第13話

 自動ドアを潜るとすぐにコーヒーの香ばしい香りが漂ってくる。その匂いを感じると、夫の顔も家に帰ったら待っている家事のことも頭の中からかき消してしまいたくなる。なぜかここに来ると家にいる時には現れない、何かに抗いたくなる感情が無性に込み上げて来るのだ。朝の店内はいつも通り見通しが良い。ここに一日中いることができたら幸せかもしれないと店に来るたびに思う。


 今日も変わらずそんなことを考えていたら自然と下を向いてため息をついてしまっていた。好きな店に来てまでため息をついてしまう自分がやるせなかったので、さっきのため息は深呼吸だったということにして店に入ってからのため息はなかったことにした。私は顔を上げ、気持ちを切り替えてカウンターに向かった。


 「いらっしゃいませ。おはようございます」


 「おはよう。ラテを熱めで」


 「ブレませんね、いつも」


 「私、冒険できないタイプなの」


 彼は軽く笑みを浮かべながら注文に沿ってレジを操作する。私は値段を言われる前に小さなトレイに小銭を置いた。

 

 「あの本持ってきましたよ。あとでさっと渡します」

 

 「ああ、もう読み終わったんだ。早いね」

 

 夫以外の人間とほんの少しだけ雑談できるこの時間は結婚前の自由だった頃の自分に戻れる貴重な瞬間だった。

 

 他のスタッフやまわりの客に会話を悟られないように支払い後はレジ前で長居せず注文したラテを受け取っていつもの席に着いた。椅子に浅く座り、背もたれに体を預けながら手で顔を覆って家の中のことをより忘れるよう自分に言い聞かせた。

 

 この店は私の避難場所だ。珍しくもない全国のどこにでもあるコーヒーショップだが、煩わしいと感じているもの全てから離れられる唯一の居場所だった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る