掌編集

紅葉カナ

名刺

 また、この場所に来てしまった。ついこの間まで五分咲きだった桜は、満開を迎えたかと思えば、あっという間に散り、今ではデカデカとした艶のある葉を躍らせているではないか。無駄だと分かっていながらも、まっすぐ家には帰らずに、わざわざこの公園のこのベンチまでに足を運んでいる自分に、内心呆れかえってしまう。どうせ寄るのならばファミレスにでもすれば良いものを、何をするわけでもなく、ぼんやりとベンチに腰掛け、一時間ほど、月が私の頭上を通過したのを確認してから帰路につく。夜遅くまで頑張っていると、勘違いしている母を騙しているようで心苦しくもあるが、向こうが勝手に勘違いをしているのだから、何も私が気をもむ必要はない。そのはずだ。

 特別な理由があるわけではないが、今日は予備校には行かずに、朝からこの公園にいた。やる気ならいつもないが、今日はどうしても自分を制御することができなかった。今ではすっかり相棒となったこの重たい鞄も、私の隣に腰掛けて、久しぶりの休息を味わっているようだ。

 すぐ目の前の広場では、ボール遊びをする子供たちや、ビニールシートを敷いてちょっと早めの昼食をとる親子、花の写真を撮る老夫婦など、実に多種多様な、とりわけ小さな子供たちによって賑わっている。桜の季節はもちろんのこと、そうでない季節もこの公園にはたくさんの人が訪れる。近くに大きな湖があり、お金を払えば、そこでアヒルボートに乗ることもできる。また、少し上に登れば、アスレチックなどの遊具が並んでいるため、お金を使わずとも十分に遊ぶことができる。

 私も小さい頃はよく、母に連れられてこの公園で遊んだものだ。お気に入りは、全長三十メートルは優に超えるローラー滑り台で、母と一緒に森の中を駆けて抜けていった。あの頃は楽しかったと心の底から思う。会う人すべてが友達だった。何も考えずに純粋に笑うことができた。何よりも、母がとても優しかった。もちろん服を汚せば怒られ、門限を破れば頬を叩かれもしたが、それは私がいけなかったのだからと、母の叱責を心から受け入れることができた。それが今となっては、私の言い分にはまるで耳を貸してくれないで、口を開けば勉強、勉強。良い大学に入ることが私の幸せだと勘違いしているのか、それしか言わない。自分は高卒のくせに。

 私は少し熱くなった鞄に手を伸ばし、そのポケットの中から一枚のハンカチを取り出した。地味でダサい男物のハンカチだ。変てこな、私の国語力ではなんと説明すれば良いのか分からない、グニャグニャとした模様が入っている。これは私の物ではない。数か月前、私がこのベンチに座っていた時に、ある男の人が貸してくれた物だ。その時、名刺も渡されたのだが、彼が去ったすぐその場で投げ捨ててしまった。家に帰ってから、このハンカチを返していないことに気が付いた。最初の頃は、ここに来ればまた会えるだろうと、足を運んでいたのだが、私はその人の顔も名前も覚えていないことに気が付いた。たとえ彼がすぐ目の前にいたとしても、私は彼を「彼」だと認識することはできないのだ。今ではこの公園に来ること自体が、すっかり習慣になんてしまった。あの名刺を捨てなければ良かったと今更ながらに後悔した。私は足元に視線を移した。あれからもう数か月は経っているので、落ちているはずがない。風に飛ばされ、雨に打たれて、今頃は跡形もなく消えてしまっているだろう。そんな考えとは裏腹に、私の勤勉な両目は辺りの捜索を続ける。そして、近くの木の根元に白い紙のようなものが落ちているのを発見した。近づいてみると、滲んだ字で何か書いてあるようだ。私はそれにそっと手を伸ばした。


 家出か、俺もやったな。俺もね、君ぐらいの頃は親に反抗してばかりだったんだ。親の存在自体が目障りで仕方なかった。それこそ親父とは、毎日のように殴り合いの喧嘩だったよ。お袋が止めてくれなければ、何度殺されたことか。でもある日ね、一度だけ、俺は親父に勝ってしまったんだ。その時思ったよ。ああ、これからは、俺が親父に手加減してやらなきゃなって。その一件からも、相変わらず親とはぶつかってばかりだったけど、親父と喧嘩するときは、最後は必ず俺がわざと負けるようにした。君のお母さんの言い分が百パー正しいとは俺も思わない。でも、きっと一パーセントくらいは正しいことを言っているんじゃないかな。親の厳しさってのは愛情の裏返しなんだって、最近になってそう思えるようになってきた。親はいつまでも傍にいてくれるわけじゃないんだ。お母さんのこと、大切にしてあげて。だからほら、今日はきみが負けてあげて、家に帰りなさい。これ、俺の名刺。いつでも電話して。何もできないけれど、話を聞くくらいはできるからさ。

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