神埼悠珠の場合

31限目 神埼悠珠のため息

 もう幾度ついたかわからない溜息と共に、シャープペンシルを手放した。机上に落下したそれは、ノートの上をからからと音を立てて転がっていく。


 それは、筆記の為に作られた樹脂と金属のかたまりと紙が奏でる、勉強の音だった。他にも、消しゴムの擦れる音や、静寂の中にかすかに聴こえる時計のチックタック。それらは今の自分を構成する要素に違いないのに、今では鬱陶しくて仕方がない。

 開かれた参考書には既に見飽きた問題と解答方法が載っており、隣のノートにも同じような内容が、まるで複写されたかのように綺麗な字で書いてあった。もはや、目線でなぞる必要も無く、ただ視界に入れるだけで、その内容はほぼ完璧に思い浮かべられる。


「はぁ……」


 神崎悠珠は、勉強に飽きていた。


 頭の回転は早く、記憶力も良い。ただでさえ勉強向きの脳なのに、夏休みという余りある時間を勉強に使えばどうなるだろうか。お陰で、一年生のうちに習うであろう範囲はほとんど習得してしまった。力試しにと手にした参考書だったが、それは自身の理解が極めて正確だという事実を裏付けるだけだった。その結果に、神崎悠珠は落胆した。


 あまりの退屈さに耐えきれなくなり、机から立ち上がり、すぐ後ろのベッドへダイブした。顔面を受け止める枕のふかふか感が心地よさを思い起こさせるが、また直ぐに退屈が押し寄せてくる。それはうつ伏せのままバタ足をしてみたところで、変わる気配は無かった。


 ベッドのサイドテーブルに手を伸ばすと、そこには重々しい質感のノートパソコンがあった。悠珠が所属する白鷲高校ゲーム部の備品であるゲーミングノートPC、MONSTER-WEARモンスター・ウェア。夏休みに入る前、顧問に頼んで借りてきたものだった。


 画面を開き、慣れた手つきでログインする。すると、昨晩プレイしていた「高校妻と始める異世界新婚生活」のメニューが表示されていた。セーブデータは既に七つあり、進行度はどれも百パーセントを示していた。このゲームで攻略できる女の子は七人。つまり、完全クリアだった。


 悠珠はニューゲームを選択すると、目を閉じた。手探りで無作為に攻略キャラを決めると、テキストを読み始める。しかし、最初の選択肢が出たところで、無意識下の舌打ちと共にアプリケーションを終了した。


 勉強の息抜きに連日プレイしていた悠珠は、全てを覚えてしまっていた。選択肢を見た瞬間に、最適解がわかる。タチの悪いことに、不正解を選んだその先の展開ですら、わかってしまうのだった。


「うぅ〜、あぁ〜」


 悠珠は枕に顔を埋めながら呻いた。退屈だ。それもこれも全部、夏休みのせいだ。

夏休みを迎えるまでが、そして迎えてからの数日が、悠珠にとってはあまりにも刺激的過ぎた。そしてそれを一度知ってしまうと、もう戻れない。今までの生活が、途端に色味を失って灰色になってしまったような、そんな錯覚すら覚えるのだ。


 堅実な学生生活を送っているはずなのに、満たされない。悠珠は初めて、欲求不満は人を狂わせうる病だと知ったのだった。


 こういう時、思い出すことは、たいていあの男の言葉だった。



――顧問、斎藤太。

――これも全部、斎藤のせいだ。



 悠珠は顔をあげ、PCのコミュニケーションアプリを立ち上げた。シンプルな画面構成に、現在アクティブなユーザー名だけが表示されている。今は一人だけ。そのアカウント名はFu_saitoo。


 悠珠はそのアカウントをダブルクリックして、チャット欄を表示させる。最後の事務的な簡素なやりとりが表示されると、何故か不愉快な気持ちになった。その理由に気付けないまま、悠珠はキーボードを叩いた。


『斎藤先生へ』


その後に文言を続けて送信すると、直ぐに既読になり、慌てたように返信があった。



「ふふ。先生、かわいい」



悠珠は口角が上がってしまっていることに、気付いていなかった。

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