5限目 井出琢磨(いでたくま)

 翌日。

 今日はなんだか肌の調子がいい。心なしか笑顔になっている気がする。

 職員室で午後の為にちょっとした書類作成をしている時だ。


「斉藤先生、おはようございます」


 話しかけてきたのは石橋先生だ。俺はブラウスのボタンに向かって返事をした。


「ああ、おはようございます」


「なんだか、今日は楽しそうですね」


 石橋先生はそういって「ふふっ」と笑った。朝からエンジェルに会えて俺は嬉しい。


「そうですか?そんなことないですよ」


「ふふ、でも良かった。先生、いつもちょっとしんどそうだったから…」


 それは多分晩酌ばんしゃくを引きずっているからだろう。エンジンがかかり始めるのは大体午後からだ。

 しかしそんな自分の不摂生ふせっせいが気遣いをさせてしまっているとは。これは社会人として反省せねば。酒はやめないけど。


「すみません、ただ昨日は良く寝られまして、おかげでこの調子です」


 俺は肩の高さまで揚げた右腕を折り曲げた。残念ながらその二の腕は隆起りゅうきしない。


「元気で何よりです。では私は授業がありますので、また後で」


 先生はそう言って笑顔で職員室を出ていった。その胸に大切そうに抱かれた教材に俺はなりたい。



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 5月の中旬。昨今のこの時期は十分に暑い。行き交う生徒たちの模様替えもなし崩し的に行われているようだった。

 実際、暦の上では夏だ。二十四節気にじゅうしせっきというものがあり、この区分では5月の中旬から夏。

 一方、教育機関では年度による区分が基本となるため、「夏は7月から」というイメージが強い。実際企業でも第1四半期である4月~6月を春と呼んでいる所も多いそうだ。しかし気象学や天文学的には6月には夏入りしているとの事で、日本の季節の概念というのは随分と曖昧なものだったりする。

 日本の教育機関では制服を採用するのが慣例かんれいであることは周知の事実だが、それが着用物の機能として日本の四季に適しているかというと、そうではない。制服は夏用と冬用の二種類しか無く、スーツのように素材を選択する事も出来ない。それなのに、多くの古い校舎はそれに対応出来るだけの空調設備を有していない。体感気温は個人の差が大きいが校則は着用を一元化いちげんかしているので、そういう環境で集団生活を送っていると体調不良者が現れるのは当然だ。いわゆる季節の変わり目、これから梅雨に向かい気温・湿度が乱高下する時期は特に注意が必要だ。実際、俺の受け持つ授業でもちょくちょく空席が出始めている。生徒数が30人と少ないとそれもなかなか目立つのが皮肉だ。それを考えると、制服くらい自由に調整させてやればいいのにとは思うのだが、そこは教員だ、属する機関のルールを積極的に破れとは言えない。先の校長の発言も耳に痛い所だ。

 

 顧問を受け持つと、そこら辺の教育上の裁量もゆだねられることになる。ゲーム部に属する生徒の素行が悪いと、その顧問である俺の監督責任が問われることになるわけだから、今までのようにクラスも持たず授業だけをこなせばよかったのとは責任が違う。これは気持ちを入れ替えなければ。


 しかし人間は不思議だ。睡眠不足が解消されるだけでこんなにも聖人君子的思考にかしいでくるとは。

 ビール片手にゲス顔でエロゲーをプレイする俺とはまるで別人のようじゃないか。

多分きっと別人だ。


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 そんな事を考えながら部室の前にたどり着く。

 ゲーム部は部活棟では無く本棟の「視聴覚準備室」が振り分けられた。その部屋の性質上、インターネット環境や電源環境が整っており都合が良いのだ。

 

 カギはすでに開けられている。


「みんなおはよう」


 ガラッと扉を開けると、すでに二名の生徒、櫻井美月さくらいみづき神崎悠珠かんざきゆずが座っていた。

 すでに夕方なのに「おはよう」はおかしくないですか、とかツッコミは要らない。


「おはよー、センセ」

「こんにちは斉藤先生、お疲れ様です」


しかし、いや、案の定、二人には覇気がなかった。


「ん、どうした、二人とも、元気がないな」


 俺はわざとらしくそう言って奥の席についた。二人は心なしかゲッソリしている。アニメならその額に青いフィルターが掛けられていたことだろう。


「んー、そうかな、ははは…」


 美月みづきは気だるそうに肩を揉んでいる。


「ところで、二人共、ゲームはやってきたか?」


 俺の発言に、二人の時が止まる。


「ええ、やってきました。しっかりと、一時間…」

「うんあたしもー、ね、意外とすぐだったかなー…ねぇ?悠珠ゆず

「ええ?、ええええ、面白いものですね、一時間なんて、本当、あっという間…」


 俺はニヤけそうな顔面を気合で押しとどめる。


「そうか、思わずやりすぎて、睡眠不足になったりなんてしてないか?」


「そんな、睡眠は生徒にとって大切ですわ。勉学に勤しむもの、そんな不摂生な事はしませんわ」

「そ、そうだよー。いくらあたし達だって、本文は勉強だもんねー」


 しかし次の俺の一言で、彼女達のその強がりはもろくも崩れ去る。


「……」


 その瞬間、美月は携帯を床に落とし、悠珠は肩を震わせ椅子が音を立てた。二人は凍りついたように動かない。


「ん、どうした二人共」


「…どうしたじゃないわよ…」


 弾けたように立ち上がって両手で机を叩きつけたのは美月だ。悠珠は頭を抱え込んでしまっている。


「何よあれ!ゲームって聞いてたからすっかり…あああ!騙された!あーそうよ、寝れなかったわよ!言っとくけど怖かったからじゃないんだからね!」


「平和な話が続くかと思ったら…まさかあんな恐ろしい展開が待っていたとは思いませんでしたわ…なんなんでしょうあの感じ。怖くて今すぐ辞めたいのに…指が止まりませんでした」


「あんな胸糞悪い話だとは思わなかったよ!」


 俺は声を出して爆笑した。



 「ひぐらしの鳴き止む頃には」はその衝撃的な展開が話題となったノベルゲームだ。最初はただの日常ものなのかと思われた矢先、突然衝撃的な過去が明らかになり、主人公は知らず内に事件に巻き込まれ、謎多き死を迎える。そのきっかけとなるのが先のセリフだ。しかしプレイヤーは萌え絵が繰り広げる会話劇をただ見届けるだけで選択肢すら出ない。一方的に死を押し付けられる展開と明かされない謎にコミュニティが湧いた作品だ。テレビアニメ化されるとその知名度は一気に高まった。

 しかし、この世代の子は知らないのだ。


「いやーすまん!悪気はなかったんだよ」


「嘘つき!絶対悪気あった!」


 その通り嘘だ。


「私達は先生を侮っていたようですわ…思えば帰り際のあの笑顔は何かを企んでいた表情だったんですね…」


 流石にそこまで陰湿ではなかっただろう。


「まぁまぁ、まて、俺は流石にそこまで性格悪くないぞ。あくまで素敵なゲーム体験をしてもらいたかっただけなんだ」


「信じない!」


「本当だって。考えてみてくれ。もし俺が、このゲームはホラーゲームだと伝えてあったら、プレイしたか?」


 二人ははっとする。


「もし先の展開がバレていたら、あんなにワクワクしなかったんじゃないかな。予想だにしない展開に驚き、恐怖し、しかし好奇心が先へ先へと指を運ばせる…。気がつくと深夜になっていた、なんて体験はできなかったんじゃないか」


「確かに…」

「そう言われると、そうかも…」


「そしてその数時間の密度だ。お前たち、俺がたった一文読み上げただけで、内容を鮮明に思い出したはずだ。勉強はどうだ。授業で習ったことなんてすぐ忘れてしまうだろう?だから何回も反復練習し、テストで確認し、それでも忘れ、応用がおぼつかない。でも、たった一度しかプレイしてないゲームは鮮明に覚えている。ただ読み進むだけなのにも関わらず、だ。この差はなんだと思う」


 二人は黙りこくっている。そう、それこそが今回俺の伝えたかったことなのだ。


「その差はな、好奇心だ。人は好奇心を持って接したことは中々忘れない。ゲームはエンターテイメントだ、人の好奇心を煽るための工夫がされているから、同じ読み進めるだけの教科書とこれだけの差がでるんだ。これから先争うことになる強豪共と渡り合っていくには、より質の高い体験をして吸収していかなくちゃならない。だから今回、こういう仕掛けをさせて貰った」


 ゲーム部は全国の高校が立ち上げている。偏差値もまちまちで、それこそ根っからのゲーマー共が集まる所も出てくるだろう。長時間の経験値を持つそんな連中を打ち負かすには、彼らより濃密な練習で経験値を上げる必要がある。


「俺はゲームを勉学と同じ目線で捉えてほしくなかったんだ」


 これはゲーマーとしての本心だ。


「先生のおっしゃることはわかりましたわ。しかし、具体的には何をすれば良いのでしょうか…」


「好奇心を持つって言われても、感心をコントロールするのって難しくない?」


 それを最も容易に実現する方法を俺は知っている。


「好きになればいい」


 二人の純粋な瞳に、美しい彩りが宿る。


「好きも好奇心も同じさ。ゲームはあんな素敵な体験をさせてくれるものなんだ、と、好意的に捉えてくれればそれでいい。そうすれば、自ずと探究心が湧いてくるさ」


 若かりし俺を支えてくれたのもゲームだった。ゲームによる体験は人の心を豊かにする。俺はそう信じている。


「なんか…先生っぽい…」


 美月が頬を赤らめている。

 流石にちょっとクサい演出だったかな、と恥ずかしくなった。やはり今日の俺はどうかしている。


「斉藤先生」


 立ち上がったのは悠珠だ。


「私、感動しました」


 胸の前で自分の手を握りしめる悠珠には謎のキラキラが纏わりついている。小動物みたいだ。


「正直なところ、生徒会長に頼まれた時は気が重たかったのです。勉学、生徒会、その上部活まで両立出来るのかと。でもこれなら私、続けられそうです。それも、楽しく!」


 なんと教師を持ち上げるのが上手い子だろうか。おじさんは感動して涙がでそうだ。でないけど。


「これからもよろしく頼むよ。頑張ろうな、櫻井、神崎」


 二人の元気な返事が教室に響き渡った。

 もしかしたらこれは俺が教師として初めて味わう、教師としての喜びなのかもしれない。



----------


そんな時だった。


「すみません、誰かいますか」


ノックとともに聞こえてきたのは、覚えのある男子生徒の声だった。


「はーい」


そう言って立ち上がったのは美月だった。

第二ボタンを閉めるよう指導するより前に、美月は勢い良くその扉を開け放った。


「えーっと、ゲーム部の教室って、ここであっていたかな」


立っていたのは、イケメンだった。


「あ、斉藤先生。よかった、間違えたらどうしようかと思って」


 その男子生徒の名は井出琢磨いでたくま。俺の担当する授業に出席している、学園内屈指の爽やか系イケメンで、テニス部のエース。

男だ。


「井出じゃないか。どうした?」



 後の競技ゲーム甲子園においてその甘いマスクで多くの女性ファンを獲得した生徒がいた。スポーツ、勉学、ゲームの両立を証明したその生徒は全国の男子を敵に回すことになる。


「僕も入部させてもらいたくて。ゲーム部に」


―小足の貴公子。


 その冷静沈着に相手の弱点を突くプレイスタイルで、多くの女子が羨望せんぼうを、男子が怨恨えんこんを持って呼んだ通り名だった。

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