301帖 放牧地

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 腰痛が再発せえへんか心配してた。

 そやけどそんな危惧も杞憂に終わり、休憩を挟んで1時間程で急な坂を下りて来れられた。


 谷間の下に出来た扇状地まで来ると傾斜は緩くなり、地面にはかなりの草が生えてる。それに横殴りの砂嵐も無くて、細かな砂が霧の様に漂ってるだけ。稜線よりは遥かに視界は広い。目に見える範囲では砂漠にしては草の緑が目立つ。

 空を見上げると谷の上空はやっぱり物凄い勢いで砂が流れてる。そやけどこの扇状地だけは別天地。ちょっと大げさやけど、まるで風の無い草原に舞い降りた様な気分になった。


「ミライ。ちょっと遅いけど、ここらで昼ご飯にしよか」

「うん。それより、おにちゃんも休憩して。疲れたでしょ」


 ほんまはかなりヘトヘトや。


「まぁ、まだ行けるけど」

「私はもう大丈夫」


 ミライは、僕の腕からスルリと抜けて地面に立つ。


「ありがとう、おにちゃん」


 顔に被さってる布をずらし、笑顔で僕にキスをしてくる。


「お、おお。そやけど、歩けるか?」

「うん、歩くよ」


 さっきより少しは元気には見えるけど、まだ身体は重そう。足は多分筋肉痛で自由は利かへんのやろ。その証拠に、ミライの歩き方は少しぎこちない。


 僕は自由になった腕を回したりストレッチをして解す。足もさることながら、実は腕がパンパンやった。


 緩やかな傾斜の草原を二人で並んで歩いて下る。まぁ、草原はオーバーやけど、これで鳥でも鳴いてたら楽園の様に思える。それぐらい山の上の砂嵐は酷かった。


 暫く歩いて行くとミライは突然立ち止まる。


「どないしたん?」

「うーん。私、ここへ来たことがあるかも知れないわ」

「ええ、そうなん」

「おにちゃん、こっちへ来て!」


 少し早歩きで僕を先導してくれる。


「こっちよ」

「ちょっと待って。そんなに急いだら転けるで」


 僕の言うことも聞かず先を急ぐミライ。やっと事で追いつくと、ミライは再び立ち止まった。


「ほら、見て!」


 ミライの視線の先、この傾斜の下の方に何か人工物が見える。


「何やあれ?」

「うふふ。あれはね、夏小屋だよ」

「夏小屋!」

「そう。ここはね、夏の間に使う放牧地なのよ。よくお兄ちゃんとここへ来てたわ」

「そうなんや。そしたら昔、ミライが住んでた村は近いんか?」

「うーん……。村はもっと下の方」

「どれ位や?」

「そうね……。歩いて半日位だったかしら」

「半日。そんなに遠いんかぁ」

「でも、それは羊や山羊と一緒だったから、普通に歩けばもう少し早いわよ」

「そっかぁ」

「とにかく、夏小屋でご飯にしましょう」

「そうやな」


 すっかり元気になったミライに付いて坂を下る。相変わらず歩き方はぎこちない。

 小屋はすぐ近くに見えてたけど、実際はかなりの距離がある。近付くにつれ、少しずつ風も吹き出し、砂も降ってきてる。さっき居った上の方よりは草が少なくなってる気がする。

 ほんでも5分程歩いたら、僕らは小屋に着いた。


「これが小屋かぁ」

「壊れてるね」

「そうやなぁ……」


 石を積まれて出来た壁は所々崩れ落ち、穴が開いてる。入口の木戸も外れて半分朽ちてた。

 ミライは少し屈みながら中へ入って行く。僕もリュックを降ろして小屋に入ってみる。


 木で作られた天井は低く、屈んで歩くのんが精一杯。所々天板が無くなってて空の砂煙が見える。

 寝床なんやろか、地面から少し高くなった所に2畳程の板間があって、ミライは積もってた砂を払い落とし、そこへ座る。


「どう? ここなら風も凌げるわ」

「そうやな」

「お昼ご飯にしましょう」


 外へリュックを取りに出ると、やっぱり風はきつい。ボロボロやけど、小屋の中の方が落ち着くわ。


 昼ご飯はミライが作ってくれる。残ってた干し羊肉で出汁を取って、そこへミライが取ってきた野草を入れ、香辛料で味と香りを付ける。

 今まで何度も食べたスープ。もう汗が出るほど気温は暑いけど、温かいもんが身体に入ると心が落ち着く。


 スープを食べながら、ミライはここでの思い出話をしてくれる。前にSarsankサルサンクの家で聞いた話とかぶってたとこもあったけど、そんだけここでの暮らしが楽しかったみたいや。

 ついでにこの辺の地理についても聞いてみる。


 記憶はあやふやらしいけど、この先、更に15分程坂を下ると川に出る。そこには小さな泉というか湧き水があって、水場はそこまで行かんと無いそうや。

 その川に沿って更に谷を下ると平地に出て、そこに昔住んでた村がある。ミライが小さい頃、政府軍との戦闘で家も畑も何もかも無くなってしもたとハディヤ氏が話してたらしい。廃墟になった村には当然、今は誰も住んでない。

 そやけどそこまで行くと少し大きな道路があるらしい。そやから、もし車が走ってたら何とか頼んでArbilアルビルの街まで乗せて貰えへんやろかと、淡い期待が持てた。


 そんな話しをしながらスープを最後まで飲みほすと、口の中がザラザラしてくる。天井の穴から吹き込んできた砂が混じってたんやと思うけど、今まで歩いてた時に吸い込んだ砂の量を考えたら大した事は無いわと思える様になってた。


 ミライが片付けをしてくれてる間に、僕は板の間で横になる。天井の穴から見える空は、相変わらず砂の色カーキ色をしてる。


 もうちょっとでアルビルかぁ。


 そんな事を思うとホッとして身体から力が抜けていき、まるで床に沈んでいく様な感覚に襲われた。


 なんかもう、歩きたないなぁ……。


 と思てたら、それからの僕の記憶は無くなってた。



 つづく

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