彼岸のあやかし【夏夜月下譚】

早瀬

序章


 ───耳が痛い。

 血生臭く猛々しい男共の叫び声とは裏腹に、夜の冷たく非情な風は、走る自分の耳を赤くし、頬を切るように吹き付ける。

 すっかり上がった息のせいで、もうまともに酸素を吸えない。


 横目に後ろを見遣ると、同じように肩で息をしながら走る彼女の姿が目に入る。

 繋いだ手は細く、恐怖で汗ばんでいるが、それでも力強くこちらの手を握っていて。

 …俺は無我夢中で走り続けた。


 途中、路地で真っ赤になった赤ん坊を抱き抱えたまま息絶えている者も見た。

 家屋の戸を倒して逃げようとしたところを後ろから貫かれた幼い兄弟も見た。

 家族を守ろうと立ち向かった者の下半身のみが門の前に残されているのも見た。


 俺は怖かった。

 本当は今すぐにでも刀を手に取って、そこらで暴れ回る幕府の阿呆を殺し回りたかった。

 …でも無理だった。


 まだ年端のいかない俺達だったからこそ通れるような小道も、塀も、使えるものは全て使って姑息に逃げた。

 せめて、後ろを走る彼女だけは守り抜こうと心に決めて。


 そうして巡り巡って辿り着いたのは、もう半壊した我が家だった。

 血の匂いが、冷えて赤くなった鼻に突き刺さるように流れ込み、視界に頭と別れを告げた父母の体が鮮明に映り込む。


「──!!」


 ふいに怖気がした。

 振り返ればそこに、血で濡れた日本刀を携えた妙に涼し気な顔の男が立っている。

 彼女目掛けて振り下ろされるその刀を、間一髪のところで俺が背中に受けた。


 熱い、熱い。


 どくどくと、拍動に合わせて俺の血はへたり込む彼女の足元へ流れてゆき…


 新たに背後から現れた何者かによって、彼女の血もまた俺の足元へ流れてきた。


 嫌に混ざり合う血のおぞましいことときたら。

 薄れてゆく俺の意識は、それでも色濃く、確実に、人間共への復讐の色に染まっていた。



 殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す。



 そうして背中の熱をそのままに、ただ怒りに任せて、俺は─────

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