それぞれ新学期

57限目 よかれと思うけれど

 多くの生徒が夏休みの終わりを悲しむが、それはたいていの教師にとっても同じである。昨日までの日々がまるで嘘みたいにクソ忙しくなるからだ。


 もちろん、そうならないように事前にしっかり準備を行うわけだが、所詮予定は予定。明けてみれば想定外の出来事なんていくらでもある。例えば急遽欠勤した先生の代わりに授業を行う、などだ。おかげで俺は朝から夕方までてんやわんやである。


「……というわけで、中間試験に備えて、今回のように抜き打ち小テストを入れていく。ヒントになる問題もあるから、ちゃんと予習するように」


 最後の授業が終わり、半ば捨て台詞にも近い宣告を行うと、生徒達がうわぁと呻いた。生徒達も久しぶりの授業フルコースにすっかりまいっているようで、そこへ小テストの予告である。授業ごとの小テストなんて、どちらかと言えば教師側の優しさなのだが、残念ながらその想いが通じることは稀である。


 現代文は難易度をコントロールするのが難しい。なぜなら読解問題はその文面に解答が示してあるからだ。物語の紐解き方さえ分かってしまえば、初見でもわかる。逆に何度読み返しても多くの人が解答にたどり着けない問題があったとすれば、それは問題の方が悪い。問題の作り手の感受性が一般とマッチしてないのだ。

 あるとすれば、漢字の読み書き問題をマニアックにする手もある訳だが、それも範囲が決まってしまっているから、やれることは限られる。

 そんな現代文で赤点を取らせてしまうというのは、なんともバツが悪い話だ。教師の価値があるんだとすれば、いかに的を射た問題の正答率を高められるかという指標はわかりやすい。

 小テストをこまめにやっておけば、生徒に要点を伝えることが出来る。また教師側から見ても、自分の授業によってどの程度理解が得られたかと知れるので、難点箇所など都度フォローを入れられる。うーん、まさにウィン&ウィンの関係だ。


 とは言え、この作業は実は大変に面倒だったりする。誤解を与えないような問題を考え、作成し、印刷し、実施した後は採点し、さらには正しく返却しなければならない。これが授業都度発生するとなると、かなり死ねる作業だ。教師が多く、一教師あたりの授業枠が少なめの本校だからできる方法でもあるとも言える。


 あらやだ、意外と真面目に教師をやってる俺様に感動しちゃったかしら? 惚れてもいいのよ?


 すまん、調子に乗った。



「先生」


 教室を去り際に、背後から話しかけられた。振り向けば、井出琢磨の姿があった。


「おお、井出か」


 片手をポケットに突っ込み、軽やかに上げた片手がなんとも爽やかだ。その仕草に周囲の女子生徒数名が目を奪われている。相変わらずのイケメン野郎なのだ。


「お疲れ様です。今日は部活はありますか?」


「おお、あるぞ。多分、どこもあるんじゃないか」


「良かった。では部活の時に」


「あー、井出、すまんが部室の鍵を開けておいてくれないか? 俺はこれの処理で少し遅れそうだ」


 俺の胸には回収したばかりの小テストの束がある。ちなみに職員室の俺のデスク上にはこれの四倍の量が積み上がっている。丸付けだけで相当な時間が掛かりそうである。


「わかりました。ホームルーム終わったら、取りに行きますね」


「ああ、頼む」


「では後ほど」


 井出はそう言って再び教室に戻っていった。身のこなしは軽やかで、その若さが羨ましくなる。一方の俺はすでに肩と膝がバキバキである。授業中ずっと教壇に立ち続けるのもなかなかハードなのだ。





「あら」


 職員室の扉を開けると、はち切れそうなブラウスと対面した。この胸部はもしや、と顔を上げれば、おなじみのエンジェル、石橋先生の笑顔がそこにはあった。


「石橋先生、お久しぶりです」


「お久しぶりです、斉藤先生。ささ、どうぞ」


 石橋先生はそう言って荷物の重たそうな俺に道を譲ってくれた。さすがマイエンジェル、その胸のように心もおっきいぜ。


 教材をデスク脇におろし、積み上がった答案の山を再確認すると、一気にやる気が削がれてきた。果たして本日の部活に間に合うだろうか、とちょっとした後悔に頭を抱えていると、視界のすみから、コーヒーが差し出された。そのかわいいお手手の持ち主はもちろん石橋先生だ。


「夏休み開けから小テストなんて、真面目ですね」


「いやあ。自分の勘戻しみたいなもんですよ。とはいえ、ちょっと張り切り過ぎたかなと」


「そういう一生懸命な所、素敵だと思いますよ」


 あまりに眩しい笑顔で先生が褒めてくれるので、俺は照れてしまった。それを隠すようにコーヒーをすする。ああ、やっぱり夏休みが開けてくれて最高だな! 


「斉藤先生」


 そんなほっこり雰囲気を一瞬で吹き飛ばしたのは、野太い声だ。振り向けば、いかつい顔を不景気そうにしかめる男の顔があった。


「谷部先生」


 厚い胸板とそこに張り付くシャツが、いかにもスポーツ系オーラ全開のこの男の名前は、谷部克彦たにべかつひこ。幅広い学年の授業を受け持つ化学の先生で、テニス部の顧問だ。


「ちょっといいか」


 谷部の圧迫感ある様子に、空気を読んだ石橋先生は会釈をして立ち去っていく。俺がうなずくと、谷部は隣の椅子を引き出し、背もたれを抱き込むようにどかっと腰をかけた。まるで苦いものでも口にしたのかと思わせるほど顔をしかめ、たくましい眉毛がすっかり水平になってしまっている。


「なんだよ、辛気臭い。嫁さんと喧嘩でもしたか」


「んな訳あるか。そうだったとしても、お前には相談しない」


「そうかよ、役にたたなくて悪かったな」


 谷部は俺の三つ上だが、本校就任としては同期であり、数少ない若手男性教員ということもあって、気のおけない仲だ。以前は公立高校の教員だったが、同じ学校の教員女性と結婚したことをきっかけに白鷲高校にやってきたそうだ。あまりにも奥さんが美人なので、妬みも込めたネタを毎回仕込むのが恒例なのだ。


 そんな谷部先生が真面目な表情で、言った。


「井出のことなんだが」


「井出?」


「その、なんだ。……あいつ、ちゃんと部活に来てるのか?」


 谷部はそう言って俺の目を見た。


 谷部は責任感の強い男だ。そして、井出を指導していた男でもある。言いはしないものの、井出の手首の不調に気づけなかったことへ、責任を感じているのだろう。


「ああ。ちゃんと来てるよ。すっかり溶け込んでる。頼もしいよ」

 

 俺は思っていることを素直に話した。その答えに、谷部は「そうか」と言って、肩をおろした。


「こんなことを言うのは、お前に悪いと思うんだが……」


 そして視線を落とし、語尾を淀ませている。


「なんだよ。いまさら遠慮するなよ、谷部」


「……もしあいつが戻りたい、と言ったら、俺たちはいつでも待っている、と伝えてくれないか。俺も、生徒達も同じ思いだ」


 谷部は依然、視線を落としたままだ。


 谷部は、井出の復帰を信じていた。井出が運動に適した体を持っていて、その才能に恵まれていることは俺から見ても明らかだ。だから、思うのだろう。戻ってこい、お前のいる場所はゲーム部じゃない、と。


「……わかったよ。その時は伝える」


「すまん斉藤。お前には感謝してる」


 谷部はそう言って、俺の肩を叩き、職員室を出ていった。俺はその背中を見送って、ため息をついた。


「……お前も大変だなぁ、琢磨」


 俺は独り言をこぼし、答案用紙の山に手を伸ばした。

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