秋の風景・落葉

@yuoiwa

秋の風景・落葉

 ふと気が付くと、私の体は空中に浮いていた。突然のことに気が動転してしばらくは頭が真っ白になっていたが、落ち着いてから自分の状況をよく観察してみると、結局のところ私は空中に浮いているのではなく、ただぶら下がっているだけなのだということがわかった。

 観察してそうと知れたのはそれだけではなかった。私の肌は目にも鮮やかな緑色に変わり、これまで当然のごとく使ってきた手足がいつの間にかどこかへと消え去っていた。そして頭、胸、腹の厚みが失われ、自分自身がまるで一枚の紙のような薄さになっている事にも気づいた。何が起こったのかを把握するのにさほど時間はかからなかった。私は今、人間の体から一枚の葉っぱに変化したところだったのだ。

 これまで足だった場所は奇妙にねじくれて細まり、茶色く節くれだった細い枝にかたく接着している。要するに人間だったころとは天地が逆転していたわけだが、遥か眼下の地面を一枚の葉っぱの視点から眺めると、私がさっきまで居眠りをしていたあの木造の粗末なベンチが、広い公園の中にぽつんと寂しげに存在しているのが見えた。

 周囲に視界を広げると、私と同じような緑色の葉っぱが何十枚も枝にしがみついて風に揺られているのがわかった。ところどころに黄色い葉っぱも見えるが、今は春の終わり頃で、色づきが非常に美しいのはどの葉っぱも同じだ。私は自分が以前とは違う、こんなにも美しい存在になったということに対して、大声を上げて感動を表現したかった(口をきけない身ゆえにそれはかなわなかったが)。私達の間を流れていく風は冷たく、どこからか漂ってくる麗しい果実の香りが、私達自身が発散する香ばしい空気と混ざり合って、まるで夢を見ているかのような感覚を醸成していた。

 人間から植物になったことで、これまで抱いてきた人間的な思考というものにも変化がみられるようになってきた。すべての悩み事や不安は消え去り、理由のない不思議な幸福感に溺れるようになった。樹木の太い幹からは、葉脈を巡って甘く透き通るような味覚の養分が常時送り込まれてくる。基本的な欲求が満たされて陽気な気分で、私はそばにある他の葉っぱにも話しかけた。嬉しいことに、彼らは私にその答えを返してくれた! 私達はそれから幾日も幾日も互いに話をし、時間が経つのも忘れ、自分がかつて人間であったことも忘れた。私は真に幸福な人生というものを手に入れたのだ。これは何の疑いもなく、素晴らしいことなのだった。

 すべての苦悩からめでたく解放された私だったが、そのような幸せな状況がいつまでも続くわけではないということは分かっていた。陽が落ちるのが早くなり、気温も下がり始めた。あれほどかぐわしい香りを大気中に充満させていた夏という季節が、ついに終わりを告げようとしていたのだった。夏が終われば秋が来て、この美しい私の体も退色し、この心強い太い枝から離れなくてはならない時がきっとやって来る。それは分かっていたが、私の心には不思議と恐怖や不安といった感情は生まれてこなかった。絶え間ない幸福や快楽の渦の中で、ただ自然の息吹のなすがままになっていたのだ。いつかは重力に引きずられてあの地面に落ちなくてはならなくなる時が来るが、それすらも私にはどうでもよいことになっていた。

 秋も深まってきた。時間感覚の消失しかけている私には、春先に葉っぱに姿を変えてからまだ数十分と経っていないような心持さえした。自分自身の死というものに対してこれといった現実感を得られず、これからだっていつまでも風に吹かれて午睡をしながら生きていけると思っていたのだ。今の時点では何も不都合なことは起こっていなかったし、これから何が起こったとしても難なく風の流れに乗ってかわしてしまうことができるだろうと感じていた。

 しかし少しずつ状況が変わってきた。私のとなりや、足先や、頭の先にこれまで私と一緒に風に吹かれてきた仲間の葉っぱが、何でもないような風で簡単にその身を枝から離してしまうようになったのだ。彼らは一枚一枚、重力に乗って私の見えない場所へと漂っていった。そしてその体は、どこかしらあの鮮やかだった春の色よりいくらか退色しているように見えた。彼らの後を目で追おうとしても、どうしてかはわからなかったが、これまで何の気なしに見ていた地上の風景に視線を向けることができなくなってしまっていることに気づいた。実を言うと私が初めて恐怖を覚えたのはこの時だ。ただ目の動きが届かないというよりは、何か根源的な恐怖が私の中に芽生えたがために、遥か眼下の地上を見ることができなくなっていたのだった。

 そしてすべてがついに終わった。不安でどうしようもない夜を過ごしていた時だった。身を凍らせるような冷たい風に吹かれながら、私は突然、とんでもなく重大なことに気が付いたのだ。私はここ最近、自分の体というものをろくに見ていなかった。しかしその夜、ふと自分の体に目をやった私は、そこに太い葉脈をした緑色の鮮やかな光ではなく、しわがれて色の抜けた、みすぼらしい茶色いかたまりを確かに発見したのだった。あわてて周囲を見ると、私だけではなく、ほかの葉っぱたちも同様にしわがれていることに気づいた。何ということだ、私はあまりにも自分の状況というものを見ていなかったのだ。恐怖心に駆られて、身の回りのことすべてに対して愚かしくも目をふさいでいたのだった。

 背筋の凍るような衝撃に襲われたその時、私のみすぼらしい体の表面をつたっていた一粒の水滴がいつの間にか白く凍りついてしまっていることに気づいた。周囲の葉っぱたちは次々と地面へと落ちていく。私にもいずれその時がやって来る、一体どうすればいいのだろう、何か助かるすべはないのか、とそこまで考えていた時だった。

 枝から垂れ下がっていたはずの私の体が急に軽くなり、次いで視界がとてつもない速さで回転し始めたのだ。私には一瞬何が起こったのかわからなかったが、確かに遠ざかっていく真っ黒な空を見て、ああ私は落ちたのだなと初めて知った。ほとんどきりもみ状態で落ちていく私の体は安定せず、なんとか定まった姿勢を取ろうとしても体のどこに力を入れてよいかはわからなかった。とにかく私は落下していたのだ。もう私にできることなど何もなかった。しかし私の心の中には、もう少しで死というものを苦痛なく受け入れることができるかもしれないという、一種の希望のようなものが確かに湧き上がっていたのだ。あと少しすれば私は確実に死を迎えるが、それまでに何とか精神的に整理をつけ、できるだけ取り乱さないように、安らかな気持ちで静かな状態でいられればそれでいいと思えた。あとは目を閉じるだけだった。目を閉じれば、それで痛みのない、幸福な死というものに巡り合えるだろう。そして私はすべてを受け入れ、落ち着いて瞼を閉じようと・・・

 その間際、私の視界に何かが入った。その何かが気になった私は閉じかけた瞼を開けてそれをはっきり見ようと目を凝らした。きりもみ状態だったが、その何かは確実に私の目に入り、もう瞼を閉じることはできなくなった。遥か眼下に広がる茶色い地面の上に、私とさっきまで同類だった葉っぱたちの死骸が、山になって私を待っていたのだ。それはただの枯葉の山ではなかった。肉が削げ落ち、腐り、変色し、グロテスクな体液を流しながら、大量の骸骨がそのおのおのの二つの眼孔を私に向けていた。それらが私の心の中に呼び起こしたものは強い嫌悪感であり、これによって私はその一瞬で狂気の淵へと追い込まれた。大量の死骸、骸骨、骨、骸、腐った死体の山の中に、私はこれから落下していかなくてはならないのだ! 汚れて腐敗した血の沼に落ちて、そのぬめぬめした液体で汚される私の白い肌、潰れた眼球が私の口の中にどろりと流れ込む、生気のなくなった腕や足がまとわりつく、そしてその上から降り注ぐちぎれた首、それに絡みついた食道から流れ出すぐじゅぐじゅとした液体、埋もれて窒息し、もう希望も何もなくなった私。いまわの際になって、植物としての葉っぱの死も、人間の死と同じように忌まわしく、おぞましいものであるということを知ったのだ。

 際限なくどこまでも降り積もる死体の山の上で、私は黒く濁ってどろどろとした血液や、日光が反射してぬめぬめと光る内臓にまみれて横たわっている。そしてそんな私の体を、上から何者かが、ぐしゃりと靴で踏みつけていった。

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