第2話/Bパート

 ある秋の日。

 まだ定食屋の手伝いにも入っていなかった料馬は、部活の助っ人として試合をこなし、汚れきったジャージで中学から帰宅した。店の表口からは入らないようにときつく躾けられていたので、いつも通りに勝手口の方へ回る。

 そこには、中学生男子の足をもれなく竦ませる景色があった。

 いとこの玲実が勝手口の脇にうずくまり、両手で顔を覆って泣いていた。どうしていいのか分からずひとしきり迷っていると、玲実の方から先に、料馬の気配に気づいたらしい。洟をすすると、気丈にも涙をぬぐって立ち上った。


「……あ、料馬ちゃん。おかえり。遅かったね、試合だったの?」

「あ、うん……。レミ姉、なんで泣いてるの?」

「なんでもない、なんでもないんだよ。料馬ちゃんが心配するようなことじゃないから、ねっ。……ん。でも、ごめんね。今日はもう帰るね。叔母さんには言ってあるから……」


 走り去るように帰った背中は、とても悲しそうだった。

 いつも明るい「レミ姉」に動揺した料馬は慌てて中に入り、母を探したが、仕事中で手が放せない。

 ようやく真夜中になって事情を訊ねると、しかし芳江はふっと目を逸らした。息子に大人の世界を知らせぬよう、最大限に言葉を選び、口元に手を当てる。


「玲実ちゃんちのお父さん――つまり、あんたの伯父さんが、毎日仕事だって言って遅かったのは知ってるね? おばさんがいくら忙しくても、玲実ちゃんが風邪を引いた時にも、会社だ、って絶対帰ってこなかったことも」

「うん」

「それでね。伯父さんに、ちょっと、まあその。いろいろあって、怪我をしちまったんだよ。しばらく仕事もお休みさ。入院しなくちゃならないみたいだし、家計も厳しくなるから、玲実ちゃんは前よりここに手伝いに来ることが、多くなると思う」

「そんな……」

「とにかくいいかい。辛いことだったんだから。今後、玲実ちゃんにはこの話題を出すんじゃないよ」


 料馬は愕然とした。釘を刺して去って行った母が、遠くにかすんで見えた。

 ――これが、24のもたらす被害なのだ。法が見逃す悪の組織は、こんな身近にもその触手を伸ばしてきていたのだ!


「まあいい、母さんは今日も夜のお勤めがあるからね。あんたはちゃんと戸締りして、コージン様と修行をしてれば――」

「俺が行く!」


バン!!

料馬が、柱を叩いた音だ。

既に母より大きな身体で、両手を広げて、厨房に向かう母の前に立ちはだかる。


「今日から俺が、オフクローとして戦うっ!!」

「いいのかい?……辛いことも、たくさんあるよ?」


 母の憂うような瞳が、今は苛立ちさえ運んでくる。

 辛いのは……辛いのは、料馬でも、オフクローでもなかったのだ。

 孤独に耐え続ける伯母さんや、レミ姉。それに、仕事から離れられない伯父さんも。彼らを苦しめている元凶は……悪の組織! 24ブラックなのだ!!

 料馬は、力強く頷いた。


「ああ、大丈夫さ。覚悟は決めた。分かったよ…分かったんだ! 俺の戦う意味! オフクローが戦う、意味ってヤツがさ!!」



「はっ!」


 うとうとしていた料馬は、顔を上げた。試験前のため、手伝いより勉強を優先しろと言われたのだが、すっかり寝入っていたらしい。あとで佐原にノートを移させてもらえばいいと、寝惚け眼で頭をかく。

 懐かしい記憶だ。

 初めて彼が、オフクローとして働く意味を見出した晩の夢だった。

 夢に呼応するようにガラガラと厨房と居住スペースを区切る引き戸を開け、いとこの玲実が顔を出す。


「ごめーん料馬ちゃん、あたし今日早く帰るねー」

「あ、親父さんの見舞いだっけ。無理して手伝いに来なくてもよかったのに。大丈夫なのか?」


 またも入院したと、ちらりと聞いていたのだった。……が。

 次の言葉に、料馬はかつてないほど自身の耳を疑った。


「もーやってらんないよー。また浮気だよー。ほんっとあの親父サイテー。料馬ちゃんはああいう大人になっちゃダメだからね!」

「え……? また? あ、あれって過労じゃ……」


玲実がぶっと吹き出して、大きく顔の前で手を振った。


「やっだーそんなに上等なものじゃないってば!! そっかそっか、おばさん、教育に悪いから料馬ちゃんには本当のことは言わないって言ってたもんね。もうね、全然たいしたことないんだよ。いっつも仕事だっていってはお酒飲みに行って、女の子に絡んでて恥ずかしいったらありゃしないの。それで酔った挙句に転んで、頭打ったんだからもうどうしようもないよねえ。料馬ちゃんはそんな大人になっちゃだ・め・だ・ぞ☆」


 指をチッチと鳴らせば、頬の脇で切りそろえた短い茶髪が揺れる。

 頭の中で、夕暮れ時に町内に響く大福寺の鐘が、ゴーンゴーンと鳴っている。

 去っていくいとこを見送って、料馬は頭が痛くなった。


「お、俺の苦労は……あの決意は一体……」


 開け放した扉の向こう、厨房のコンロでコージン様が跳ねている。


「フヘヘ! いつ気付くかってヨシエと賭けていたんだゼ! なあリョウマ、どうする? オフクローはやめるかい!?」

「やめない! や、やめないが、釈然としねえ!」


 初冬の晩。教科書に伏した料馬の叫び声が、夜空に響き渡ったのであった。



 その頃、冬枯れの真っ暗な商店街。


「……あっつ」


 火傷した舌を出して、両手の中のとろりとした熱をふうふうと吹く。寒空に湯気が溶けた。


「おふくろ亭……か」


 赤い唇が、なぞるように言葉を選ぶ。


「……馬鹿みたい」


 吐き捨てるように呟き。

 はむはむとコロッケを咀嚼しながら、木枯らしに、黒い二本の毛先がたなびいている。



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