33限目 咀嚼

 かくして、俺の人生において初となる、水着イベントが降臨したのである。

 大変残念ながら、目の前にいるのは生徒たちなのだが。


 プールサイドにある日よけの内側には、プラスチック製の白いテーブルと、そこで体を焼けと言わんばかりのリクライニングチェアが置いてある。なぜ授業用プールにそんなバカンス的アイテムが設置されているのかは謎だが、生徒達はそこで弁当を開けて、ピクニック気分を楽しんでいる。


「センセ、食べないのー?」


 身を乗り出してこちらに大きく手を振っているのは、美月だ。伸び切ったことでより綺麗に見えるおヘソ周りが眩しい。


「おお、先に食っててくれ。もう終わるから」


 俺はといえば、清掃し終わったプール槽の最終チェックをしていた。すでに給水弁は開放しており、綺麗な水が排水口へ向かってせせらいでいる。排水口をしっかりと締め、それが自然と開放されてしまったりしないよう、しっかりと固定する。プールでの事故を防ぐ為には、こうした地道な確認が必要なのだ。


「センセ、そういうところはマメだよね」


 プールサイドにしゃがみ込む美月が、その様子を見つめていた。その表情は眩しすぎる太陽の逆光のせいでよく見えない。


「なんだ、普段は雑だと言いたいのか」


「いやー、そこまでは言ってないけど」


「ふん。俺も一応は教師だからな。事故でも起きたら大変だろうが」


 まぁ、生徒から見れば教員の努力なんてそんなもんだろう。演出でもしなければ、伝わらないことは多くある。俺はそんな評価を甘んじて受け入れるさ。実際、中身はそこそこクズだしな。


 俺はそんなことを考えながら、排水口を蹴りつけ、びくともしないことを確認する。


「……頼もしいよね。だってそれって、あたし達のためだよね……」


「ん、なにか言ったか。水がうるさくて聞こえなかった」


「ううん、なんでもない。それより早く一緒に食べよ」


 そう言って、美月がこちらに手を伸ばす。俺も反射的にそれを取り、はしごをよじ登った。美月のことだ、続け様になにか悪態でもついてくれたのかと思ったが、その表情を見るとどうやら違うらしい。そのまま彼女に引っ張られるようにして、テーブルについた。


「お先に頂いています、先生」


 椅子にちょこんと座ってお行儀よく食べているのは悠珠だ。焼き肉弁当がすでに一口二口食べられている。付近の弁当屋さんで適当に選んできたメニューだが、焼き肉はその中で最もパンチのあるメニューだ。どうせ俺に残ると踏んでいたのだが、意外とがっつり系が好みのようだ。


「センセはどっちがいい?」


 残る弁当はあと二つ。唐揚げ弁当と幕の内弁当だ。彩り弁当と酢豚弁当はそれぞれ灯里と琢磨が食している。向こう型のテーブルで、何やら話の花を咲かせていた。


「美月の好きな方でいいぞ。俺はどっちでもいい」


「んじゃーあたし、唐揚げ弁当、もーらいっ」


 そして美月は手際よく俺を誘導し、その横に座った。左隣に悠珠、右隣には美月。美月は合わせた手に箸を乗せ、いただきますと小さく言ってから、豪快にその一口目を食している。俺もそれに合わせて、一口目を食す。


「うん、うまい。こうして外で食べる弁当ってのも格別だな。……ん?」


 至福の一口目を味わっていると、左側から覗き込む視線が気になった。


「どうした神崎。何か変なものでもついてるか?」


 悠珠はまじまじと俺と美月を見比べている。


「いえ。先生、ずっと気になっていたのですが、近頃は美月さんのことを呼ぶ時、名前で呼び捨てしているなって」


 その瞬間、美月の喉が変な音を奏でた。吹き出しそうになったものを必死にこらえたのだろう。咳き込んだあと、相当量のお茶を一気飲みしている。


「私の記憶が正しければ、最初は名字で呼んでいました。というか、先生が生徒を名字以外で呼ぶ所なんて、見たことが無い……」


 悠珠は徐々ににじり寄り、俺の目をかなりの近距離で覗き込んでいる。


「そ、そうだったか?」


 その姿勢のせいで、タンキニの隙間からわずかにできた谷間が見通せており、非常に危険だ。下手をすれば、その頂上にあるかわいい何かが見えてしまいそうだ。

 くそ、なんて白くて魅惑的な肌なんだ! おかげで心臓がトゥンクトゥンク言っちまってるぜ!


「ええ。私はこれでも記憶力に自信があります。思い返してみれば――」


「な、な、何言ってるのー、悠珠。たまたまだよ、たまたま!」


 すかさず美月がその間に割り込んでくる。頼むから箸を持ったまま手を両手を振らないでくれ。目に突き刺さりそうだ。


「ほら、早く食べないと、遊ぶ時間がなくなっちゃうよ」


 そう言って今度は唐揚げを一口で頬張った。わかっていたことではあるが、美月は物事をごまかすのがとても下手くそのようだ。そしてそんな手が秀才の悠珠に通じないのは、言うまでも無い。


「大丈夫ですよ、美月さん。ご覧の通り、まだほとんど水は溜まっていません」

 悠珠の指摘に、美月は顔がゆでダコのように真っ赤になっている。やはりここでも、勝敗は決した。


「ふぅ~ん」


 そんな美月の反応を見て、悠珠は興味が失せたかのように、再び焼き肉弁当を頬張った。小柄な彼女の一口はひどく小さい。咀嚼そしゃくしている様子が小動物みたいでキュートだ。


「まぁ、いいのですけれど」


 彼女はそう言って、また一口を頬張った。

 それはまるで、口から出かかった言葉を押し込んでいるかのようだった。

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