第九章 暁に染まる虚空に

「…っ!?」

 目が覚めてすぐ私はがばっと身を起こし、辺りを見回した。


 そこは生々しい血が残る、見覚えのある場所…


 …そう、鬼神が命を絶った場所。


「…っ!?子憂っ!真っ!!」

 私は部屋の一角で目を瞑る友人二人に駆け寄った。

 …息はしている。気絶したままなのだろう。


 あ、そうだ。刀。


 私は鬼神と一緒には消えず、そこにぽつりと残された彼の最後の血がついたそれを見つめた。

 そこで私は、その刀の周りに少しだけ残っていた鬼神のものと思しき鬼火が、すうっと刀身に吸い込まれていくのを見た。

 この刀も、たくさんの人やあやかしの血肉を裂いたのだろう。




 それにしても…


「長い夜…だったなぁ」


 二人が生きていることに安心し、刀から目線を外へ移した私は、改めて江戸の町を見渡した。

 ずっと暗く、黒い雲に覆われ、妖しく光る月が顔を出していただけのあの空から一変して、空は明るく、雲の合間からは暁の朝日が昇っている。

 町の戦火はおさまっているが、全焼した家屋や、屋根に大きな穴が空いた家屋が見られ、その全ての家屋に赤黒い血が見えた。


(そういえば冷乃さんたちは大丈夫だったかな…?)

 というかそもそもあの人達はいつの時代の人なのだろう…

 私はそんなことを思いながら立っていたが、だんだん足が震えてきて、へなっとその場に座り込んだ。

 もう目の前にあの鬼神はいないし、もちろん紅葉もいない。

 あるのはまだ酒の入った瓢と、鬼神が使っていたくだんの刀、そして二人の着物だけ。


 あんなに忌々いまいましく思っていたのに、いざ消えてしまうと少し変な感じがする。

 今まで感じたことのない感じだ。

 どの感情と照らし合わせても、何一つ合致しない。

「何なんだろうなぁ…」

 こんなこと気にしなくてもいいことなのかもしれない…が、私はどうも腑に落ちなかった。

 だってまだ…

「だってまだあの鬼神様の過去…人間だった頃のこと、なんにも知らないんだもの」

 記憶を辿る限り、それほど明るく楽しかった過去、ではないことはわかるが…

「これがわかってたらもうちょっと行動が変わってたかもしれない…のかな…」

 私はやりようのないよくわからない感情のこみ上げてくるのを我慢できずに、膝を抱えてすすり泣いた。

 なんで泣いてるんだろう私…

 大体からしてあの鬼神は悪いやつだったじゃないか。あんな酷いことを平気でやってのけたんだから。


 でもそれが過去にあったことから出た行動なら…?

 私ならもし散々な過去を抱えていたとしたら抑えきれずに酷いことでも何でもしてしまうだろう。

「……もうなにが正解だったのかわかんなくなってきた」

 いや…そもそも正解なんてあるのだろうか。


 そんなことをうんうん唸って考えているうちに、疲れからか瞼が落ちてきた。

 私は膝を抱えた姿勢のまま、すぅと深い眠りに落ちていった。



 *



「…と……ゆと……侑都……!!」

「…っ!?」

 突然耳に飛び込んできた大声に私は飛び起きた。

 そこにいたのは…

「侑都!」

「ま、真…!?」

 病院に入院する人が着るような服を着た真だった。

 横には看護師が一人ついている。

 …よく見たら、ここ…どこ?

「病院…?だよね、なんで…?」

「ん?何で、も何も、俺と侑都と子憂で肝試しに行って、何かわかんないけど気失っちゃったんじゃん!何、まさか覚えてないとか?」

「…え?」

 肝試しで気を失った…?

 まって、真、もしかして…

「ねぇ…」

「どしたー?」

「今って…何時代…?」

「…はぁ?」

「ここって現世…?隠世…ではないよね??」

「…侑都、頭でも打ったのか?」

 怪訝そうな顔をする真。

 これ…もしかして…いや、やっぱりそうだ、真は何も覚えてない…。

 それに…肝試しってことはあの日以降こっちでは時間が止まってた…??

「あっ!!ねぇ、優花と光は…!?」

「…何言ってるんだよ侑都、優花と光はだいぶ前に事故で…それでこの間、子憂も連れてお墓参り行ったんじゃん」

 …優花と光は…もうこの世にはいない…?

 いや確かにあの鬼神の手と江戸の戦によって二人の命は絶たれてしまっていたけど…

 こっちでも少し違う形で反映されてる…ってこと…?

 私はあまりにも色々なことが頭の中で渦巻いていることで大困惑していた。

「ご、ごめん、そうだったね…そういえば子憂は?」

「あぁ、子憂ならまだ寝てるぞー?」

 真は一瞬本気で心配したような顔をしたが、すっと私のベッドの横のカーテンを開け、「ほれ」と私に見るよう促した。

 私はそーっと覗いてみたが…

「…?ねぇ、子憂いないんだけど…」

「俺はこっちだ」

「って、わあああっ!?」

 急に背後からかけられた声に驚き、振り返ると…

 ずいぶんと不服そうな顔をした子憂が。

 これ…あ、真がにやにやしてる…ぜったい仕組んだでしょ…!?

 というか子憂の眉間に何かシワが寄っているんだけど…

「俺はこんな下手くそなドッキリなんてしたくなかったんだが」

「ま、まぁまぁ…お、落ちついて…」

 真は必死に弁解している。

 …要するに真が子憂に協力するよう言ったんだろう…


「ふふっ」

 この平凡なやり取りをみていたら、なぜか自然に笑みが零れた。

「ん?あっ、やっと侑都笑ったー!」

「なにが面白かったのかわからないが…まぁ良かった」

 私が笑ったことにほっとしたような顔をした二人。

 真はずいっと顔を近づけて、「侑都が無表情だとつまんねーからなぁ」と言ってにぱっと笑った。

 …あれ?

 なんだろ、この感じ…

「…犬神?」

「え?いぬ…なんて??」

「ご、ごめんなんでもない」

 なんでだろ、真の仕草見てたら犬神思い出しちゃった…

 ひょっとして雰囲気似てるのかな…?

 私は頭の中で犬神の姿を想像したが、あの獲物を狙う冷たい瞳がこちらを見たときを思い出して少し怖くなるだけだった。

 ぶんぶんと頭を振ってそれを消そうとするが…


 …一度思い出してしまうと止まらなくなるらしい。


 次々と脳裏に、忘れかけていた記憶が蘇る。

 豆狸、白澤、妖狐、八岐大蛇、烏天狗、青行燈、犬神、九尾の番、そして…鬼神。

「どうしたー?なんか顔色悪いぞー…?」

「ううん、大丈夫…」

 真に心配されながらも、私はふと自身の手のひらを見やった。

 その手に赤黒く冷たい、あの鬼の血が付いていたのが思い出される…

(だめだ…)

 …一度考えるのをやめよう。

「ごめんね、ちょっとお手洗い行ってくる」

「ん、誰か付いてったほうがいい?」

「あ…ううん、一人で大丈夫だよ」

 私はその場をなんとか抜け出し、ふらつきそうになりながらも、お手洗いに向かった。



 *



「はぁ…」

 少し一人になったことで、やっと落ち着いてきた…

「誰も覚えてないなんて…」

 私だけが隠世、そして江戸の町のあの惨状を覚えている。

 そう、私しか覚えていない。

 あんなに死に物狂いで戦ったのに。

 あんなに必死に生きたのに。

 あんなにみんなで協力して頑張ったのに。

 あの二人が覚えていなかったのならきっと…私以外は覚えていない。

 本当の本当に、私一人だけがこの言いようのない辛さを抱えている。

 その事実だけで心細さに泣きそうになってしまう……

 私は顔を上げてその涙を止めようとした…のだが。

「ん…!?」

 その時にふと目に入った自分の顔。

 いつも通り、自分の顔がただただ映されているだけのはずなのに。

 絶対そんなことはないはずなのに……

 その顔は…どこか…

「紅葉さん…っぽい…?」

 あの橙色の角を生やした鬼女、紅葉のようだった。

 いや、完全に似ている、一致している…という訳ではない。

 まぁ確かに紅葉を初めて見た時、少し自分と似てる…?とは思ったけれど…

 こうして自分の顔をまじまじと見ていると、どこか紅葉らしさが垣間見える。

 もしかして…

「生まれ変わり…とか?」

 だとすると、彼女は私に会った時、自分の生まれ変わりに会ったことになる…?

「いや、まさか…ね」

 それに、鬼神様と紅葉さんが最後に言ってた言葉も気になる…けれど。

 何より今はちゃんとこの時代の現状について行かないと。

 真と子憂に不審に思われてはいけない。

 私はそう心に決めて、二人の元へと向かった─────



 *



 あれからどれほどの月日が流れただろうか。

 私は真と子憂に不審がられることもなく、周りにも馴染み、高校を卒業し、大学生となった。

 私の家である鬼桜葉神社から近い大学に、新しくできた友達と通っている。

 真とは同じ大学だが、子憂は少し遠いところの大学へ行ってしまったため、たまに連絡を取り合ったり、遊びに行ったりしている。

 何の気兼ねもない、平凡な日常。

 ただその中で私が気になるのは…


 あの日から私の隠世と江戸の町にいた事に関する記憶だけがだんだん、確実に薄れていっているということ。


 もう最近では誰と出会って何をしたか、ということを思い出すのも一苦労するし、どれだけ頑張って記憶を辿ってもそのことに関するものだけが一向に見つからないのだ。

 そして私は今日もそのことをぼーっと考えながら、大学で講義を受けていた。

 一度考え出してしまうと、つらつらと面白くもない内容を喋る教授の言葉は全く頭に入って来ず、片耳から片耳へ流れていくだけになる。

 今も広げたノートにボールペンで、微かに覚えていることを書き出しているのだが…

(覚えているのが、野蛮な奴らが多かったっていうのと、私の家に隠し部屋があるってことだけ…)

 いくら何でも少なすぎる。


「…どした?」

 私がずーっと悩んでいるのがバレたのだろうか。

 横に座っていた大学に入ってからできた恋人である一ノ瀬 八之はのに小声で心配されてしまった。

 私はそっと「なんでもないよ」と返す。これがいつもの流れ。


 ここ最近ずっとそんな感じじゃねーか?


 八之らしい達筆な字でそう書かれたノートが手渡された。

 …なるほど、筆談ってことね。


 思い出したくても思い出せないことがあるの


 なんかあったのか?


 んー、気にしなくていいよ、なんとか今頑張ってるとこ


 俺も何か手伝おうか?


 ううん、別に大丈夫だよ


 至って普通なやり取り。

 このやり取りをしたあと、彼は決まって一度私ににこりと笑いかける。

 それは俗に言う爽やか笑顔であったり、柔らかい笑顔であったりするが…

 たまに見せる少し人を小馬鹿にするような、あざけるような笑みを浮かべたときに、私は頭の中で誰かと重なって見えるのだ。

 どこかで見たことのある笑み…

 あんな悪い笑みをどこで見たんだよって話になっちゃうけど…

 なんか誰かと似てるんだよね…



 *



 私はそれから家にまっすぐ帰った。


 いつもなら近くのコンビニに寄ってお気に入りのレモンティーと、大学でできた男女の双子の友達であるゆずりは 星七せな架七かなの、架七のほうにジュースを買っていったりとか、駄菓子屋に寄って駄菓子を買っていったりするんだけど…


 今日はなんとしてでも家で確かめたいことがある。



 しばらく歩き、後輩の家がある商店街を抜けて、さらに細い裏道を進む。

 本当は大通り的なところからも帰れるのだが、今日は近道をした。

 そしてようやく見えてくる我が家の鳥居。

 年季が入ってはいるが、そこそこ綺麗な朱の鳥居だ。

「おじいちゃーん」

「ああ、なんだ、侑都。帰ってたのか」

「うん、今さっきね」

 いつものように境内の彼岸花の手入れをしていた祖父に声をかけ、私はそそくさと自分の部屋に入る。

 机の上に置かれた色とりどりの落雁らくがんのうちの、彼岸花を模した小粒を一つ口に放り込んで、少しぬるくなったお茶を一口。

 ふぅぅ……と息を吐き出し、深呼吸をすると、私はすくっと立ち上がり、ぐっと拳を握りしめ……

「さて…疑問を解決するとしますか…!!」




 いつものお気に入りの着物に手早く着替え、早速記憶にある限りの情報を頼りに、とある隠し部屋を探す。

 そう。

 あれから必死の思いで張り巡らせた思考の中に、一つだけ確かな記憶…鬼桜葉神社の隠し部屋についての記憶があったのだ。


 そうして廊下を歩きながら色んな部屋を回り……

 ここだ!と思ったら埃っぽい物置だった、ということが何回かあったが…



「あ…」


 ついにそれらしき扉を見つけてしまった。

 扉には何の装飾もされておらず、鍵もかかっていないのだが…

「こんなところにあったら見つけられるわけないよ…」

 祖父でもごく稀にしか出入りしないような部屋の押入れの中に扉があり…

 そこに入ると謎の廊下に出て……

 そしてさらにその廊下をすすんだ先。

 そこがここ。


 こんなの分かるわけない。

 諦めかけてがさごそやっていた時に偶然見つけることができたのだから、きっと今の私はとんでもない強運の持ち主だろう。


「なんかもうおじいちゃんでも知らなそうだよこの部屋…」

 一見すれば全然普通の扉だしね…


 入ったら出られなくなるしかけとか無いかな、大丈夫かな。

 この間、架七に強引に読まされたホラー漫画の展開を思い出し、少し身震いをする。

 でも。


「……こんなことしてても何も始まらないよね」

 ついに私は覚悟を決めてそっとその扉に手をかけた。

 引き戸式の扉が少しギィ、と音がしたが、案外楽に開いた。

「わ…なんだ、普通に開くんだ…」

 私はそっと部屋の中に入り、手探りで電気のスイッチを探し、明かりを付ける。

 ここの部屋も一応そういうスイッチでつくような電気になっているのだ。


 …まぁ相当昔の電気だけど。




「えっ…わぁ…な、なにこれ」

 そして明かりをつけて鮮明になった視界に映りこんだのは…


 彼岸花を模した模様と、月を模した模様が掘られた木箱や筒たちの山だった。


「うそでしょ、すごい量…」

 数々の箱たちを眺めて私は驚いた。

 結構あるけど…

(一個一個見ていくしかない…よね)

 まぁ今日はどっちにしろ急ぎの用もないし、ゆっくり見れるだろう。

 私はそう思って、手始めに座った位置から一番手前にあった木箱を手に取った。

 そして恐る恐るその箱を開けると…

「き、着物…?」

 ところどころ刀で斬られたような裂け方をしていたり、血が付いていたりする、黒の着物と、その下に着るものだろうか、赤の着物が入っていた。

 そしてその畳まれた着物の上には、真っ赤な一輪の彼岸花が添えられている。

 私はその彼岸花をどけて、着物を広げてみた。

「あ、帯もある」

 着物を取り出すと、さらに濃い赤の帯が出てきた。

 炎を模したような形の帯飾りも、金色で模様が描かれた札の耳飾りまで…


「…ん?」

 まって、見覚えなんてあるはずないのに…

「これ…誰かが着てた…よね?」

 記憶の中でこの着物を着た人影と重なる。

 私は少し気味悪くなって、さっとその横にあった箱を引き寄せ、開けた。

「きじん…さま?」

 何故かその中に入っていた和紙をみて、自然とその言葉がでた。

 きじんさま………鬼神様…?

 私はその名前が頭に浮かんだ途端、何かに突き動かされるようにその和紙をばっと並べ、目を通した。

 汐月しづき…あかば…戦…両親…憎しみ…

 あれ、あかばって…聞き覚えがあるような…?

「あっ!!」

 あった、鬼神…ちゃんと書いてある…

 ん…刀?刀ってもしかして…

「…これ?」

 私はすぐそばにあったやけに細長い箱を開けた。


 …あ。

 私これ知ってる。


「鬼神様が切腹して……切腹…あっ、そうだ!思い出した…!!」

 最後に鬼神は自身の刀…つまりこの刀で自らの命を絶ったんだった…

 私はそのときその場にいて…

 紅葉…鬼女紅葉もその場にいた…!

 私は思い出したことで、その和紙全ての意味を理解した。



 理解したことを整理するなら…

 まず、鬼神は汐月というただの少年だったということ。

 そして両親含む三人家族で、あかばという恋人がいた。

 そのあかばと町に出たとき、徳見直康が仕組んだ戦により、男たちにあかばを殺され、自身の背中も彼女を庇ったことで斬られ、ギリギリ走れるほどの状態で家へ向かい…

 両親が殺されているのを見つけた。

 あかばが殺されたことで溜まった恨みや憎しみが、両親まで殺されたことで爆発し、抑えきれなくなり…


「最凶のあやかし…鬼神、となった…」


 人間であった汐月は死して、あやかしとしての鬼神となった。

 和紙の文はそこで終わっている…

「一度死んでいるってのはこういうことだったんだ…」

 鬼神の過去を知った私は、泣いていた。

 涙が頬を伝い、ぽたぽたと床に落ちる。

 これを知ってたら…

「別にあんなことしなくても良かったんじゃ…」

 私は自分が妖力札を使って鬼神を追いやったのを思い出し、なんでそんな鬼神が苦しむようなことしたんだろうとぽつりと零して、しばらく一人で静かに泣いた。



 そうしていると、視界が少し赤く染まったのに気づいた。

 ふと顔を上げ、赤い光の源を辿ると……


 そこには鬼神の刀があった。


 その刀からは先程まではなかった彼岸花を模した紋が浮かび上がっており、どこからともなく湧いた彼岸花がそれを覆い尽くそうとしている。

 その奇妙な光景に目を奪われ、増える彼岸花に埋もれる感覚に陥ったその時、私は意識を失った。




 *



「…っ」

 私はだいぶと長い時間が経った時、目を覚ました。

 少しばかり頭が痛むが…

 私は汐月…鬼神について記された和紙を丁寧にもとの箱へ仕舞い、その部屋をあとにした。

 ふらふらと廊下を歩き、何故か私の足は自然と自身の家の鳥居に続く道へと向かっていた。

 からんころんと下駄の音が鳴る。

 もうすっかり日も暮れて、祖父は家へ戻っていた。

「ここにいたらもう一度江戸の町に…隠世に行けるかな…」

 私はそんなことないと分かっていながらも、ぽつりと口にした。


「あっ、狸」

 俯いた私の足元をとてとて歩く狸を見つけた。

 なんか…どっかで見たような毛の色した狸だなぁ…

 その狸は私のほうをじーっと見つめてから、タッと駆け出して、家の方へ行ってしまった。

「…そろそろ中に入らないと」

 私は月が顔を出し始め、夕焼けから闇夜へと変わった空を見ながら、家へと歩いた…のだが。


「…?何あれ」

 ふと家の屋根の上に何かの気配を感じ、見ていると…

『おい炯眼、酒ねぇのか?』

『現世から仕入れたものなら…』

『それでいいそれでいい』

『飲む』

『…炯眼、お前の大事な鋭峰が酒飲みになろうとしてるぞ』

『ええっ!?』

『飲も、飲も』

『鬼神様がいいのであれば…』

『俺ぁ別に構わんぞ?』


「…っ!!!鬼神様に九尾の番…!?」

 私は目を見張った。

 屋根の上で座り、酒を飲む鬼神と炯眼と鋭峰。

 その姿が…見えたのだ。

「鬼神様っ!!」

 声をかけようとしたのだが…

 気づいた時にはもうその姿はなかった。

「げ、幻覚…?」

 幻だったことに落胆した私の横に、再びあの狸が寄ってくる。

「…なんか豆狸さんみたいだね」

 日が経つにつれ失われていった記憶が少し蘇ったことで、その狸のことを私はあの豆狸のようだな、と思った。

「はぁ…なんかすごいの見ちゃった」



 ──ならば最後に、鬼神が私のほうに笑いかけたように見えたのも、幻覚だったのだろうか。



 *



「わ、今日は一限から人が多い」

 あれから何をしたのかあんまり覚えてないけど、大学に着くまでずーっとあやかしのことを考えていた。

「…?どしたの?」

「架七…なんでもないよ」

「そー…?」

 心配して声をかけてくれる架七。横では星七が何やら机に突っ伏している。

「…なんか星七のほうが大丈夫じゃなさそうなんだけど」

「あー…朝からわたしのことおんぶしてたからだと思う」

「…なぜおんぶ」

「疲れてたんだって」

 へらへら笑って紙パックのジュースを飲んでる架七を見てると、なんか星七がいつもなんだかんだ言ってお願い聞いちゃってる理由がわかる気がする…

 というかなんか…なんだろ…

「ねぇ架七」

「?」

「鋭峰って知ってる…?」

 いや知らないと思うよ。知らないと思うんだけど…

 なんか似てるんだよね…

「なにそれ。名前?」

「あ、ううん、気にしないで」

「ふーん…なんか今日の侑都変なの」

 …案の定怪訝そうな顔をされたが…

(よく考えたら星七って炯眼っぽいよね…)


 …もうそれを考え出したら歯止めはきかない。


 高校生最後の年に知り合った、当時のバスケ部のキャプテンである狗坂いぬさか 楓斗ふうとは犬神に似ているし、大学に入ってから私に良くしてくれる少しいたずら好きな一つ年上の静野しずの 沙良さらは青行燈に似ているし…

 それ以外にも高校の時の風紀委員長だった柚木ゆぎ 葉月はずきは白澤に似ているし…


 恋人である八之はどこか、鬼神に似ている。


「今思えばこんなにいたんだ、似てる人…」

 頭の中でかつての江戸、隠世での姿と現在の私のよく知る姿が重なる。

 そしてこの現代の現世に戻ってきてから出会った人の顔を思い出している時…

 私の脳内に一つの考えが浮かび上がった。


 それは…『転生』。


 要するにかつてのあやかし達や人間達の生まれ変わり。

 それならあれほど面影があって、もはや瓜二つであることに納得がいく。


 それに…

「鬼神様が確か、最期に紅葉さんと楽しみだな、って言ってたんだっけ…」

 転生によって現代に生まれ変わっているのが本当であるとすれば、楽しみだなという言葉に込められた意味も分からなくはない。


『お前が思ってるそれが合ってるんじゃねぇのか?』


「…っ!?」

「えっ、侑都どしたの大丈夫…?」

 急にズキン、と頭が痛んだ。

 それと同時に脳内に響く…鬼神の声。

「ご、ごめん架七、大丈夫、ありがと」

「ん?…架七、まさか侑都泣かしたんじゃないだろうね…?」

「うげ、星七が怒ったー」

 私はそのやり取りを聞きながら机に広げたノートに目をやる。


 ───ポタッ。

「あっ…」

 ノートに雫が落ちた。

 一滴、二滴、とその雫によってノートが濡れていく。

 …否、ただの雫ではない。

(私泣いちゃってるじゃん…)

 でも仕方ないじゃん、鬼神の声が脳内に響いて、しかも何か語りかけるような感じで、いつもより少し優しい声音で…

 もう私はそこから全くと言っていいほど授業に集中できなかった。


 ───そして気づけば授業は一通り終わり、講堂にはもうほとんど誰も残っていなかった。

 私の横の席のところに貼られていた狐のモチーフの付箋には、「先に帰ってる。何かあったら杠までどうぞ」という架七の文字と、星七の「薬置いとくよ」と書かれたメモと頭痛薬があった。

「なんか気使わせちゃったなぁ…」

 心の中で謝りながら、私は鞄を持って講堂を後にした。



 *



「はぁ…」

 その日の夜、私は縁側に出て、祖父が置いておいてくれた麦茶を飲みながらスマートフォンを眺めていた。

 帰ってお風呂に入ったその後にようやっと気づいたのだが、八之や楓斗、沙良からメールが来ていた。

 でもどれも「大丈夫?」みたいなことばかりで…

「…結局三人とも私のこと見てたんじゃん」

 くすっと笑みが零れる。

 そして私はふっと夜空を見上げた。

 …満天の星空ってこういうことをいうんだろうなぁ。

 そこに広がる星の海は、私のちっちゃな悩みごとなんてどうでもよくなる程の綺麗さだった。


「あれ、雲かかっちゃった…せっかくいい具合に満月だったんだけど」

 せっかく綺麗だったのになぁ…

 私はよっと立ち上がり、お茶を片しに台所へ向かった。



 *



「なんだ、おじいちゃんまだ起きてたんだ」

「ん?あぁ、今夜はいい夜だからな」

 そこにはいつもなら寝ているはずのおじいちゃんが、さっきまでの私と同じように開け放たれた窓から夜空を見上げていた。

「いい夜?でも雲で星も見えなくなっちゃったよ?」

「いや、いいんだいいんだ。こんな日には鬼の神様がよく出るのだから、それでいいんだ」

「鬼の神様…?」

 私はおじいちゃんの口から出たその単語に反応した。

「そうさ。此岸しがん彼岸ひがん、そして現世と隠世を鬼が少しばかり近くしてくれるんだ」

「それって要は異界どうしを近くするってことだよね?」

「ああ。そしてその異界どうしが近くなる日に、うちの神社で昔から言われていることがあってな…」

 そう言うと祖父は、「宵闇に黄金の満月が顔を出す夜、人ならざるもの転生し、人の世にて顕現する」と、随分と言いなれた様子で口にした。

 私の知ってる語彙で訳すと、つまり、人間じゃないものが生まれ変わってこの世に現れるということになるが…

(じゃあ八之や楓斗くんや沙良さん、架七に星七も…)

 もし本当に生まれ変わりなのだとしたら、この時にこちらへ生まれ変わったのかもしれない。

 私の脳裏に、頭の中に直接響いた鬼神の、あの『お前の思ってるそれが合ってるんじゃねぇのか?』という言葉が浮かぶ……


「そういえばもとより隠世には、本来彼岸に住まうもの…つまり死んだ人間があやかしとなったものが住んでいるそうだ。まぁおとぎ話や伝説だがなぁ…その者達のことをなんというか、侑都は知っとるか?」

「ううん……知らない」

 それって…あのあやかしたちの総称…ってことだよね?

 それは気になる…

 だって、あのあやかしたちは『あやかし』であることは教えてくれたけど、自分たちのことが現世でなんて呼ばれてるかまでは教えてくれなかったんだから…


「侑都はこういう話が好きか?」

「…うん、ちょっとね」

「そうかそうか」


 そして祖父がゆっくりと口を開いた時、空を覆う少し紫に色づく灰色の雲が風で動き、黄金の満月が顔を出す───




「彼岸のあやかし、というのだ」




 その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中には彼らに関する記憶がまるで洪水のように溢れた。

「一度死んだ人間があやかしになるなんてあるわけないだろうに…遠い昔のはなしというのはわからんものだな」

 そして祖父は私にこの神社に伝わるもっと不思議なことを教えてくれた。

 この鬼桜葉神社では、四季それぞれの季節ごとに、異名…所謂いわゆる特殊な呼び名がある。



 夏夜なつのよ秋風あきかぜ沙冬さと春麗はる



 聞き覚えのあるその四つの呼び名は…

 かつて江戸の世と隠世を行き来していたという不思議な格好をした者達の口から伝わったらしい。

 赤と水色の着物の女子おなごに、橙、紫、黄の着物の男子おのこであったという、五人の若人たちによって。



 *



 その夜が明けた早朝。

 鬼桜葉神社に訪れた参拝者はこう言った。

「一匹の毛並みのいい狸が、空にぽっかり空いた穴に入っていった」、「まるで吸い込まれるようにして、何やら不思議な世界へ行ってしまった」と。



 そしてその向こうで本来いるはずのない鬼は、赤い鬼火を浮かべ、黄の犬、双子の狐、青の女鬼と共に笑う。






『暁に染まる虚空に開かれし狭間、隠世への通り道なり』

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