8帖 別れは旅のはじまり

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 上海に朝が来た。

 美穂と一晩中話しをしよと言うてたのに、結局待合室のベンチでいつの間にか寝てしもてた。


 今日は5月17日金曜日。京都を出たんが14日の火曜日やから、今日で4日目。まだまだ先は長いなぁって思いながら背伸びをする。

 もうすでに陽は昇ってて、時刻は8時を回ったところ。


 いよいよ今日は北京に向けて上海を出発。美穂ともいよいよお別れやと思うと、ワクワクするんと同時に寂しなってしまう。

 そやし直ぐに身体を起こして美穂を探す。直ぐ傍に居ったわ。


「おはよう」

「おはようさん」


 美穂は起きてて朝の身支度を既に済ませてる。今日は水色のシャツを着て、髪の毛はポニーテールにしてる。


 うーん、ええ感じ。


 僕は昨日のままって言うか、日本を出てからずっと同じ服や。もちろん下着は替えましたで、一昨日に。


 多賀先輩はまだ寝とったんで、どついて起こす。


 ぼこっ!


「おえー、何すんねん」

「もう8時過ぎてますよ」

「そ、そうか。ほんなら起きるかぁ」


 僕と多賀先輩が顔を洗いに行ってる間に、美穂は朝飯を買うて来てくれた。


「はい、食べて。これ包子パオズって言うねんて」


 昨日の饅頭とは違ごて、今朝は日本で言う「肉まん」を買うてきてくれた。


「ありがとう」

「多賀さんも食べてくださいね」

「おう。ありがとう、美穂ちゃん」

「いただきます」

「これは美味いわ」


 中には豚の角煮が入ってる。


「ん? 美穂は食べへんの」

「私はもう食べたよ。ちまき・・・を食べてん。中華ちまきやで」

「ほー、美味しかったか?」

「おいしかったー」


 手早く朝飯を済ませると荷物を整理して出発の準備をする。

 それが出来たらリュックを背負いカメラバッグを持って待合室を出る。


 待合室の外では、めっちゃ眩しい太陽が僕らを照り付け、駅前の広場は既にたくさんの人民で賑わってる。

 カッターシャツと紺のズボンのビジネス人民や、大きな荷物を背負ったおばちゃん人民。天秤棒に荷物をぶら下げて歩く商人人民に、子どもの手を引いて歩くおかあちゃん人民と、いろんな人民が行き来してる。


 僕らは改札口の方へ向かい、人民らの列の後ろに並んで順番を待つ。

 入り口では、切符のチェックと荷物の検査をやってるみたいや。


 あそこを通り抜けたら、いよいよ美穂とお別れ。僕はゆっくりと美穂の方を向いて目を合わせる。


「美穂は切符を持ってへんから、この先は入れへんなぁ」

「そしたらここでお別れなん?」

「そやなー。お別れやな」


 美穂は黙ってしもたけど、再び笑顔で話す。


「ほんなら……、気をつけて行ってね。多賀先輩も」

「俺はついでかい?」

「そんなん当たり前ですやん」

「いえいえ、そんなことないですよー。憲さんのこと、よろしくお願いしますね」

「分かってる任しとき。浮気せんように見張っとくわ」

「そうやわ、浮気したらあかんで」

「するかいな、大丈夫や」

「それから危ない事もしたらあかんよ」

「分かってるって。ちゃんと帰ってくるから」

「あっ、そうや。渡すもんがあったんよ」


 美穂はカバンの中から袋を取り出す。


「はい、これ。お守り」

「おー、ありがとう。これ、何のお守りや」

「これは旅行安全のお守りで、うちの近所の神社で貰ろて来たんよ。ほんで……、これは私が作ったやつ」


 お守りを受け取る。一つは神社の白いやつで、もう一つは赤いフェルトの生地で作った可愛らしいやつ。黄色い糸で「お守り」と刺繍がしてある。


「これ美穂が作ってくれたんかぁ。うまいなー。おおきにな」


 そうしてるうちに多賀先輩はどんどん列を詰めて離れていく。僕らに気を使ってくれたみたい。


「大事に持っとくわ。そや。これ持っといてくれへんか」

「ん、何?」


 僕はリュックから鍵を取り出して美穂に差し出す。


「これ下宿の部屋の鍵やねんけどな、旅の途中では要らんし、美穂が持っといてくれへんか」


 別に鍵は無くても窓をこじ開けたら入れるようなボロい四畳半の学生アパートやけど、美穂が鍵を持っててくれたら安心や。


「いいの」

「途中で失くしても大変やしな。日本に帰る時に連絡するし、帰ってきたらまた渡してや」

「わかった。これ憲さんやと思て大事にしとくわ」


 美穂は嬉しそうに鍵を握りしめてる。


「ほしたら旅行してる間に憲さんの下宿へ行ってもいい」


 なぬ!


 美穂に見られたらやばいもんって無かったかなーと、ちょっと考える。一応もしもの時の為にやばいもんは捨ててきれいに掃除して出てきたつもり。


「おお、ええで。家賃も1年分前払いしてきたし」

「ほんま。そんなら暇なときに行ってみるわ」

「自由に使こてええで」

「うん。ほんで憲さんが帰ってきたら……鍵を渡す。そやし……、ちゃんと帰ってきてな」


 美穂、泣いてんのか。


「おう、ちゃんと帰ってくるがな」

「うん……。待ってる」

「そや。旅先で手紙書いて送るわ」

「うん、ありがとう。楽しみにしてる。いっぱい書いてな。そんでないと……」


 いつの間にか美穂の目は涙でいっぱい。それを見て僕は言葉に詰まってしまう。


 それと言うのもこの旅は僕が僕自身の為だけに就職を蹴って選んだ道。美穂にこの旅の事を話した時、「何でなん!」ってめっちゃ怒っとった。就職したら行くゆくは結婚っていうのも頭にあったやろし、それをないがしろにして僕は旅に出ることを決めた。そやから怒るのも無理はない。

 それでも最後には理解してくれて、僕が旅に出ることを納得してくれた。旅が僕にとって大切なものやと。


 僕が選んだ道を美穂は尊重してくれた。例え暫くの間、会えん様になっても美穂は僕の為に我慢してくれてる。

 そやのに、そんな美穂を、大切な美穂を、やっぱり悲しませる事になってしもた。

 現に今、僕の前で泣いてる。僕は何も言えんかった。


 泣きながら、でも精一杯笑顔を作って美穂は僕に話し掛けてくる。


「手紙、いっぱい書いてな。そしたら寂しないかも知れんから……」

「わかった。いっぱい書くわ。美穂を寂しくさせん様にするし」

「ほんまに寂しくさせんとってや」

「うん。ごめんやで。暫く会われへんで……」

「ほんまや。許せんわ、もー」


 美穂はニコッとした目でほっぺたを膨らませ、冗談ぽく怒った顔する。

 そやけど、そのほっぺたには涙が流れてた。


「ごめん……」

「お詫びに、一つお願い聞いてよ」

「わかった、聞く」

「ほしたら目を瞑って。開けたらあかんで」

「うん」


 僕はしっかりと目を瞑る。すると僕の唇に、柔らかい感触が……。


 美穂の唇やとすぐ分かる。めっちゃや柔らかい。僕はそのまま美穂の肩をグッと引き寄せる。僕のシャツが美穂の涙で濡れていった。


 周りにはたくさんの人が居ってめっちゃ恥ずかしいはずやのに、僕と美穂しか居らん様に感じる。二人だけの空間やった。


 どんだけ時間が経ったんやろ。めっちゃ長い時間の様にも、短かった様にも感じた。


 ほんで僕は美穂の顔を見る。ちょっと恥ずかしそうな顔をして下を向いる。実はこれが初めてのキスやったから、僕も少し恥ずかし。そやけど僕はこの瞬間を忘れんとこうと思た。



 切符を見せて荷物検査をする。いよいよホンマに美穂とお別れや。


「ほな行ってくるで」


 わざとらしいほど明るく言う。


「気をつけて行ってきてね」

「わかった。美穂も、気ぃつけて帰るんやで」

「うん、いってらっしゃい」

「行ってきます」


 思わず美穂に敬礼をしてしまう。美穂も手をオデコに当てて敬礼をしてくれた。


 僕は前を見て、先に入っている多賀先輩の方へ歩いて行く。振り返らんとこうと思てたけど、我慢できずにチラッと後ろを見てしもた。


 美穂が泣き崩れてる!


 ごめん美穂。ほんまにごめんな。


「美穂!」


 僕は叫んだ。

 美穂が気付いてこっちを見てくれる。


 僕は手を振る。

 美穂も手を振ってくれた。


 そして、また前を向いて歩き出す。多賀先輩に見られん様に我慢してたけど、僕の顔には涙が流れてた。


 もう一回振り返る。


 美穂の姿はたくさんの人民で遮られ、既に見えん様になってた。


 ホンマの意味で、僕の旅が始まったと思た。



 つづく

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