩きだした。大丈夫、もうひとりで立って、歩ける。どうか振り返らないで。追いかけてしまいそうだから。追いかけてまた、背中にすがって泣いてしまいそうだから。
ちょうど見えなくなってしまってから、やっとボクは立ち上がって玉座にもう一度手を掛けた。
『ここから先は、きみ一人』
エナトの声に、ちょっとはにかむ。
「いたんだね」
『そりゃあいるよ。でも、ここからはきみ一人』
「え、何故?」
『わたし、きみの……アモスだったんだよ』
びっくりするようなことを最後の最後に言われてぽかんとする。でも、そう言われたらいろんなことに辻津があう。
『だから、きみがここに座ったその瞬間、わたしはまた別のエヴォの民のアモスとして生まれ変わる準備をすることになる。ドリラの魂と一緒に、まっさらな存在になる準備。だから、ドリラとはこれでさよなら。少しの間だけだったけれど、一緒に行動できて楽しかった。一生の間で一番、幸せだった。……わたしも、絶対に忘れないから。その時がこないとわからないけれど、でも』
「……うん」
なんだか、最後にとても幸せな気持ちになれた。でも、もう少し話していたかったな。でもあんまり話しすぎても。そう考えて、ラルさんとは少しニュアンスの違う同じことを、エナトに囁く。『わたしも、だよ。ドリラ』静かに静かに、腰を下ろす。と、目の前が真っ白になった。
(これで、終わりか)
――バッドエンドも、嫌いじゃない。
大丈夫、もうちゃんと笑える。この世界の最後の瞬間は、せめて笑っていよう。そうおもって、笑った。
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