曇天の、常夜町より

阿呆論

曇天の、常夜町より

第一章 小田切悠の邂逅


  1


「もーぅいーぃかい?」

 暗闇の中で、声は遠くから聞こえてくる。

「まーぁだだよー」

 僕は誰かに返事する。

「もーぅいーぃかい?」

 また声がした。さっきとは違う方向からだが同じ声だ。

「まーぁだだよー」

 僕もまた、返事する。

「もーぅ……もう、嫌だ」

 突然それは間近で聞こえ、さっきまでの無邪気な声とは打って変わって陰鬱な響きとなった。

「えっ?」

 咄嗟に振り返るとそこに少年の痩せこけた顔があった。

「ねえ、もし僕が——」

 その先は聞こえない。少年のひび割れた唇だけが音もなく動いている。

 何? 何を言っているの?

 そう訊ねようとした刹那。彼の顔が鬱血したように、青紫色の風船の如く膨らんでいることに気づいて息を呑む。零れ落ちそうなほど飛び出た眼球は白く濁り、口からは褐色の舌がだらりと垂れている。

 だがそれはほんの一瞬で、瞬きと共に少年は元の顔に戻り声なき声で喋り続けていた。

 悲鳴をあげそこねて開いたままの口が無意識に、魚のようにパクパクと動くのを感じた。

 第三者が見たら二人の少年が向かい合って口を動かしているだけの不可思議な光景に映るだろう。

 しかし周りには誰もいやしない。

 僕たちの周りを取り囲むのは、暗く冷たい、森の木々だけ。


  2


 また同じ夢を見た。

 吐き気と激しい動悸に目を覚ますのはいつものことだ。全身から噴き出る脂汗が、粟立つ肌と衣服を密着させる不快。手の甲で額を拭い、冷えた膝を抱えた。真夏だというのに、寒い。

 ここ数日、決まってあの夢を見る。

 低学年くらいの自分が、深い森の中で同級生と思しき誰かと隠れん坊をしているのだが、突如相手の顔が悍ましく変形するのだ。不思議なもので怖いという感覚はない。ただ、心の中にある鍵の壊れかけた扉から、何かどす黒いものが溢れ出てくるような不快な感覚を引き起こす。そして心臓が張り裂けそうに悲鳴をあげて汗だくで目覚め、悪寒に身を縮めるのだ。

 そんな寝覚めがここ一週間ほど続き、僕の精神は少し衰弱し始めていた。

 そういえば、悪夢を見るようになったのは常夜町に引っ越して来てからだ。

 一体なぜなのか、夢の中の少年は誰なのか、全く分からない。

 ……いや、全くというのは嘘かもしれない。少年のことは知っているような気がする。脳内の遥か奥底に彼がいるような。そんな気がするのだ。

 しかし人間の記憶とは恐ろしく脆いもので、夢から覚めると少年の顔に靄が掛かったように朧げな映像となり、誰なのか判別できなくなってしまう。顔さえ思い出せれば、繰り返し同じ夢を見る原因が何か掴める気がするのだが。ひどく、もどかしい。

 何とかしてその顔を蘇らせようと、目を瞑り、瞼の裏に残る微かな残像を追う。

 白く霞む少年の顔。口元だけ微かに靄が晴れる。

 もっと。もっと見せてくれ。その顔を。

 乾燥した青紫色の唇が、ゆっくりと開きかける——

「見ぃつけた」

 すぐ近くで声がして反射的に体がビクッと跳ねた。

「お兄ちゃん、また同じとこ隠れてるぅ」

 寄りかかっている壁に空いた円形の穴から妹の千奈が顔を覗かせていた。当たり前だが、夢の中の少年が現実に現れた訳ではなかった。

 厭な夢の後で一瞬忘れていたが、僕は公園で妹たちと隠れん坊をしていたのだ。

「ここは涼しいからな」

「涼しいって、お兄ちゃん汗だくじゃん」

 八歳の妹はその年齢と相応の幼い笑みを浮かべる。

「よーし、あとはユリとヒロキだなぁ!」

 夏の日差しよりも威勢のいい、舌っ足らずな声。

 由梨は末っ子の小学一年生で、広樹は同じく小一の近所に住む鼻垂れ坊主のことである。

 この土地に越してきて間もない僕たちに「近所にいい公園があるから一緒に遊ぼう」と誘ってきたのは広樹だ。

 僕としては遊ぶというより子守りを請け負うような気分だったが、今日は家の中にいるのが悪であるかのような快晴だし、思えばこのところ家から出てないし、家庭内のいざこざで鬱ぎ込みがちだったので、総合的に見れば誘いに乗るのが生産的であることを認め、仕方なく、半分ありがたく誘いに応じた。

 身を隠していた『どうくつ』から出て、燦々と輝く真夏の陽光に目を細めた。急激な明順応に目眩いを起こしかけるが、すぐに慣れ、夏特有の鮮やかな視界を取り戻す。

 青い空。青々とした木々。空気の蒸す匂い。さっきまでは気にならなかった蝉の声が途端に煩く感じる。五感が敏感に夏を感じ取る。

 たしかに、いい公園ではあるな。

 実際には『洞窟』なんて大層なものではないが、滑り台の下にあるこのドーム状の空間は『どうくつ』と呼ばれているらしく、公園の名前も『どうくつすべり台公園』だ。どうくつ内はコンクリートの壁で暑熱が遮断されて涼しく、僕は三回連続でここに隠れていた。

「このどうくつ、なんだかヒミツキチみたいでいいよねぇ」

 女の子のくせに男子みたいなことを言う。秘密基地って、男だけのロマンではないのか。やはり上に男がいる妹は男っぽい性格になるのだろうか。でも広樹には姉がいるらしいけど女々しい性格にはなっていないな。

「あっ、今チナのこと男っぽいって思ったでしょ。そういうの偏見よ。最近では自分のことを俺って言う女の子だっているんだからね。女だからこうあるべきだとか、そういう固定観念は男女差別なのよ。セクハラよっ!」

「お前、本当に小三か? どこでそういう言葉を覚えてくるんだ」

 生意気な妹め。でもまたそれを言うと、子供扱いしないでよね、とか生意気な口答えをするのだろう。

 千奈はたまに驚くくらい大人びたことを言うことがある。無駄に賢い子だ。不服だが、やっぱり兄妹ねと、母さんはよく言う。

 炎天下に出た瞬間から太陽がジリジリと肌を焼いた。悪夢のせいで失われた体温を徐々に取り戻し、快適を通り越してさっきとは違う感触の汗を絞り出す。

 今日は暑い一日になりそうだ。

 なるべく木陰を移動しながら、小さな鬼がどこかに身を潜める二兎を探すのを眺めていると、不意に背後から誰かに見られているような気がした。

 捕食者が獲物を狙うような、嫌な感じの視線。それも一人ではない。大勢の視線が背中に集まっているのを感じる。

 だが振り返っても、そこには誰もいない。

 ……まだ悪寒が抜けきってないのだろうか。

「あ、ヒロキ見っけ!」

 低めの木の茂みから勢い良く坊主頭が飛び出し、青葉を撒き散らしながら軽やかに着地した。

「隠れ鬼だし!」

 そう叫びながら広樹は公園内を駆け回る。隠れ鬼とは、見つけたら鬼が勝ちの隠れん坊とは違い、見つけて捕まえるところまでやらないといけない遊びだ。見つかったのが惜しい悪童はそうして悪足搔きし、お遊戯の時間を長引かせる。

「すぐに捕まえてやるんだからぁ」

 走り出す千奈の背中をぼんやりと見つめながら、さっきよりも陽が陰ったことに気付く。

 見上げるといつの間にか鈍色の雲が空を覆い尽くし、太陽をも侵食しつつあった。さっきまであんなに晴れていたのに。

 風が変わった。蝉の声が止む。きっと雨が降る。

 そう思ったのも束の間。

 スポットライトのような最後の陽光が途絶え、世界は灰色のスクリーンが掛かる。

 首筋にひやりと冷たい一滴。ポツ、ポツ、と大粒の雫が音を立てながら公園の土を一層濃い色に塗り替えていく。

「隠れん坊終わり! みんな集まれ!」

 呼びかけは閑静な住宅街の片隅に静かに響いた。

「雨だねぇ。降ってきたねぇ」

 どこに隠れていたのか、由梨が背後から音もなく現れる。由梨にとって隠れん坊は特技と言っても過言ではない。それくらい、いつも最後まで見つからないのだ。

 どうせ僕のことなんて無視して遊び続けるだろうと思っていたのに、意外にもチビっ子たちは素直に集まって来た。年長者の威厳というものが僕にもあるのだろうか。

「ユウにい、おうち帰るの?」

 僕のポロシャツの裾を引っ張りながら、由梨はぽかんとした顔で訊ねる。由梨の性格は千奈とは正反対と言うべきか、いつもボーッとしていて、何を考えているのか兄の僕にも分からない。まあ、そこが可愛らしいところでもあるのだが。

「いや、雨宿りする。どうくつに入ろう」

 僕は年長者の威厳と権威を以て厳かに宣言した。それは大袈裟か。

 湿気っぽい匂いに微かな汗臭さが混ざり、どうくつ内に充満した。いつか嗅いだことのある、満員電車に満ちる体臭や口臭、加齢臭、香水などがブレンドされたあの悪臭よりは不快じゃなかった。

 どうくつは五人で入ってもまだゆとりがあった。

 ……いや四人だ。僕と千奈、由梨、広樹の四人であるはずだ。一瞬、広樹の隣に見慣れない子供が座っているように見えたが、再び目をやったときにはいなくなっていた。長い髪が顔を覆い隠すように垂れていたので性別までは分からなかったが、僕らの他にそんな子が公園内にいた記憶はない。

「なあ広樹。この公園、僕たちの他に誰か遊んでたか?」

「えっ。いや、誰もいなかったよ」

 ……まだ。まだ悪寒が抜けきっていないのだろうか。

 雨の影響もあってどうくつ内はさっきよりも涼しく、汗は瞬く間に引いていった。冷房が効いているかのように快適なこの閉鎖的空間は本当に秘密基地のようだ。今年で十四歳になるというのに、なんだか高揚感が湧き上がってしまう。僕もまだまだ子供だな、と我ながら呆れる。

 体育座りを解き、広樹の横に足を伸ばした。七分丈のズボンからむき出しのふくらはぎがコンクリートの床に触れ、ひやっと冷たい。その氷のような冷たさにほんの短い時間、違和感を覚えたが、体温の影響でぬるくなっていくのと共に違和も消えた。

 幼い三人は僕を放ったらかしにして流行りのアニメの話に夢中だ。無邪気なものだ。

 一人蚊帳の外になってしまった僕は、物思いに耽るポーズでもとってやろうと壁の穴から外を眺めた。

 雨はこの世界の全ての音をかき消しながら激しく降り注いでいた。バケツをひっくり返したようなという表現すら生ぬるい。滝の如き土砂降りに、地面は水面と化している。

 白く霞む公園の外を、古めかしい着物姿の少女が傘もささず歩いている。——ように見えた。

 気のせいだと思う。なぜなら少女の頭は進行方向と真逆を向いているように見えたし、その姿は一瞬で見えなくなってしまったから。

 なんだか今日は、何かがおかしい。夏の暑さにやられてしまったのだろうか。

 いや。篠突く雨が見せた、ただの幻影か。

「通り雨かな」

 誰にともなく呟き、時刻を見ようとポケットからスマホを取り出す。一時を過ぎた頃だった。

 まだそんな時間か。妙な感じだ。曇天が時間の感覚を狂わせ、辺りは日が暮れたように仄暗い。

『♪』

 スマホをポケットに戻そうとしたその時、メッセージアプリ『LINE』の着信音が鳴った。

 誰だ?

 画面を確認すると、フレンドに追加していない見知らぬアカウントからだった。真っ白のアイコンに、【しんゆう】というユーザ名。全く心当たりがない。

 しんゆうからは位置情報が送信されていた。

 誰かの誤送信か……あるいはイタズラか?

「しんゆうって、だぁれ?」

 着信音に反応した千奈が横から画面を覗き込んでくる。

「分からない。誰だろう」

「前の学校のお友達かなぁ」

「いや、こんなアカウントはいなかったと思う」

「既読つけちゃったんだし、とりあえず位置情報開いてみればぁ」

 妹は弱冠八歳にして、スマホ関係のことならば母さんよりも詳しい。最近の子供とはそういうものだ。既読や位置情報なんて言葉、一昔前の子供だったら絶対に使わないだろうし、そもそも意味を知らないと思う。現代の子供達は、僕を含めて知識の偏りが著しい。

 あまり知られていないが『LINE』には写真や動画の他に位置情報を送る機能がある。自分の居場所を赤い旗のマークで地図上に印して相手に送ることができるのだ。

 自分の今いる場所が分からなくても相手に位置情報を知らせることができるというのは災害時などに役立つだろう。

 僕がイタズラの可能性を加味したのは、その位置情報が少し妙だったからだ。

【位置情報 常夜町三丁目1-8】

 常夜町。しかも三丁目って、すぐ近くじゃないか。

 その住所をタップして地図を開くと、印は常夜駅を位置していた。駅はここから歩いて二十分もかからない場所にある。

 見知らぬ人間がすぐ近くにいることを警告しているようで、なんだか気味が悪かった。

 念のためそのアカウントをブロックする。これでもうメッセージは送られて来ないはずだ。なんとなく後味が悪いが、気にしない、気にしない。

 位置情報を送られてきただけで、何かが起きるという訳でもあるまいし。

 そう思い込みながらスマホをポケットにしまった時だった。

 突然、フラッシュを焚いたように辺りが白く光った。続け様に凄まじい雷鳴が轟く。

「きゃっ!」

 妹たちが騒ぎ始める。

「オレ、雷なんか怖くねーし!」

 そう言いながらも広樹の顔は強張っている。虚勢を張っているのがバレバレだ。

「大丈夫だよ。雷が落ちる確率より、犯罪に巻き込まれる確率の方が高いくらいなんだから」

 僕が笑いかけるのと同時に、獣のような勢いで何者かがどうくつに飛び込んで来た。


  3


 超音波のように高く鋭い悲鳴がどうくつ内に反響した。

 その悲鳴の調和を取るように僕の低い叫び声も混じっている。絶叫の大合唱だ。

「驚かせてごめん。ちょっと邪魔する」

 雨宿りの闖入者。ずぶ濡れの彼は僕と同い年くらいの、僕とは似ても似つかない美少年だった。

 第一印象は一言で、白。

 水の滴る少し目にかかる長さの前髪も、その奥の憂いげな瞼に生え揃うまつ毛も、陶器のように透き通るような肌も、全てが真っ白だ。

「天使さん?」

 落ち着きを取り戻した由梨がぽつりと呟いた。確かに、これで翼でも生えていたら天使と言われても信じてしまいそうだ。

「ああ、驚いただろ。俺、アルビノなんだ」

 その言葉の意味は分からなかったが、おそらく生まれつきなのだろうということは察した。

「きみたち見ない顔だな。いや、そこのチビは見覚えがある。あの清水の弟か。広樹だっけ」

 彼は落ち着いた声で言う。静かだがよく通る声だ。広樹は半泣きで騒いでいたのが嘘のような笑顔で手を振っている。

「先月の二十五日に引っ越して来たんだ」

「二十五? 夏休み初日かよ。どうりで学校で見たことないはずだ。中学生だろ、きみ」

「中二。そっちは?」

 肌に張り付いた半袖のワイシャツと紺色のスラックスが、彼も中学生であることを物語っていた。

「同じく二年。名前はサザナミレイ。よろしく」

「サザナミ、レイ?」

「珍しい名前だろ。珍しい見た目に珍しい名前だ。サザナミはさんずいに連れるの漣。レイは漢字のゼロで零だ」

「お兄ちゃんと同い年なのぉ? 見えな〜い。大人っぽ〜い」

「うるさいこいつは妹の千奈、そこの口を半開きにしてるチビが由梨。僕は悠。小田切悠」

「悠くん、悠。よろしく。千奈ちゃんも由梨ちゃんもよろしくね。どうせ悠とは新学期に学校で顔を合わせることになるだろう」

「今は夏休みなのに、制服姿で漣くんは何してたの?」

「零でいいよ。夏休みでも部活はあってね。コンビニに昼飯を買いに出たらいきなり雨が降るもんだから」

 そう言って零はビニール袋を掲げた。中にはペットボトルとお握りがいくつか入っているようだ。

「しかし、なんでこんなところに引っ越して来たんだ?」

「父さんがアル中で、離婚して、家を出て、母さんとこの町に……」

「違うよ。俺が訊きたいのは、なぜこの町なのかということだ」

「あるちゅう? あるちゅうって何? そのモンスターもでんこうせっか使えるのか?」

 由梨とアニメの話を再開していた広樹がいきなり話に水を差す。

「広樹は静かにしてようねぇ」

 千奈が気を遣ってくれた。よく出来た妹だ。

 アル中は電光石火は使えないけど家庭に雷を落とすことはできるモンスターだよ、と答えようとしてやめる。

「常夜町に決めた理由、母さんが言ってたのは、何でもこの町の家賃がものすごく安かったとか」

「やっぱりそうか……」

「やっぱり?」

「となると悠は、この町のことを何も知らないんだな」

 彼の憂鬱そうな表情に一層暗い陰が落ちた——ような気がした。それはほんの一瞬で、僕の見間違いであるかもしれなかった。今日は見間違いの多い日だし。

 零は微笑みを浮かべて言う。

「なあ、悠。雨が上がったら学校に行こうよ。案内するからさ」

「え、うん……」

 答えながら、僕は彼の目が笑っていないことに気づいてしまった。


  4


 雨は上がったが厚く重そうな雲は巨大な悪意のように僕らの頭上に取り残されていた。蝉は鳴かず、湿気を帯びた風は冷たいまま。

 薄暗い光の中。濡れたアスファルトが薫る、輪郭のぼやけた街並みを行く。

 時間の感覚を狂わせる不気味な空の色が得体の知れない不安を掻き立てた。

 僕ら小田切家の三兄妹と広樹、零の五人は常夜中学校へ向かっていた。幼い三人は白線の上から落ちないよう必死に歩く。隣を見ると、零の端正な横顔が物思いに耽っている。そのギリシャ彫刻のような美しさに、自分が男であることを忘れて思わずドキッとしてしまう。そんな自分に気づき、慌てて発話する。

「仄暗いね。まるで夜みたいだ」

「ああ、それがこの町の名の由来だよ。逢う魔が時の常夜町。空は分厚い雲に覆われて、町は埃を被ったように灰色がかり、日暮れのように暗い日が多いんだ」

 零は「逢う魔が時」をやけに強調して言った。

「天気があんまり良くない土地なんだね」

「いや、原因は天気じゃない。もっと厭な何かが、この町を包み込んでいる。それをこれから話そうと思っていたんだ。最初に言っておくが、ここが常夜町になる前の名は御霊村だった」

「ミタマ?」

「死者の霊魂の御霊。この土地は、昔から死に近い場所にある。言わば、現世と幽世の狭間なんだ」

「死者とかカクリヨとか、オカルトみたいな言葉ばっかり出てくるなぁ」

 引っ越して来たばかりの僕を怖がらせようとでもしているのだろうか。

「常夜町では盆になると、不吉なことが起きる」

 零は僕の言葉を無視して続ける。文書を読み上げることだけをプログラムされた、無情なロボットのように。

「不吉という言葉は的確ではないが、常夜町の住人はその現象を、不吉なことと言う」

「その不吉なことって、具体的に何なの?」

「うまく説明できない。怪奇現象、とでも言えばいいかな」

 大人びた零の口から不釣り合いな言葉が出てきたのでつい吹き出してしまう。

「怪奇現象って、そんなまさか。零、中学生にもなって幽霊なんか信じちゃいないだろう?」

 その言葉がおかしかったのか、零は困ったように白い眉を八の字にして笑い出した。

「本当になぁ……普通、そう思うよな。ここがあんなにひどい場所だとは思わないよなぁ。本当になぁ」

 表情筋は笑みを作っているのに、薄い紫色の瞳はすごく悲しそうだ。今にも涙を零しそうな彼の目が嘘をついているようには見えなかった。

 ついさっき出会ったばかりで零のことはまだ何も知らないが、なぜか彼の言うことは事実であるように思えた。その神秘的な純白の姿が、そうさせるのかもしれない。

「一体、何が……」

「この町の家賃が他の町と比べて桁違いに安いのはな、全ての物件が『曰く付き』だからなんだよ」

「全てが曰く付きって、つまり全部の建物で誰かが死んだってこと?」

「若干違うが、簡単に言えば、答えはイエスだ」

「ちょっと待ってよ。曰く付き物件って、契約するときに報告する義務があるだろう? 僕たちは何も言われなかったよ」

「時効だよ。事件が起きたのはもう百何十年も前のことなんだ。それに当時の建物は全て取り壊され、新築されている。だから報告義務はない。それでも誰も寄り付かず、みんなすぐにこの土地を離れてしまうから家賃だけは安くなる」

 きみも常夜町の真相を知ればこの土地から離れるだろう。彼は小声でそう続けた。

「そんな大昔に、たくさんの人が死んだ事件って、一体何があったの?」

「たくさんの人という表現は適切じゃない。正しくは……」

 ほんの短い時間、零は言葉を発するのを躊躇した。

「村の住人全員が死んだ」

「は?」

「詳しいことは学校に着いたら教えてあげるよ。図書室に資料があるから」

 とめどなく溢れる疑問符で脳内が埋め尽くされていたが、それを言葉にするのはやめた。しようにもできなかった。頭の中で絡まるそれらのイメージを簡潔な質問にするには、僕はあまりに語彙力がなかった。

 それから学校に着くまでの間、僕と零は一言も発しなかった。

 千奈と由梨と広樹の、無邪気な笑い声だけが住宅街に響き渡る。

 そういえば、この町ってあんまり人音がしないなぁと、ぼんやり思ったりした。


  5


 錆びついた正門が開け放たれている。その前で横一列に整列する五人。

 外壁の至る所にひびが入り塗装の剥げた校舎は、垂れ込める暗雲の影に覆われて厳めしい灰色の匣と化し刑務所を連想させた。実際の刑務所なんて、見たことないけど。

 グラウンドからは活気のない運動部の掛け声がお経のように聞こえてくる。

 この正門を越えることによって何かが始まってしまうのではないか。この不穏な匣は僕を罰するために口を開けているのではないかと、余計な想像をしてしまう。これもさっき零から聞いた不吉な話のせいだ。

「レイさん、私たちも入っていいの?」

 千奈の言う私たちとは小学生三人のことだ。

「問題ない。夏休み中は日直の教員が二人いるだけなんだ。部活はみんな自主練習みたいなものだし」

「その日直の先生に見つかっても平気なのか?」

「ああ。定年間近の彼らは職員室から出てこないんだ。ずっと賭けポーカーをやってるよ」

「ろくでもないな。職務を果たせてないぞ」

「おかげで千奈ちゃんたちも不法侵入できるんだ。感謝しようぜ。さあ、行こうか」

 校庭に入ろうとしたそのとき、片羽の一部が欠けた黒い蝶が、僕たちの目の前をひらひらと横切って行った。

「おお……絵に描いたような不吉だな。この町には数え切れないほどの怪談が存在するが、見知らぬ人からのメールは死者からの知らせとか、黒揚羽が目の前を横切ったら死の前兆とか、定番中の定番——」

「今、今なんて言った?」

「見知らぬ人からのメールは死者からの知らせ。黒揚羽が目の前を横切ったら死の前兆」

 忘れかけていた不吉を思い出す。公園でスマホに届いた見知らぬ者からのメッセージ。すぐ近くからの位置情報。あの世からの、メッセージ。

 そして目の前を横切った黒い死の使者……。

「その様子を見ると、メールの方にも身に覚えがあるんだな」

 公園で受信したメッセージを零に見せようとスマホを取り出した。

 その瞬間。

『♪』

 絶妙なタイミングで着信音が鳴り、危うくスマホを落としそうになる。

 まさか。まさかなと思う。だってあのアカウントは、ブロックしたのだから。もうメッセージを受信することはないはずだ。

 だがしかし、僕はその発信者の名を見て絶句する。

 そこには確かに【しんゆう】とあった。

 真っ白のアイコンもさっきと変わらない。

「そんな馬鹿な!」

 送られていたのは、またしても位置情報。

【常夜町四丁目 5-8】

 震える指先で地図を開く。

 印は、ある場所に位置していた。

「どうくつすべり台公園……俺たちがさっきまでいた公園だな」

 画面を覗く零の顔が、強張ったように見えた。

「このアカウント、さっきブロックしたんだ。なのに、なんでだろう。それに、なんだかこれ……」

 僕の跡を、追いかけて来るみたいだ。

「まあ落ち着けよ。気にするな。怪談はただの怪談だ。所詮は誰かが創り出した虚構に過ぎない。この町では、もっと恐ろしいことが起きる」

 そんなことを言われても、もうイタズラで片付けられる現象ではなくなっている。ブロックしたアカウントから再びメッセージが送られてくるなんてありえない。同じアイコンと名前でアカウントを作り直したのか? 物理的に絶対不可能な工作ではないにしろ、一体誰が何のために。なぜ僕のいた場所に来るのだろう。

 いや、そもそもなぜ僕のいた場所を知っているのだろう。

 これはもう人智の及ばぬ力が働いているとしか思えない。

 この『位置情報』に追いつかれたとき、一体何が起こるのだろう……。

 ゾクゾクと背骨を伝う、蛇が這うような悪寒。

「はーやーくー!」

 顔を上げると、いつの間にか幼い三人が遥か前方にいた。我が物顔で校庭のど真ん中に仁王立ちする小学生を周りの学生たちが迷惑と好奇の滲む視線で見ている。

「ほら、行くぞ」

 零が言う。心強い声だと、少し思った。

 僕たちは同時に走り出す。

 何かから逃げるように、全力で走る。


 野球部らしき坊主頭の集団が走るぬかるんだ校庭を通り抜け、エナメルのスポーツバッグが乱雑に並ぶ昇降口に辿り着く。ガラス戸は開け放たれており、足を踏み入れると土臭いようなカビ臭いような、下駄箱独特の匂いが漂ってきた。

 校舎の中はしんと静まり返っている。物音ひとつしない。普段は喧騒の絶えない学校という空間がこんなにも無音だとなんだか不気味だった。

 授業中とは異質なこの静寂は、夏休みだからだろうか。それともこれは常夜中学校の特性だろうか?

 サンダルから来客用のスリッパに履き替え、階段は上らずに廊下を進む。歩くたびにパタパタと鳴る音がリノリウムの廊下に響いた。

「ここだ。中には司書がいるけど、気にしなくていい」

 廊下の一番端。東階段のすぐ隣が図書室だった。

「チナたち、ここで待ってるよ」

 由梨と広樹が図書室で騒ぐことを危惧したのだろう。千奈は廊下の壁にもたれかかったまま言った。

「そうか。じゃあ、なるべく早く戻るから大人しく待っててな」

 僕は千奈の頭をそっと撫でる。

「もし誰かがトイレに行きたいと言ったら、必ずみんな一緒に行ってくれ。必ず」

 図書室に入る前、零が千奈に念を押すように言った。廊下の少し先にあるトイレを指差しながら。


 膀胱をキュッと刺激するような本の匂いがした。尿意を催す原因が紙の匂いなのかインクの匂いなのかは分からないが、こういうのを青木まりこ現象と呼ぶのだと、前に何かのテレビで知った。

 図書室の中もまた物音ひとつしなかったが、廊下とは違う質の静寂が佇んでいた。

 本の日焼けを防ぐためか遮光カーテンが全て引かれ、無機質な照明の光だけが室内を青白く照らしている。窓も閉め切られているはずだが、冷房も効いていないのに冷え冷えとしていた。

 司書の女性は貸し出しカウンターの内側で本を開きながらうつらうつらとしている。齢は六十代後半くらいだろうか。白髪の目立つ彼女は、僕たちが入って来たことにも気づいていないようだった。

「司書さん、司書さん……あぁ、おはようございます。資料を見たいのですが。ええ、例の手記を」

 零との短いやり取りの後、司書は奥の書庫へと消え、少しして戻って来たその手には古めかしい小冊子が握られていた。

「ありがとうございます」

 零が受け取り、僕に手渡す。

 司書は再び椅子に座り本を開く。ついに、一度も僕に視線を向けることはなかった。

「とりあえず座って、それを読むといい。読み終えたら声をかけてくれ」

 彼はテーブルの向かいに座って文庫本を読み始めた。著者名はその手に隠れて認識できない。表紙の眼帯をした少女のイラストが、隠されていない方の瞳でこちらを見ていた。

 僕の持つ小冊子の表紙にイラストなどはなく、ただシンプルに『乙幡栄一の手記』とだけ書かれていた。

 一体、何が記されているのだろうか。全く見当も付かないまま、僕はその手記を開いた。


 * * *


 一九一一年 七月二十四日

 私、乙幡栄一は御霊村の秘密をここに書き記す。

 山間の閉鎖的なこの村で私が生まれたときからすでにそのしきたりはあった。盆になるとジヌシサマと呼ばれる武蔵一族の巫女が、現世に彷徨う死者を幽世に送り届けるというものだ。

 まず、ジヌシサマの周りに四本の青竹を立て、注連縄で囲ってそこを祭場となす。祭場の中に榊に御幣・木綿を付けた物を立ててそれを祭壇となし、酒・水・米・塩・野菜の供え物を供える。八月の一日より三日間、ジヌシサマはその祭場から一歩も出ず、飲まず食わずで祝詞を唱え、お祓いをなさる。

 我々はそのしきたりを「葬魂」と呼んでいた。

 葬魂は村の裏山の頂上に建てられた武蔵神社の境内で行う。最も天に近い場所で、ジヌシサマは死者の道標となるのだ。

 御霊村はどうやら現世と幽世の境にあるらしい。死んだ人間の魂は元来、幽世へと昇り、そこで転生の輪廻に嵌るのだが、御霊村ではしばしば道に迷う魂が出る。幽世に逝くことのできなかった魂はこの世の者でもあの世の者でもなくなり、穢れとなって忌み嫌われる存在として御霊村を彷徨う。その迷える死者たちのことをジヌシサマは「トチツキ」と呼んだ。恐らく字は「土地憑き」であると思われる。普段その姿は武蔵の血族にしか視えないが、盆になるとその気配が濃くなったかのように、我々にも視えるようになる。

 そして、彼らは大禍時になると襲ってくる。

 御霊村の盆は長い。新暦の八月一杯である。送魂を挙行しなければ、一日から三十一日の深夜零時まで怪奇現象が続く。怪奇現象と言っても、死者の姿が視え、不可思議な現象が起きたりするだけである。そんなのは御霊村の恐怖の、まだ序の口に過ぎない。

 その盆の中で数回、不定期で起こる大禍時に人が死ぬ。トチツキが道連れを求めるからだ。武蔵の巫女はそれを阻止するために代々受け継がれてきた。

 八月の頭に葬魂の儀を執り行い、死者を幽世に送ることによってその年の盆は大禍時を免れる。そうして我々は八月をやり過ごしてきた。大禍時を免れた年は誰も死なずに済むが、過去に一度だけ、不作、いや稀に見る凶作で供え物を調達できずに葬魂ができなかった年があった。そこで私は初めて怪奇現象と大禍時を目の当たりにした。私自身、それまでは単なるしきたりと認識して、信じてはいなかったのだ。

 大禍時の災厄。あれは、ここに記すにはあまりにも、あまりにも凄惨で、私にはとてもできない。多くの犠牲者が出たとだけ書いておこう。この世の真の恐怖である。

 兎に角、私はそのとき初めてジヌシサマの偉大さに気づき、感謝し、同時に畏怖の念を抱いたものだった。

 ジヌシサマがいる限り、私たちは守られる。

 だが、問題が起きた。

 武蔵一族最後の巫女、ヤエ子の不妊だ。

 これまで絶えることなく続いてきた武蔵の血筋がヤエ子を最後に絶たれようとしていた。葬魂の儀は武蔵一族の者でなければ行えないが、ヤエ子に兄弟姉妹はいない。一子相伝の悪目だ。

 大禍時を阻止する手立てがなくなる。

 それはこの村の人間にとって絶望を意味していた。

 ヤエ子がいなくなったら大勢の犠牲者が出ることが予想される。が、問題はそれに尽きない。

 葬魂を途絶えさせたその瞬間から村は呪われると云われているのだ。村で死んだ者は皆、幽世に逝くことはできず、トチツキになり、未来永劫この世を彷徨う。全ての魂がだ。

 我々に残された道は、大禍時にトチツキに殺され、トチツキになるという、なんとも不条理なものだった。死とは元より不条理なものであるが、これは単なる死以上に不条理だ。

 本年、ヤエ子は四十六歳を迎える。

 肺結核により死期を悟った彼女は先日、ある解決策を提言した。

「私が死んだら残った者は皆トチツキとなり、永遠にこの世を彷徨うことになるでしょう。しかし、助かる方法が、幽世へ逝く方法がひとつだけあります。私より先、あるいは私と共に死ねば良いのです。ですが村人全員が死んではいけません。幽世の者は、そんなイカサマを認めません。なのでこの世に一人だけ生け贄を残さねばなりません。永遠にこの世に残ってくれる生け贄を。それは、処女でなくてはなりません」

 以上が、私が書き起こしたヤエ子の言葉だ。

 これは許されないことだと、私は思う。幽世へ逝くために、残された寿命を投げ出して自殺をするなんて。それも生け贄を残して。

 生け贄は自死できぬように猿轡を噛ませ、手足を縛り、棺に入れて生き埋めにするのだという。そして村人たちが自殺したのち、時間をかけてゆっくりと、窒息、又は飢餓によって死んでもらうのだ。だがそれで終わりではない。死は始まりに過ぎない。死後、トチツキとなり、たった一人で未来永劫この世を彷徨う……。

 こんな残酷なことがあってはならない。許されてはいけない。私は村人たちにそう主張した。しかし彼らは聞く耳を持たなかった。それどころか生け贄は十四歳を迎えたミナコにしようなどと抜かしている。

 皆、トチツキに惨殺され幽世に逝けなくなることを恐れている。そんなことなら自殺の方がましだという考えなのだろう。

 自殺の方法だが、山に生えている鳥兜は村人全員の致死量を優に超える。そんな大量の鳥兜が近くの山に野生するとは、やはりこの村は死に近い場所にあるのだろう。もはや運命としか言いようがない。

 皆怯え、恐怖で感覚が麻痺し、自殺を恐れていない。毒で死ねるなら楽なものだ、と。

 皆、狂っている。狂ってしまった。

 これを書いている今、窓の外には月見草が咲き乱れ、月光に照らされて幻想的な眺めが広がっている。この景色を見るのもこれが最後かと、感傷に浸ってしまう。

 私は今夜、村を抜けようと思う。皆は裏切り者と罵ることだろう。ミナコ、連れて行けないことを許してくれ。こんなのは言い訳にしかならないが、きみを連れて行けば他の子が生け贄の候補としてあがり、終わることのない生け贄の連鎖が始まる。

 だからきみを助けることはできない。本当に、すまない。

 もうじき村の住人は全員死に、御霊村の盆の厄災を知る者はいなくなるだろう。

 ただ一人、私を除いて。



 一九六六年 十二月九日 追記


 村のあちらこちらで死体が発見され、世紀の大事件として世に知れ渡ってから長い年月が経った。村人全員死亡。衝撃的な当時の新聞の見出しだ。

 服毒死だと思っていたが、惨殺死体の山と書かれていたのには些かならず驚いた。私が村を抜けた後で一体何があったというのだろう。熊の仕業や猟奇的大量殺人など様々な憶測が飛び交ったが、最終的には集団自殺ということで落ち着いた。要するに警察は匙を投げたのだ。事実上の迷宮入りである。

 残念ながら私も、その真相を知ることなく天寿を全うするようだ。

 数多の死体の中で、ミナコの死体だけは傷ひとつなく、土に埋められた棺桶の中で眠るようにして見つかったと知ったときには、少し心が軽くなった気もした。

 もうじき村は、今や廃村だが、取り壊されて新しい町ができるそうだ。御霊ニュータウン計画というらしい。多くの死者が発見され、皮肉にもその名のついた町に誰も住みたいとは思わないだろう。町の名前は変更されるそうで現在募集中だ。

 時が経てば徐々に住人が増えることだろう。かつて戦争で大勢が死んだ地で、今は人々が生活を営んでいる。それと同じことだ。

 村がなくなったら大禍時もなくなるのだろうか。なくなることを祈る。

 もし、今これを読む者が大禍時に遭っているのなら、この手記が何かの役に立つと良いのだが。


 * * *


 すぐには言葉が出てこなくて、もう一度読み返した。

 もう一度読み返してもやはり何を言うべきなのか、僕には分からなかった。

 ただ、この手記が学校の図書室で保管されているという事実と、今日スマホが二回も受信した不可解なメッセージと、この町全体に漂う妙な空気感が、普段なら鼻で笑っていたであろうこの超常的な昔話の信憑性を高める材料となった。

 僕は今や、霊的なものの存在を信じる側へと変身している。

「読み終わったみたいだな」

 零の方が先に声をかけてくれた。彼は読みかけの小説をテーブルの片隅に置き、確言した。

「大禍時は、終わってない」

「嘘だろ?」

 そう応えたものの、信じている自分がいる。

「もし、もしそうだとしたら、こんな町みんな出て行くよ。それに、八月を過ぎたら誰も生きていないだろう。なのにこの町はちゃんと機能している。何年も前から、ちゃんと人がいて、生きている。そもそも今日は八月の四日だ。手記によればもう盆に入っているじゃないか。僕はまだ大禍時はおろか、怪奇現象すら見ていない」

 本当に?

 本当に僕は、怪奇現象を視てはいないだろうか。

 本当に僕は、怪奇現象を感じていないだろうか。

「大禍時にあるルールを守れば生き延びることができるんだ。それは案外簡単なルールで、慣れればこの町で暮らすことは容易だ。家賃も安いしな」

「あるルールって?」

「ひとつ、大禍時に一人になるな。ふたつ、ひとりぼっちは家に帰れ」

「……えっ、それだけ?」

「それだけ。大禍時は前兆があるから来る時が分かる。そのときに誰かと一緒にいればいい。それが無理なら、自宅か、誰かの家に入ればいい。公共施設はだめだ。全ての建物が安全って訳じゃない。住宅だけがセーフゾーンなんだ」

「そんな簡単に……」

「楽勝だろ。それが死を回避する方法。誰かといるときはトチツキに殺されることはないし、家の中にいるときは怪奇現象すら見ることもない。悠、きみはほとんど家の中にいたんだろ?」

「たしかに……最近引き籠もってたから、八月に入ってから外出したのは今日が初めてだ」

 家から出なかったのも、今日零と出会えたことも、本当に運が良かった。何も知らずに一人で外に出て大禍時に遭っていたらと思うと、ゾッとする。

「常夜町ではこのルールを守るために、八月は家にいるとき以外、常に二人一組、あるいは二人以上で行動している」

「だからさっき千奈に、トイレはみんなで行くように言ったのか」

「ああ。この町じゃ一人になることを避けるために図書館もコンビニもトイレを貸してくれないが、学校だけはそうもいかないからな。トイレに行くときは必ず誰かと一緒だ」

「でも、なんで家の中だけは大丈夫なんだろう」

「それは地鎮祭が関係してるらしい」

「ジチンサイ?」

「ほら、家を建てる前に儀式みたいなのをするだろう? その地鎮祭と葬魂の儀はなぜか同じプロセスなんだよ。それにより、家は守られているんだ」

「じゃあこの町の公共施設は地鎮祭をやらなかったのかな」

「たぶんね。起工式はやったらしいけど。地鎮祭と起工式は違うのかもね」

 その分野に詳しい訳でもない中学生の僕たちにはその違いが分からなかった。

「それにしても、どうして大禍時は終わらなかったんだろう。この世を彷徨うトチツキはもう生け贄のミナコの霊だけじゃないのか? 霊が一人だけならそんな厄災になることもないだろうに」

「いや、何か手違いが起きたらしい。村人全員がトチツキになっているよ」

「ヤエ子の提案した打開策は失敗に終わったのか……。とにかく、このことを千奈たちにも教えなきゃ」

「悠のお母さんにも電話した方がいいんじゃないか。まぁ、伝えても信じないと思うけど」

「いや。母さんはイラストレーターで、仕事柄、滅多に家から出ないんだ。最近は忙しくて食事もほとんど出前だし。だから大丈夫だと思う」

 出前を届けに来たバイトが二人組だった謎が、今になってようやく解けた。

「へぇ、イラストレーター……そりゃすごいな」

 だから母さんはまだ怪奇現象すら視ていないはずだ。大禍時のことは電話じゃなく帰ったら直接伝えることにしよう。

 それまでに信じてもらえる説明を考えなきゃ。

 僕らは立ち上がり、零が司書に手記を返却する。——そういえば、僕たちが図書室に入る前、司書は一人きりだったのではないか。

「……零、司書さんは誰かと一緒じゃないの?」

「……彼女は自殺志願者なんだ。以前、大禍時に家族を亡くしたのが原因で」

「私の不注意のせいでね、夫が死んだのよ」

 彼女はこちらを見ることなく、無気力に呟いた。本人に聞こえないように小声で話していたのだが、さすがにカウンターを隔てただけの距離では聞こえたようだ。

「だのに誰も私のことを殺してくれないの。毎年こうして、一人でいるのに」

 トチツキも相手を選ぶのかしらね。と、彼女は言った。そのとき初めて司書は僕を見た。眼鏡の奥にある瞳は一切の光を反射することなく、人形のように虚ろな眼差しをしていた。

「さ、行こう。千奈ちゃんたちが待ってる」

 零に促され、出入り口に向かって歩き出す。

「もーぅいーぃかい?」

 廊下から声がした。

「まさか!」

 僕と零の声が重なる。内心の激しい動揺が戸を開く動作に表れる。勢い良く開いた扉の向こうで、外れていてほしいと思った予感が的中する。

 そこに由梨と広樹の姿はなく、いたのは千奈一人だけだった。

「……もーぅいーぃよー……」

 校舎のどこかで、幼い二人の声がした。


「由梨、広樹、出てこい! 隠れん坊終わり!」

 僕の声が届いていないのか、あるいはまだ遊んでいたいのか。二人が出てくる気配はなかった。

「公園では素直に集まってきたのに……」

「雨が降ってきて仕方なくだろう。小さい子はまだ遊んでいたいんだよ」

 僕がさっき噛み締めた年長者の威厳はただの勘違いだったのか……。

「しかし、公園でする隠れん坊とは訳が違う。公園という抜けた空間ではどこに隠れてもひとりぼっちにはならないが、学校でどこかの教室に入ってしまったらそれはトチツキにとって一人という勘定だ」

「ごめんなさい……本当にごめんなさい。ヒロキが待ちきれなくなってぇ、隠れん坊しようってぇ、言い出してぇ」

 図書室から出てすぐ、手記の内容を千奈に伝えた。すると千奈は目を充血させて静かに泣き出し、今もなお嗚咽を洩らしている。

「いや、千奈ちゃんは何も悪くないよ。俺が甘かった。きみたちが一人になる状況はトイレだけじゃないよな」

「でもまだ大禍時になった訳じゃないし、大丈夫だろう?」

 希望的観測に過ぎないだろうか。でも、大丈夫だと思いたい。この速まる脈拍と、冷たくなっていく指先の焦りを抑えるために。

「まあ、今まで八月のこんな早くに大禍時が起こったことはなかったと思うけど……いつ起こるかは本当に分からない」

「じゃあ早く探し出さなきゃ」

「ああ。でもまぁ、もし今このタイミングで大禍時が始まったら……悠、きみは本当に運が悪いよ」


  6


 どんよりとした墨色の空は、再び泣き出しそうな雰囲気を醸し、張りつめた弓のような緊張感を放っている。

 暗がりの増す廊下。僕の手を握って俯きがちに歩く千奈はすっかり落ち込み、黙り込んでしまった。何か掛ける言葉を探すも、これといって見つからない。

「運が悪いとすれば、悠じゃなく俺かもしれないな」

 沈黙を打ち破り、零は唐突に切り出した。

「俺は運悪く盆に越してきて、運悪く小学校は夏休みで、誰も大禍時のことを教えてくれないまま、運悪く母さんがトチツキに殺されたんだ」

「えっ」

 僕は驚きを隠せなかった。彼は真面目な表情で話を続ける。

「もともと母子家庭だった。俺は家で一人留守番をしていた。母さんは買い物に出て、その帰りに大禍時に遭った」

 やはり盆に引っ越してきて何も知らずに大禍時を迎える人はいるのだ。危うく僕もそうなるところだった。

「夕飯の食材が詰め込まれた買い物袋を傍らに放り出し、首を五百四十度も回転させて死んでいた。らしい。首が一回転半捻られたんだ。俺はその現場を見ていないが、たった一人の家族だったから死体は確認した。頭の位置は元に戻っていたんだが、首の皮が破れて、血で赤黒い首輪ができていたのを、今でも覚えている」

 涙は枯れてしまったのか、語気に漂うのは哀傷よりも疲弊だ。図書室の司書とどこか通ずるものがある。大切な人を失った人間の特質だろうか。

 僕は裂けた首の皮から覗く生々しい肉を想像してしまい、思わず顔をしかめた。

「そういう場合って、警察は?」

「この町の警察は大禍時に死んだ人間を全て事故死ということで片付ける。じゃないと、常識では考えられない死が多過ぎて対応しきれないんだ」

「そうなんだ……」

「たった一人の肉親を失い、遠い親戚に預けらた。十三歳を迎えてからこの町に戻って来て一人暮らしを始めた。親戚が保証人になってくれたし、金も出してくれた。その点では恵まれていたと思う」

「なんでまた、この町に?」

「俺は母さんが死んだこの町を離れたくなかったんだ。どんなにつらくても、この町ならすぐ側に母さんがいるような気がして」

 死者が彷徨う町だから——

 零の気持ちが少しだけ分かるような気がした。そう思うのは傲慢だろうか。

 もしかしたら零は、僕に自分と同じ悲しみを経験させまいと、この町について親切に教えてくれるのではないだろうか。

 夏休みに引っ越して来た僕と、零自身を重ね合わせて……。

「だからもし、このタイミングで大禍時が来たら、たぶん俺のせいだ。でも俺を恨まないでくれ」

「零……ありがとう」

 一瞬間に不思議そうな顔をした後、彼は微笑んだ。


 うっすらと廊下にまで漂う油絵の具の匂いで、室名札を見なくてもそこが美術室であることが分かった。図書室の反対側、西階段の手前。意外と長かった廊下を端から端まで歩いてそこに辿り着いた。

「美術部なんだね」

 彼のスラックスに所々付着している絵の具で、なんとなく予想はついていた。

「ああ。他の部員にも探すのを手伝ってもらおう」

 そう言いながら零は戸を開く。

「まあ、他の部員って言っても二人しかいないんだけど」

「ああーっ!」

 室内に入った途端、甲高い声が響いて心臓を跳ねさせた。

「帰って来た! 零、一人でいなくなるなんてバカじゃないの。心配したんだから」

 一人の少女が駆け寄ってくる。黒髪のショートボブに赤い縁のメガネが印象的で可愛らしい。絵の具まみれのエプロンをしているが、自然とお洒落に見える。

「少しの時間くらい大丈夫だと思ったんだよ。大禍時はそんな頻繁に起こるものじゃないし」

 少女は零が下げているコンビニのビニール袋を見て言う。

「誘ってくれたら私も行ったのに」

「俺とお前が一緒に行ったら、原市が一人になっちまうだろ」

 そう言って零は奥にいるもう一人の少女を指差した。

「そしたら三人で行けばいいよ。で、そちらの二人は誰なの?」

「彼は新学期からここの生徒になる小田切悠だ。隣は妹の千奈ちゃん」

「あなたたち二人合わせて悠と零でユウレイコンビって、この町じゃ笑えない冗談ね」

「悠、こいつは柏木沙耶。悪い奴ではないんだ」

「分かってるよ。よろしく、柏木さん」

「あそこで絵を描いてるのは原市恵美。原市、悪いんだけどちょっとこっちへ来てくれないか」

 キャンバスに向かって絵を描くのを中断して静かにやって来た彼女は、柏木に比べて地味な印象を受けた。漫画でしか見たことのない牛乳瓶の底のような眼鏡に、美白というよりは不健康と言う方が相応しい肌の白さ。長く厚ぼったい髪の毛と俯いた一重の瞼が、余計に陰鬱なイメージを増幅させている。

「沙耶と原市に、頼みがある」

「人を探すのを手伝ってほしいんだ」

 零が切り出し、僕が続ける。

「もう一人の妹の由梨と、その友達の広樹が校舎のどこかに隠れてるんだ」

「はぁ……この八月に何やってるのよ」

「まあそう言うな、沙耶。悠たちは引っ越して来たばかりで何も知らなかったんだ」

「ひ、広樹くんって、まさかあの、し、清水さんの弟の?」

 初めて原市の声を聞く。早口気味で、喋る時に少し吃る癖があるようだ。

「そうだ。あいつも遊び相手ができて嬉しかったんだろう。許してやってくれ」

「広樹くん、ま、まだ幼いから、大禍時を理解するのは難しいよね……」

「じゃあ早いとこ探しましょ。大禍時が来たらシャレにならないし」

「ああ。俺は悠と千奈ちゃんと。沙耶は原市と、ペアを組んで二手に分かれて動く。俺たちは三階、そっちは二階と渡り廊下を渡って体育館まで探してくれ」

「あ、わ、私、音楽室に用事あるし、私たちが三階が、い、いいな」

「そうか、じゃあそうしよう。俺たちは二階と体育館を探す」

「あのねぇ、トイレはナシにしようって言ってあるから、トイレにはいないと思う」

「はいよ、了解」

 千奈の言葉に、柏木がエプロンを脱ぎながら返事した。

「それじゃあ、よろしく頼む」

 零に続いて、僕と千奈は頭を下げる。

「よろしくお願いします」


  7


「そう言えば、一階は誰が探すの?」

 階段を上りながら僕は訊ねる。

「一階の教室はほとんど鍵が掛かっている。夏休み中に生徒が入れるのは美術室と職員室、図書室だけで、美術室にはいなかったし、残りの二部屋には人がいるから探すのは一番後回しでいい」

「そっか、そこならトチツキに襲われる心配はないね」

「運良く部活中の生徒がいる教室に隠れてればいいんだけど。この学校、ただでさえ文化部は少ないし、八月は活動しないからなぁ」

 望み薄な零の言葉にはまだ余裕が感じられた。まさか、今日に限って大禍時が来るはずがない。心のどこかで、そう楽観しているようだった。

 触ると掌が鉄臭くなる手すりを辿って到着した二階。

 曇天を通して廊下に差し込む光は僅かで、その暗さ故に蛍光灯が点いていた。しかし蛍光灯の明かりも弱く、かろうじて蛍光灯それ自身の周りを照らしているに過ぎなかった。突き当たりの壁が遥か先に、黒塗りの四角い闇となって小さく見えた。

 薄暗い学校って、なんでこんなにも不気味なのだろう。

 不意に、明かりがチカチカと瞬いた。そして急に霧が出て空気が白んだような、いや、景色そのものの色が淡くなったような気がした。まるで色褪せた古い写真を見ているかのように。

 窓から吹き込んだ冷たく激しい風に校舎が唸る。

「なに——」

 言いかけたそのとき。


 ァアアアアアアァァァァァ……!


 甲子園のサイレンにノイズが混じったような、あるいは化け物の叫びのようにも聞こえる音が鳴り響いた。

 軽く頭痛を引き起こすような大音量。

 空気が振動し、大地が震えるのを肌で感じる。

 学校のチャイムなどではない。その不気味な音は窓の外から聞こえてくる。

「何が起きているんだ……」

 溶けることのない氷のように静かな瞳で、零は答える。

「大禍時だよ」

「まさか、これが『前兆』?」

 彼は絶望の染み込んだ声で呟く。

「ほんと、運が悪い」

 今なら、僕にも感じることができる。

 この世に生まれ落ちてから歳を重ねるごとに近づく死の匂い。普段感じることのできないそれは、もう淡くはない。

 濃密な死の匂いが、近づいて来る。

 悪夢が、始まる。





 第二章 柏木沙耶の捜索


  1


 鼓膜を震わす不気味なサイレン。

 死の合図だ。大禍時が始まったのだ。

 毎年のことだけど、やっぱり何度聞いてもこの音には慣れない。黒い水に沈んで行くような、妙なオーラに包まれるのも気持ちが悪い。

 まさかこんな早くに来るなんて……。

 しかも、よりによってこのタイミングで。

「いつもは八月半ばか、それより後なのに」

「ま、まるで子供達が一人でいるのを見越したように、来たね」

「やだぁ、原市さん。怖いこと言わないでよ」

「は、早く見つけてあげなきゃ、ね」

 原市さんはそう言って不器用な笑みを見せた。

 彼女はクラスメイトからは暗いとか地味だとか陰口を叩かれているけど、悪い人ではない。と私は思う。

 私と零以外の唯一の美術部員だし、たまに言葉が聞こえづらいことはあるけど、話し相手にもなってくれるし。

 かく言う私も、クラスメイトから良く思われてはいないのだ。あからさまにいじめられている訳ではない。でも、同じクラスの女子たちの視線が、なんとなく刺々しいものであることを感じている。

 その原因は、私が零と仲がいいことにあると思う。直接彼女たちに聞いたわけではないが、私には分かる。女の勘というやつだ。

 零は普通の男子とは違う。ルックスも、内面に秘めているものも。その純白の容姿とクールな性格に多くの女子が惹かれるのは当然至極のことだ。加えて、常夜町の中学校は小学校のメンバーがそのまま持ち上がるので人の入れ替わりがほとんどなく、中学校入学と同時期に引っ越して来た零は際立って目立った。

 彼は小学生の頃に一度常夜町に越して来たのだけど、夏休みの間だけで新学期が始まる前に他の場所へ移ったらしい。理由は知らない。

 零が美術部に入るという噂が知れ渡ったとき、数十名もの女子が我先にと美術部へ体験入部に来た。押し寄せる女たちの波で満員になった美術室。みんなでブルータスを囲んだのはシュールながらも良き思い出だ。私は元から絵を描くのが好きで小学生の頃から美術部一筋だった。

 ほとんどの女子はやっぱり絵など興味がなく、零が目当てなものだからお世辞にも上手いとは言えなかった。そんな中で彼は私に、その落ち着いた良く通る声で話しかけてきたのだ。

「柏木、お前の絵、ずば抜けて上手いな」

 それが私と零のファーストコンタクトであり、私から全女子への静かなる宣戦布告となってしまった。

 以来、同学年の女子たちは何となく私に冷たいような、そんな気がするのだ。

 私はみんなと仲良くしたいのに……。

 そんな訳で私は零のことを、ほんのちょっぴり恨んでもいる。

 原市さんはそんな私と分け隔てなく接してくれる、唯一の女友達だった。だから、悪い人のはずがない。

 体験入部の女子たちが次の日にはみんないなくなっても、原市さんだけは正式に入部し、今も絵を描き続けている。

「れ、零くんも危なかったよね」

「本当にね。コンビニに行く時間が少しズレてたらと思うと怖いわ〜。ほんとバカなんだから」

「まあまあ……」

 なだめるように上げられた彼女の手に、細長い木の棒のようなものが握られていることに気づく。

「あれ、原市さん何持ってるの?」

「あ、ああこれ……び、美術室の、壊れたイーゼルの脚。な、何か武器になるものを持っていたくて」

 なるほど。トチツキは二人以上でいるときは襲ってこないけど、ひとりぼっちにさせようと仕掛けてくることはある。そんなときに対抗できる武器があったら心強い。トチツキは無敵ではない。彼らが私たちに触れられるように、私たちも彼らに触れることができるのだから。

 階段を上りきり、三階の一番端の教室の前に着いた。

 三年一組の教室。端からひとつひとつ教室を潰して行く作戦だ。

 ドアを開けても、人の気配はなかった。

「由梨ちゃーん、広樹くーん、いますかぁ」

 ……沈黙。

「いたら出てきて欲しいなー」

 やはり反応はない。原市さんが教室の後ろにある掃除用具入れを開く。

「こ、ここには誰もいないみたいだね。ほ、他に隠れられる場所もないし」

「そうね。次行こう」

 三年二組、三年三組と続けて誰もいなかった。

 いや。正確には、三組の教室の窓際には女の人が佇んでいたのだけど、それはこの世の者ではなかった。

 一見、長い前髪が顔を隠しているだけの人に見える。しかしよく見ると、顔が向こうを向いているのに体は教室の中を向いているのが分かる。頭が百八十度、あるいはそれ以上、捻れているのだ。トチツキが佇立しているだけの、見慣れた怪奇現象だ。原市さんもそれを見て別段反応を示さなかった。

 トチツキはみんなグロテスクな見た目をしている。それも頭部が集中的に破壊されているのが多い。首が捻れていたり、頭がなかったり、顔が潰れていたり、あとは頭から墨汁を被ったように全身真っ黒な奴もいる。トチツキの姿は大きく分けてその四パターンだ。

 もし、常夜町の女の子が彼氏とのデートでお化け屋敷にでも行くことになったら、それは大層つまらないものになるだろうなと思う。恐怖に免疫のついた私たちは、この町の外に怖いものなんて何ひとつないのだから。

 三年四組の教室は、ドアを開ける前から人の気配を感じた。温度の感じられない明かりが廊下に漏れている。ドアの窓を覗くと、数人の生徒の姿が見えた。

 その人たちがこの世の者であることを確認し、私はドアに手を掛けた。


  2


 引き戸の開く音に反応し、六つの目が私を捉える。

 男子生徒らは一瞬の緊張感を示した後、和やかな雰囲気を取り戻して「驚いたなぁ」と談笑した。

 三人の男子はみんな似たような雰囲気で、世間一般で言う「冴えない」人たちだった。彼らはまるで示し合わせたかのように黒縁眼鏡をして、ワイシャツの第一ボタンまできっちりと締めていた。

「あの、すみません。小学生くらいの男の子か女の子を見ませんでしたか?」

 相手の学年が分からないのでとりあえず敬語を使う。

「いやぁ、見てないですね。僕らずっと話してたし、気づかなかっただけかもしれないですけど」

 艶やかな髪がキノコのような形をした童顔の男子が答えた。

「そうですか……えっと、ちなみにここは、何部?」

「大禍時研究会です」

 同じ男子が応答する。部長なのだろうか。

「こんな時期にやってる文化部は珍しいですね。普通はみんな家で大人しくしてるのに」

 その言葉に男子三人は失笑した。

「家で大人しくって、一ヶ月も。気が狂うわ」

「俺たちの青春の夏休みは、こんな町のせいで台無しになるんだぜ。大禍時なんてクソ喰らえだ」

 小太りの眼鏡と背の低い眼鏡が投げやりに言った。

「珍しいことではないですよ。美術部だって活動してるじゃないですか。そうでしょう、柏木さん」

 童顔キノコに、突然名前を呼ばれて驚く。

「どうして私の名前を知ってるの?」

「あなたは二年生の間では有名ですよ。あの漣くんの彼女って」

 そんな噂が!

 仲がいいのは自覚しているけど、まさか付き合ってることになっているなんて。どうりでクラスメイトの女子の視線に敵意が含まれる訳だ。

「彼女じゃないよ!」

「あ、そうなんですか。でも名前を一方的に知られるのって気持ちが悪いものですよね。僕の名前は落合稔です。大禍時研究会部長。お見知り置きを」

 他の二人が名乗る様子はない。興味なさげに何かノートを取っている。

「落合くんたちは、大禍時が嫌いなのに、大禍時を研究しているの?」

「嫌いだからこそですよ。敵を知り己を知らば百戦危うからず。大切なのは、まず敵を知ること。僕たちはいつか、大禍時の原因を解明したいと思っています」

 同級生ということが分かったので敬語をやめたが、落合くんの丁寧な物腰は変わらなかった。

「このままじゃ、この町はいつかトチツキで溢れ返ってしまう。常夜町で死んだらみんなトチツキになっちゃうんだから」

「人が減るごとにトチツキが増える。そのうちトチツキだけになる日が来るかもしれない」

 小太りと短身が深刻な面持ちで続ける。二人とも、話すときに人差し指で眼鏡をくいと上げるのは癖なのだろうか。

「ふぅん。私はトチツキになってもいいと思うけどな。死ぬ瞬間は怖いけど。死んでもずっとこの世に留まれるなんて、なんか楽しそうじゃない? ねぇ、原市さん」

「えっ、えう、え……」

 急に話を振られた原市さんはしどろもどろになってしまった。その代わりに落合くんが応える。

「そんな楽観視しないでくださいよ。死んでからも生きていた時と同じように活動できると思っているんですか? 死んだら人間的な本能は一度リセットされ、記憶も欲望も全て消え去るわけです。そしてなぜか、生者を殺すという本能だけがプログラムされ、アメリカ映画のゾンビのように貪り続ける。それが、楽しいことだと思いますか?」

「えっ……そうなの……」

「常夜町だけです。常夜町の死者だけが、なぜか生者を殺すようにプログラムされるのです。死者は生前とは桁違いの力を持ち、人間の頭を軽々と潰したり、引きちぎったりできます。死者同士の力は対等なようですが、生身の人間が敵う相手ではありません。その死にながら生きる殺戮の御霊を、武蔵の巫女はトチツキと名付けました」

「なんでこの町にだけ、こんな恐ろしいモノがいるんだろう」

「たしかに、トチツキは恐ろしいですね。でも……」

 落合くんは俯き、眼鏡越しの瞳に暗い影が落ちた。

「この町は日照時間が極端に少ない。陽の光を浴びないと人の心は荒む。常夜町で本当に怖いのはトチツキか、人間か……どっちでしょうね」

「いや、そりゃあトチツキでしょ……えっ、何? 急に哲学?」

 落合くんは誰かからいじめでも受けているのだろうか。ありそうな話だ。

「そんなことよりいいんですか。人を探しているんでしょう?」

「やばっ! そうだった!」

 原市さんの手を引いて大急ぎで教室を出る私の背中に、落合くんの「がんばってくださいね」という朗らかな声が届いた。


  3


「か、柏木さん、まさかひ、人探しを忘れていたなんて……」

「ごめんごめん。変な噂が流れてるのを知ったら、つい気が動転しちゃって。ていうか、落合くんたちも手伝ってくれればいいのに」

「し、初対面の相手に頼むのは、な、なんか忍びないね」

「だよね……」

 ただでさえ大禍時には行動したくないものだ。たとえ誰かと一緒にいても、トチツキは私たちを「仲間」に引きずり込もうとあの手この手で仕掛けてくる。霊的な力を使い、ポルターガイストのように物を動かしたりして人と人とを引き剥がし、ひとりぼっちにさせるのだ。

 大禍時が過ぎ去るのを待ってじっとしているのが一番安全だ。私だって、零の頼みでなかったらこうして探しているか分からない。

「本当なら校内放送とか流すべきなのよね。由梨ちゃん広樹くん出てきてくださいって。あるいは今学校にいる生徒全員に頼んで探してもらうべきなのよ。命に関わることなんだから」

 その命に関わることを、一瞬でも忘れていた自分を恥じる。

 でも仕方がないじゃない。あんな噂を耳にしたら……。

「こ、校内放送が使えたら、それができるのにね」

「ほんとにね。でも大禍時の間は電子機器が正常に作動しないもんね。電話も校内放送も、変なノイズみたいなのが入っちゃって全然声が聞こえないんだから」

「ま、まるで助けを求めるのを、こ、拒むように……ね」

「やだぁ、原市さん。怖いこと言わないでってば」

 三年四組の教室を出てトイレを挟んだ五組、多目的室と、やはり誰もいなかった。三階で残るのはもう、音楽室だけだ。

「あっ。そういえば原市さん、音楽室に用があるんだっけ」

「うん」

 妙にハッキリとした声で答えながら、原市さんは壊れたイーゼルの脚を両手で握りしめていた。


  4


 普通教室と違って、特別教室の図書室や音楽室は出入り口がひとつしかない。私はそのことを非常に不満に思っていた。なぜなら、遅刻したときに教室の後ろからこっそり入ることができないからだ。堂々と前から入り、先生に怒られるしかない。だから私は、音楽室と図書室が嫌いだった。そしてたったひとつのドアが教室の後ろに付いている美術室はとても好きだった。準備室を備え付ける都合でそうなったのだろう。

 そういう思いが脳内を巡り巡って口から出た言葉は「私、音楽室って嫌いなのよね」だった。

「ご、ごめんね。わ、私が三階がいいって言ったばっかりに……」

「あ、違うの。そういうつもりで言ったんじゃないの。気にしないで」

 それでも原市さんは小声で、本当にごめんねと付け足した。

「それで、音楽室の用事って?」

「ああ、これ」

 そう言うと原市さんはおもむろに音楽室から出て、引き戸をぴしゃりと閉めた。

「え?」

「本当に、ごめんね」

「ちょっと原市さん、何してるの?」

 訳が分からず混乱する。

「私、実は、れ、れれれ零くんのことが……す、す、好きなの……」

 原市さんは今までに見せたことのない、満面の笑みで言った。歯茎がむき出しになり、並びの悪い歯が露わになる。だが次の瞬間、一転して悲しそうな表情になった。

 背筋にぞくっと震えが走る。私の頭の中で、大音量の警戒音が鳴っている。

 逃げなければ。今すぐにこの場から逃げなければ。

「で、でも柏木さんは、邪魔なの」

「何言ってるの……」

 戸を開けようとするも動かない。力一杯引いてみてもびくともしなかった。原市さんは押さえてすらないのに。

 ふと、もうその手にイーゼルの脚が握られていないことに気づく。

 あれをつっかえ棒にしているんだ……!

「これで私、れ、零くんと美術部で二人きりになれる」

「ふざけないで」

「だ、だからごめん。わ、私のために、ひとりぼっちになって。私のために、死んで。お願い」

 そのストレート過ぎる言葉に、私の頭の中の何かがキレた。

「お願いって、そんなことできる訳ないでしょ! 何考えてるの!」

「で、できるよぉ。音楽室は防音だから、叫んでも、聞こえない。だ、誰も助けに、来ないよ」

 理不尽な恐怖と怒りで、脳内の警戒音は赤い色彩となって視界をチカチカと点滅させた。指先がひどく冷たい。体中の震えが止まらない。

「ま、まさか本当に、大禍時が来てくれるなんて、ね。三階を選んでおいて良かった。わ、私は、音楽室って、好き」

 原市さんは最初から私をここに閉じ込めるつもりで三階を選んだのだ。大禍時が来るかどうかは賭けで、私をひとりぼっちにする絶好のチャンスを待っていたんだ。

「……私とはぐれたら、原市さんだってひとりぼっちになるんだよ?」

「い、急いで零くんたちのところに行けば、きっと平気だよ。し、心配してくれて、ありがとう」

 皮肉ではなく心から感謝している様子だ。

 だめだ。原市さんはどこか壊れてしまっている。

 彼女が零に「ど、どうしよう、柏木さんが、どこかへ消えちゃった」なんて言う姿が想像できた。零は慌てて取り乱すが、トチツキの仕業と疑い、原市さんを責める素振りも見せない。その光景がやけにリアルで、実はもう私は死んでいて、トチツキになって俯瞰している映像なんじゃないかと思った。

 頰を伝う涙の感触でまだ生きていることを実感する。

「ばいばい、柏木さん」

 そう言い残し、原市さんは行ってしまった。

「待って! ねえ、原市さん!」

 叫んでも、叩いても、蹴っても、戸は微動だにしない。音楽室の扉ってこんなに頑丈だったっけ。いや違う、これもトチツキのイタズラか。

 濃厚になっていく、絶望の二文字。

 ——常世町で本当に怖いのは、トチツキか、人間か……どっちでしょうね。

 落合くんの言葉が脳裏に浮かぶ。

 ごめん、落合くん。さっきの答えは撤回するよ。私は今、トチツキより人間の方が怖い。これから本能のままに私を殺しに来るトチツキよりも、相手を陥れるためなら何だってする人間の悪意が怖い。

 でも、それよりもやっぱり眼前に迫る死が、怖い。

「零、助けて……零……」

 背後で何かが蠢く気配を感じる。

 振り返ることは、できなかった。

「わたし……本当にここで、死ぬの?」

 まだ十四年しか生きていないのに。やりたいことだって、まだたくさんあるのに。こんな突然、人生の終焉を迎えることになるなんて。

 死ぬのって、痛いのかな。苦しいのかな。

 嫌だなぁ。嫌だ。嫌だ。怖い。怖いよ。死にたくない。

 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。

「死にたくないよぉ!」





 第三章 小田切悠の再会


  1


「夢?」

 掃除用具入れの扉を閉めながら、零はこちらを振り返った。

「うん。この町に引っ越して来てからずっと同じ夢を見るんだ。それも怪奇現象のひとつなのかな」

 一年生の教室から順に調べて二年生の最後の教室を探したが、由梨も広樹も見つからなかった。僕は焦りを押し隠すように、この町に引っ越してからずっと見ているあの夢のことを零に話していた。何かを喋っていないと、不安に押し潰されてしまいそうだった。

「どうだろう……夢の怪奇現象ってのはあんまり聞かないな。何か危機を感じた潜在意識からの警告、幼少期の記憶や前世の記憶とか、同じ夢を繰り返し見る理由にはいろんな説があるらしいけど」

 そう言って彼は教室を出る。僕も千奈の手を引いて後に続く。

「でも、あんまりってことは、少しはあるの? 夢の怪奇現象って」

「悪夢を見たとかそういうのは聞くけど、それは大禍時が迫っている精神的なストレスが原因となっているだけで、怪奇現象は関係ないんだよ。それに、悠のその夢も八月に入る前から見てるんだろう。その時点で怪奇現象は関係ない」

「じゃあやっぱり幼い頃の記憶なのかなぁ」

 そうは言ったものの、幼い頃に暗い森の中で誰かと隠れん坊をした記憶などない。前世の記憶というのもなんだか信憑性に欠ける話だ。何かの危機を……というのは考えたくないので無条件に排除する。認めたくはないが、可能性としてはそれが一番高いような気がするのだが。

「お兄ちゃん、お外でチナたちと遊ぶとき、いつも隠れん坊しようかって言うよねぇ」

「えっ、そうだっけ」

 千奈に指摘されるまで気がつかなかった。言われてみればそうかもしれない。思えば、今日の公園でもそうだったのではないか。

「今でも隠れん坊という遊びに思い入れがあるのなら、幼い頃に森の中じゃなくてもそれに近い環境でやっていた可能性はあるな。そして心に深く刻み込まれる現象が起きたが、自分自身、それを封印してしまっている」

「封印? なぜ?」

「いや、俺には分からないよ。そういう可能性もあるってことさ」

 そう言って零は目にかかる白い前髪を払い退けた。

「それにしても、由梨ちゃんも広樹も見つからないな。あとは渡り廊下の先の体育館だけだ」

 由梨……。どうか無事であってくれ。

 零から聞いた、零の母親の死に様が脳内で再現される。実際には見たことのないその死体の顔が、いつの間にか由梨のものに変わっている。

 そんな想像が、生々しく、僕を恐怖へ誘った。

 今すぐ走り出して由梨を見つけてあげたい。だが零は走ることを禁じた。焦りは禁物だと。走ればトチツキに隙を見せることになり、僕らを引き剥がしやすくしてしまうと言うのだ。

 急ぎたいのに急げない。どうしようもなく焦れったい。

「お兄ちゃん、手、痛いよぅ」

「あ……あぁ、ごめん」

 千奈の手を握っていた右手に、無意識に力が入ってしまったようだ。

 落ち着け。落ち着け、悠。

「しっ」

 突然、零が口元に人差し指を当てた。彼は廊下の先を見つめている。

 カラカラカラ……

 何かが転がる音がした。

 その音は僕たちが歩いてきた廊下の向こうから聞こえてくる。

 カラカラカラ……キィー……

 車輪の付いた何か金属質のものが移動するような音。その音は徐々に近づいて来る。蛍光灯は意味を成さず、昼間なのに夜のような闇に包まれた廊下の先から、姿は見えないのに異様な存在感を放って近づいて来る。

 カラカラカラ……キィー……

 やがて音の正体が、淡い光の差し込む窓の前に現れた。

 看護師だった。ストレッチャーを押しながら、ゆっくりと歩いていた。

「あ……あれ……なんだ……」

 ものすごい違和感。吐き気を催すほどの違和感は、学校で看護師がストレッチャーを押しているというのが原因ではなかった。

 原因は他にある。

 その看護師の、顔がなかったのだ。

 昔話で見るようなのっぺらぼうではない。顔が潰されていたのだ。

 顔のパーツがあるべき場所が、ぐちゃぐちゃに変形している。鈍器で何度も殴ったかのように陥没していた。ぬらっとした赤黒い肉の奥で、白い歯がちらほらと散乱している。無傷で残っている耳や、汚れひとつない清潔そうな薄いピンク色の看護帽、ナース服が不均衡で、却って不気味さを増大させた。

 だが異様なのは看護師だけではない。

 看護師に運ばれているストレッチャーの上の物もまた、異質な雰囲気を放っていた。

 異形の物体。とでも言えばいいだろうか。何なのか分からない、人の頭ほどの大きさのものが、白いシーツに包まれてストレッチャーで運ばれていた。それはシーツの中で、蠢いていた。

 僕らは金縛りにでも遭ったように、一言も発することなくその光景を見ていた。それが目の前を通り過ぎるとき、鼻を突くひどい腐敗臭がした。ひどい、という言葉では到底言い表せない。体中の穴という穴から、濃厚な悪魔の影が入り込んでくるような感覚。それほどに強烈な悪臭。

 しかしなぜか、自分は昔これに近い臭いを嗅いだことがあるような気がした。

 看護師は渡り廊下に進むことなく踊り場を曲がり、階段へと消えて行った。上階へ行ったのか、その逆へ行ったのかは、分からない。

 姿が見えなくなるのと同時に、緊張も解けた。

「何だったんだ、今の」

「怪奇現象のひとつだよ。この学校が建つ前、ここは御霊村の病院だったんだ」

「だから、ナースさんの、幽霊が出るのぉ?」

 千奈が鼻水をずびずびと言わせながら訊いた。顔を見ると涙と鼻水でぐしょ濡れになっていた。今まで音も出さずにずっと泣いていたのだ。極度の恐怖と緊張は、悲鳴をあげることさえも忘れさせる。

「うん。あのナースは何度か見たことがある。だけどストレッチャーの上に何かが乗っているのは、初めてだ」

 一体、何を運んでいたのだろう。どこへ向かっているのだろう。

 考えるより先に、上の階から絶叫が聞こえてきたのだった。


  2


 階段を早足で駆け上がると、微かに鉄のような匂いがした。

 長い廊下の中央。三年五組の教室の前で、三人の男子が「何か」を取り囲んでいるのが見えた。遠目にも彼らの体が震えているのが分かる。

 ひどく不穏なものを感じた。悪い予感が、僕を無我夢中でそこに向かわせる。

 鉄のような匂いは、そこへ近づくほどに濃くなっていく。

 やがて彼らの肩越しに見えたそれに、絶句した。

 女子生徒の胴体が、クリーム色の床に広がった赤い水溜りの中で静かに横たわっていた。

 大禍時が始まって以来、色彩の淡くなった世界で、その赤だけは浮いて見えた。あまりにも鮮やかな赤が、血液であると認識するまでに少しの時間を要した。

 それは紛れもなく死体だった。

 ただの死体ではない。頭部のない、死体。

 うつ伏せの胴体が穿いている制服のスカートで、かろうじて女子であることが分かる。

 頭が切断されたときに噴き出したと思われる大量の血が、壁や天井にも飛び散っていた。そこから滴り落ちる雫が、ぴちゃ、ぴちゃ、と規則的なリズムで血溜まりに波紋を描いている。

 胃の中のものがこみ上げてきた。必死にそれを飲み込んだ。

「いやぁぁぁぁ!」

 千奈の目を、零が素早く覆う。だが遅かった。千奈の網膜にはもうこの惨状が焼き付いてしまったのだろう。断末魔の叫びの如き咆哮が、絶えることなく廊下に響き渡った。

「千奈、千奈、落ち着け。深呼吸をしろ」

 僕は自分自身を落ち着かせるように、千奈を強く抱きすくめる。くぐもった泣き声がポロシャツのお腹を温かく濡らした。

「何があった」

 零はポーカーフェイスを維持しながら落ち着いた様子で三人の男子に訊く。それでも、僅かに呼吸が浅くなっているように思えた。表には出さないが零も動揺しているようだ。

「トチツキのナースが教室の前を通ったんです。そのすぐ後に廊下から、ゴトッ、て何かが落ちた音がしたんです。ナースはよく見ますけど、そんな音がしたのは初めてだったんで、何事かと思って出てきたら……」

「この有り様というわけか」

「誰なんでしょう。この女子生徒は」

「柏木沙耶か、原市恵美だろうな」

 零は拳を握りしめ、言った。

「上履きに絵の具が付着している。美術部であることは間違いない。でも、沙耶も原市も体格は似てたから、どっちかは分からない」

 美術室で出会った柏木と原市の姿がフラッシュバックする。彼女たちはついさっきまで、確かに生きていた。それがこの短時間で、目の前の惨たらしく虚ろな抜け殻と化している。

「……僕のせいだ」

 心臓が握り潰されているみたいに痛むのを感じながら、僕は無意識に呟いていた。目頭が熱くなり視界がじわりとぼやける。

「僕が、妹たちを探すのを、手伝ってくれなんて、頼んだから」

「頼んだのは俺だ。悠が責任を感じる必要はない。それに、今はそんなことを言ってる場合じゃない。分かるだろう?」

 零は僕の肩を叩くように手を乗せた。

「由梨ちゃんも広樹も見つかっていないんだ。それに加えて、沙耶か原市の、生き残っている方の身も危険だ。二人のうち一人が死んだんだ」

 しゃんとしろ。彼の鋭い視線がそう言った。

「お兄ちゃん、二引く一は、一だよぅ」

 千奈が嗚咽まじりに言う。僕のお腹から引き剥がした顔から、何かが伸びてポロシャツと繋がっていた。鼻水だった。千奈の鼻から出た粘着質の透明な架け橋が、服にべったりと粘り着いていた。

 こんな状況なのに、それを見て少し笑えた。

 しゃんとしなきゃ。本来なら、零じゃなくて僕が千奈の目を覆ってやるべきだったのだ。なのに僕は、死体に動揺するあまり即座に行動できなかった。

 しゃんとしなきゃ。再び、自らを戒める。

 千奈、ごめんな。もう二度と、こんな悲惨な光景は見せないよ。

 お兄ちゃんが、守ってやるからな。

「馬鹿、千奈。そんな当たり前のこと、分かってるよ」

 馬鹿は僕だ。ハンカチで千奈の鼻を拭う。僕の目尻に滲んだ涙は、もう乾いていた。

 由梨、待ってろ。今助けに行くからな。

「探さなきゃ」


「きみたち三人は職員室に行って、このことを先生に伝えてくれ」

 零が眼鏡の男子三人に指示した。

「分かりました」

 相変わらず敬語の男子が応える。彼は比較的落ち着いていたが、他の二人は魂が抜けたように蒼白な顔をして一言も発さなかった。

「あ、漣くん。彼女たち、僕らの教室に来たときはまだ二人だったんです。出て行って東階段の方へ向かったので、東階段から来た漣くんたちがすれ違わなかったのなら、残っている一人は多目的室か音楽室の中にいるかも……」

 彼が言い終えるより先に零は動いていた。そして音楽室を覗いて表情を輝かせ、

「いた! あれ……開かない。あぁ、こんなところにつっかえ棒がしてある」

 それを外し、戸を開けた。

 同時に、わぁぁんと泣き声が飛び出した。

「零! 本当に助けに来てくれた! ありがとう、本当にありがとう」

 柏木だった。出て来るなり零に抱きついた。

「えっ……あ、おい、やめろよ」

 そう言いながらも零は、両の手でしっかりと柏木を受け止めている。

「そのねーちゃん、オレを見つけた時も抱きついてきたよ」

 柏木の後ろから、広樹がのこのこと出てきた。

「広樹!」

 僕と零と千奈の声が重なる。

「無事だったのか。本当に良かった」

「まったく心配かけやがって……沙耶、何があったんだ?」

「原市さんが私を閉じ込めたの。これで美術部で零と二人きりになれるって言って。私、もう死ぬかと思ったけど、音楽室の中に広樹くんが隠れてて助かった」

「そうか……沙耶が無事で、本当に良かったよ」

「原市さんは?」

「沙耶を閉じ込めてすぐ、トチツキにやられたみたいだ……おっと、そっちは見ない方がいい」

 零は死体が見えないように柏木の視線を遮った。

「そっか……」

 柏木は複雑な表情でため息をついた。自分を殺そうとした相手にも哀れみは抱いているようだ。

「さっき零たちが音楽室の前を通った時、私、大声で叫んだのに気づかなかった?」

「聞こえなかった。大禍時のいたずらで気づけなかったのかもしれない」

「大禍時は、ことごとく生者の邪魔をするんですよ」

 眼鏡の彼が、広樹が死体を見ないように肩を抑えながら呟いた。広樹は遊んでもらっていると勘違いしているのか無邪気に笑っている。

「……由梨ちゃんは、まだ見つかってないの?」

「ああ……」

「零、急ごう。由梨はきっと体育館だ」


  3


 最初から由梨は一階には隠れていない気がしていた。それは直感というより、このタイミングで大禍時を呼び起こしてしまう僕の(あるいは零の)強い悪運から、由梨が誰かのいるところに隠れる可能性は低いと考えたからだ。

 そして一階を除いて探すのが一番後回しになってしまう体育館に由梨が隠れることも、決まっていた運命のように思えた。悪魔的な、運命の。

 だから由梨は必ずそこにいる。

 その思いが、僕の歩調を速めた。

 僕は千奈の手を引き、集団の先頭を突き進む。

 渡り廊下がやけに長く感じ、苛立ちすら覚えた。

「悠、焦っちゃだめだ。焦りは隙を生む。その隙をトチツキは見逃さない」

「悠くん、零の言う通りだよ。奴らは——」

 柏木が言いかけた時だった。

 体育館に続く廊下をあと少しで渡り切るというところで、トチツキは僕の隙を突いたのだった。

 カタン、という音が頭上で聞こえた。

 その音の正体を確かめる間もなく、それは落ちて来た。

「危ない!」

 誰が叫んだのかは分からない。零だったような、広樹だったような。もしかしたら柏木だったかもしれない。ただ、その一声の後で、僕は反射的に前方へ飛び込み、足元で凄まじい衝撃音が鳴るのを聞いた。

 何が起こったのか即座に理解できなかった。

 振り返るとそこに壁ができていた。零たちの姿が消えていた。

 やがて飲み込めた、シャッター形式の防火扉が閉まったのだという現実。

 火事でもないのに、誤作動というにはあまりにタイミングが良く、トチツキの仕業であることは明白だった。

 僕と零たちとの間で無情に立ちはだかる防火シャッターという名の壁。防炎性能を重視するあまり重量が肥大し過ぎたその壁は、見ただけでそれを動かすのは不可能だと悟った。

「千奈、無事か⁉︎」

「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」

「絶対に僕の手を離すなよ!」

「えっ……チナ、もう繋いでないよ」

 その声は、確かにシャッターの向こう側から聞こえていた。

 それなら、今僕が握っているのは誰の手なんだろう。

 恐怖で固まってしまった体が隣を見ることを許さない。

 僕の手の中にある小さな掌が、強く握り返してくるのを感じた。


  4


 ——深呼吸。吸って、吐いて。吸って、吐いて。

 意を決して視界に入れた僕の手が握っていたものは、人間の手ではなかった。かと言って死者の手でもなかった。

 スマホだった。ポケットの中にあったはずの無機質な電子の箱を、いつの間にか掴んでいた。

「どうして……」

 無意識に言葉が洩れる。いつから僕はこれを持っていたのだろう。ポケットから取り出した記憶はない。今まで握っていた小さな手の感覚や、握り返してきた感覚はリアルだった。狐につままれたような気分、とでも言えばいいだろうか。

 これも怪奇現象のひとつなのか……。

『♪』

 この場にそぐわない滑稽な着信音と共に、手の中のスマホが震えた。その振動が、握り返してくる手の感覚と似てなくもなかった。

 指は画面に触れてすらいないのに、勝手に「LINE」のアプリが開かれる。

 僕は呆然とそれを眺めるしかなかった。

 予想通り。悲しいかな今や見慣れてしまった例のアカウントからのメッセージ。それがまた、届いていた。

【位置情報 常夜町四丁目7-7】

 地図はひとりでに開かれる。

 印が、画面上の青い丸と重なっていた。普段、位置情報の機能を使わない僕にも、その青い丸が自分の今いる場所だということは分かった。

 相手の位置を示す赤い旗と、自分を示す青い丸が、常夜中学校の真ん中で重なっていた。

 ——追い付かれた……。

 よりによって、僕がひとりぼっちになるのと同時に。

 カラカラカラ……キィー……

 体育館から、あの音が聞こえた。

 逃げ道を探して辺りを見回すが、防火シャッターで密室と化した渡り廊下には、十メートルほど先にある体育館へ続く扉以外は何も存在しなかった。僕の逃げ場を奪うように、備え付けられた窓すら、はめ殺しだった。

「はっ……はは」

 乾いた笑い声が洩れる。あまりの運の悪さに自分で笑ってしまった。

 やっぱり、運が悪いのは零じゃなくて僕だったみたいだ。

 カラカラカラ……キィー……

 音はさっきよりも近くで聞こえる。

 カラカラカラ……キィー……

 扉のすぐそこまで来た。

 ゆっくりと、扉が開かれる。

 もわっと、腐敗臭が流れ込んできた。

 顔の潰れた看護師が、そこに立っていた。

 ストレッチャーの上の物体が蠢き、白いシーツがぱさりと落ちる。

 剥き出しになったそれは原市の顔だった。

 彼女の生首が、にぃっと笑って僕を見た。排水管が詰まったような、ごぽっという音を立てて口から大量の血を溢れさせ、並びの悪い歯を真っ赤に染めた。そのせいで歯がなくなったように見えた。

 形は笑っているのに虚ろな瞳が、僕の視線と交わる。眼鏡の奥でその目は確かな声をあげた。

『お前のせいだ』

 声は僕の脳内に直接響いた。生前とは違う、吃ることもなく、はっきりとした声だった。

 体の震えが止まらない。恐ろしいのに、僕はその顔から目を離せずにいる。

「ち、違う……きみが柏木さんを閉じ込めたから……僕のせいじゃない!」

『お前のせいだ』

 その声を合図に、看護師はこちらに向かって歩き始めた。

「いやだ……やめろ、来るな!」

 僕も彼女と同じように首を切られるのだろうか。でも切断するような道具は見当たらないから、素手で頭を引きちぎられるのだろうか。

 ブドウの房から、一粒の果実をもぎ取るように……。

 いやだ。そんな死に方はあんまりだ。

 死にたくない。

 誰か、誰か助けてくれ。

 ぎゅっと目を瞑り、普段は信じたこともない神に祈る。

 お願いだから、助けてください!

 そのときだった。

 目の前が淡く光ったような気がした。その光は瞼を通って網膜に優しく届いた。

 ゆっくりと目を開く。

 そこに、小学生くらいの少年の背中があった。僕を守るように、仁王立ちで看護師と対峙していた。

 少年は首を少しだけ捻って振り返り、僕に言う。

「ゆうちゃん、助けに来たよ」

 その横顔に見覚えがあった。

 夢に見た、あの少年の顔だった。

 その瞬間。記憶の靄が晴れ、小学校低学年の頃の思い出が脳内にどっと流れ込んできた。


  5


「もーぅいーぃかい?」

 昼間の暖かな日差しの中、声は遠くから聞こえてくる。

「まーぁだだよー」

 僕は透に返事する。

 小学生の僕は、かつて仲が良かった透という名の少年と隠れん坊をしていた。

「もーぅいーぃかい?」

「もーぅいーぃよー」

 お互いにどこか似ているところがあった僕たちは、実の兄弟のように意気投合し、ほとんど毎日一緒に遊んでいた。

 近所の公園には遊具がなく、おまけにボール遊びは禁止で、一体何をして遊べばいいのかと訊きたくなるようなただの広場だった。樹木が疎らに林立するだけの空間で二人きりですることと言えば必然的に隠れん坊になることが多かった。

 その日も、いつものように透と遊んでいた。

「見ぃつけた」

 透はベンチの上から僕を見下ろす。裏に隠れていた僕は逆光気味の透の顔を仰いだ。

「うわっ、早いなぁ」

「これだけ毎日隠れん坊をしてたら、そりゃあね。隠れる場所だって限られてるし。どこにいるかなんて、すぐに分かるよ」

「あーあ、退屈だなぁ」

 僕らはベンチに腰を掛ける。透は窮屈そうなボロボロの靴を脱いだ。その靴は、透と知り合ってから一度も変わっていなかった。新しいの買ってもらわないのかな、と当時の僕は思った。

「ゆうちゃんの家に行こうよ。またゲームでもしよう」

「だめだめ。うち、最近妹が生まれたから。母さん、大変なんだ。トオルの家は?」

「だめだよ……絶対に、だめだ」

 透は体育座りで顔を埋める。その腕や足にはいくつもの青痣があった。

「……もう、嫌だ」

 くぐもった弱々しい声が、抱えられた膝の間から聞こえた。

「えっ?」

「ねえ、もし僕がいなくなったら、ゆうちゃん、見つけてくれる?」

 透は顔を上げ、不安げな瞳で問いかける。

「どうしたんだよ、いきなり」

「最近思うんだ……なんだか僕、どこか遠くへ行くような気がする……」

「なんだか分からないけど……見つけるよ」

「ほんと?」

「うん。どこにいても必ず見つけ出す。僕たちはこんなに隠れん坊をやってるんだ。トオルを見つけるのなんて簡単だよ」

「約束してくれる?」

 そう言って透は右手を差し出した。てっきり小指を突き立てて差し出すものだと思っていた僕は少し戸惑う。

「ふつう約束って指切りじゃないのか? それじゃあ握手だよ」

「だって、指切りげんまんって怖いじゃん。げんこつ万回に針千本飲ますなんて、ゆうちゃんとそんな約束したくないよ。だから、握手」

 透らしいや。そう思って笑ってしまう。それを見た透が膨れっ面をしたので僕はすぐに真剣な表情を作り、

「分かった。約束する」

 彼の手を、ぎゅっと握った。

「嬉しいなぁ……ゆうちゃん、しんゆうって言葉知ってる?」

「毎日一緒に遊ぶ友達のこと?」

「違うよ。一番大切な友達。一生の友達のことだよ。僕にとってのしんゆうは、ゆうちゃんだ」

 そんな言葉を交わした数日後、透は、彼の母親と共に行方不明になったのだ。


 ある日を境に学校へ来なくなった。

 それまでは、学期末に必ず皆勤賞のちゃちな賞状を貰っていた透が、二日、三日と続けて欠席した。

 最初、風邪かなと思っていた僕は、担任から直接「仲のいい小田切なら、何か知らないか?」と訊かれ、初めて無断欠席であることを知った。

 電話や家庭訪問はしたらしいがどちらも反応はなく、捜索願いを出すことのできない学校はそれ以上の処置を講じなかった。

 どこか遠くへ行ってしまうというのはこのことだったのか。僕は透との約束を果たすべく、彼を探し始めた。

 そして、透が学校に来なくなってから一週間後の黄昏時に、ようやく見つけた。

 近所の丘陵に獣道すらない雑木林があった。普段、人が入り込むことのないそこはそれなりに深かく、不気味なほどに木々が繁茂していた。その薄暗く奥まった場所に、僕は踏み込んだ。

 見るも無惨な光景が、そこにはあった。

 太めの枝に巻きつけられた二本のロープ。そこに吊り下げられていたのは、変わり果てた透たち親子だった。

 母親の頭は俯き、長い髪に隠れて顔は見えなかった。だが透の顔は、はっきりと目視できた。

 その顔はもう、僕の知っている透ではなかった。色の白かった肌は青紫色の風船の如く膨らみ、こぼれ落ちそうなほど飛び出た眼球が白く濁り虚空を見つめていた。口からは褐色の舌がだらりと垂れ、とても直視できる状態ではなかった。

 生前の面影などほとんどないのに、なぜか僕にはその死体が透であると一目で分かった。

 日常では嗅いだことのない、例えようのない強烈な悪臭が立ち込める。臭気が目に沁みるという経験は生まれて初めてだった。

 昔、海水浴に行った時に貝を拾って持ち帰ったことがあった。その貝の中にヤドカリが入っていたことを知ったのは、忘れ去られていたその貝を夏の終わりにズボンのポケットから発見した時だった。ポケットから取り出した時に香った、死んで腐ったヤドカリの臭い。強いて言えば、それに似ているような気がした。それを千倍に濃縮し、より生理的嫌悪感を増大させたような臭い。糞尿の臭いも混ざっている。

 気づいたら僕はその場で吐いていた。

 泣いているのか、叫んでいるのか、吐いているのか。自分でも分からないまま、だくだくと口から流し続けた。


 それからの記憶はない。

 おそらく自力で家に帰り、そのことを誰かに伝えたのだろう。意識がはっきりとしたのは自宅のベッドだった。

 後日。事情を訊きに来た刑事に透は母親の無理心中に巻き込まれて死んだと伝えられた。

 その数日間、鼻腔に染みついた死臭が取れなかった。


  6


 今の今まで、封印されていた記憶。

 それが数回の瞬きの間に、走馬灯のように脳内を駆け巡った。

「透!」

 彼は当時の姿のまま、あの日の、最期を迎えたときと同じ服装だった。首にはロープの巻き付いた痕が痛々しく残っている。でも、それ以外は生前の透と何ら変わらなかった。

「ゆうちゃんは僕との約束を守ってくれた。僕を見つけてくれた。だから僕も、ゆうちゃんがどこにいても見つける。どこにいたって、助けるよ」

 そう言うと透は潰れた顔の看護師に突進していった。

「えいっ!」

 思い切りストレッチャーにぶつかる。

 原市の頭が重たい音を立てて床に落ち、ボーリング玉のように転がって体育館の中へと消えた。看護師は押されたストレッチャーに腹をめり込ませ、体をくの字に曲げながら潰れた顔で透を睨む。

 透はそれを気にも留めず、ストレッチャーを掴んで看護師を壁に押し付けた。

「ゆうちゃん、今のうちに逃げて!」

「でも、透は⁉︎」

「後からすぐ行くよ」

「……分かった!」

 僕は駆け出す。執念深く手を伸ばしてくる看護師の横をすり抜け、体育館へ飛び込んだ。


  7


 体育館の二階部分。壁に沿って館内をぐるりと一周するように造られた細い通路。

 前の学校にもあったが、この空間はなんのために存在するのだろう。窓とカーテンの開け閉め以外は、卓球部のピンポン球やバトミントン部のシャトルが乗っかってしまう邪魔なスペースだ。もっとも、今はピンポン球やシャトルではなく、原市の頭が転がっているのだが。

 長い髪を散らばらせ、その隙間から見えるひび割れた眼鏡越しの双眸が、虚ろに宙を見つめていた。

 彼女はもう語りかけてくることはなかった。ただの肉の塊と化し、物体として静かにそこに佇んでいる。

 やりきれなくて、心の中で冥福を祈った。

 下の階へ続く階段を見つけ、壁を伝いながら急な段差を下りて行く。短い階段は体育館正面入り口の下足場に通じていた。

 僕はスリッパのまま、緑や白のラインテープが散りばめられたフローリングに足を踏み入れる。しんとした静寂が支配する館内に、パタッ、と足音がひとつ、響いた。

 前方の壇上に置かれた演台から、ひょこっと顔が覗く。

「由梨……!」

 やっと。やっと、見つけた。

 僕はスリッパを脱ぎ飛ばし、裸足で走り出す。張りつめていた緊張の糸が切れ、体の芯がじんと温かくなる。その熱は目頭にまで達し、涙を零した。

「あっ、ゆうにい。あのねぇ、今隠れん坊してるの。だからシーだよ。さっきすごい音したねぇ。なんだったん——」

 由梨が言い切るより先に、勢いのまま壇上に飛び乗り、抱きしめた。

「サイレンのことだろう。あれなぁ、帰ったらゆっくり説明してやるからな……」

「ゆうにい、なんだかお腹がカピカピしてるよ」

 それな、千奈の鼻水だよ。とは言えない。

 僕はなんだか愉快になって笑った。泣きながら笑ったのなんて初めてだ。

「ゆうちゃん、妹と会えたみたいだね」

 振り返ると、透が立っていた。

「透……なんてお礼を言えばいいのか……本当に、ありがとう」

 僕がそう言うと、透は照れ臭そうに微笑んだ。昔、僕のことを親友だと言ってくれたときも同じ顔をしていた。

「いいんだよぅ。久しぶりに会えて嬉しいよ。ゆうちゃん」

「僕もだよ。実は、透に謝りたいことがあるんだ」

「えっ、なになに?」

「僕たちはあんなにいつも一緒に遊んでいたのに、透がお母さんから虐待を受けていたことに気づけなかった。何もしてあげられなかった。助けられなかった」

 息絶えた透の姿を見てしまったショックだけではない。その罪の意識が、今日まで記憶を封印していたのだ。

「ゆうちゃんは何も悪くないよ。罪の意識なんて、感じることない。僕は感謝してるんだ。暗くて、冷たくて、寂しい森の中で、僕を見つけてくれて」

「でも、まだ命のあるうちに見つけてあげたかった……」

 物寂しい空気が二人の間を通り抜けた。透はそれを振り払うように明るい表情を作る。

「この町はすごいね。意識がはっきりするし、生きていた時と同じように動ける」

 それから透は、どこか懐かしむような口調で語り出した。

「死んでから、ずっと一人でいたんだ。真っ暗で、何もない場所に。そこでは何も感じないんだ。音も、匂いも、温度も。『無』って言葉があるじゃない? そんな感じ。これぞ無って感じの世界なの」

「死後の世界か……」

「でも、声がしたんだ。小さくて何を言ってるのかは分からないけど、ゆうちゃんの声だった。それがその世界で唯一の音。ゆうちゃんの声がする方へ、進んでいるのかも分からずに足掻いていたら、今度は小さな光が現れて、ゆうちゃんとは違う声がしたんだ」

 透は軽く咳払いをして、声色を変える。

「この地に蔓延る人間を殲滅する誓いを立てる者は沈黙を保って応えよ……ってね。だから僕は言ったんだ。嫌ですって。言葉の意味は分からなかったけど、なんとなく嫌な感じの声だったから。そしたら何の音も聞こえなくなって、すごく眩しい光に包まれた。で、気づいたら僕はこの町の駅の前に立っていた」

 その言葉で、僕のスマホが受信した最初の位置情報に思い当たる。

「駅の前……まさか、LINEのメッセージは、透だったの?」

「僕すごいんだよぉ。機械が発する電波の中に、意識を入り込ませることができるんだ。だからゆうちゃんに、今ここにいるよって合図をしたの。それを受信したゆうちゃんの携帯の電波を感じて、ゆうちゃんのいる場所が分かったんだ」

「そうだったのか……」

 零が教えてくれた怪談。見知らぬ人からのメールは死者からの知らせ。

 僕が怯えていたそれは、透からの知らせだったのだ。死者という言葉から不吉なものしか想像できなかったが、必ずしも全ての死者が不吉という訳ではないのだ。

 親愛なる死者もいる。

「もうすぐ大禍時が終わる。次の大禍時まで、死者は生者に触れられなくなるんだ。その前に、ゆうちゃん。握手しようよ」

 小さな右手が差し出された。話し方や表情が当時の透よりもなんとなく大人びているように思えた。少しずつこの世に順応しているのだろうか。

「ああ」

 僕は透の手を握る。氷のように、冷たかった。

「ゆうちゃん。ずっと友達だよ」

「うん……いや、親友だろ」

「へへっ……ありがとう」

 体育館に一条の光が差し込んだ。

 窓の外を見ると、強烈な西日が雲の切れ間から眩く僕たちを照らしていた。光は鮮やかな色彩をもたらし、色褪せた世界を徐々に生き返らせていく。

 ノスタルジックなオレンジ色の中で、僕らは確かに小学生だった。あの日と同じように。

 それは、ほんの短い時間だった。

 手の中にあった感触が、ふっと消える。

 透は目の前にいるのに、確かにそこに存在するのに、もう触れることはできなくなっていた。まるで霧を掴もうとするように、透の手は実態がなかった。

 僕が狼狽えていると、

「大禍時が終わったんだよ」

 少し寂しそうに、透は言った。


  8


「悠!」

「お兄ちゃん!」

 正面入り口が開扉され、見慣れた顔がぞろぞろと入って来る。零たちは僕がひとりぼっちでないことを認識して安堵の表情を見せた。

「悠、無事か。それに由梨ちゃんも」

「うん。親友のおかげで助かった」

 横目で透を見ると、彼はまた照れ臭そうな顔をして頭の後ろを掻いた。

「見ない顔だな……小学生、か?」

 誰も透のことを死者だとは思っていないようだ。それも無理はない。首に巻きついた紐の痕以外は、生きている人間と何も変わらないのだから。

 零たちは泥だらけの上履きやらスリッパやらを脱ぎ、素足でこちらに歩み寄る。

「どうしても防火シャッターを動かせなくて、体育館の正面入り口に回るために一度校舎から出たんだ。そのせいで少し時間がかかっちまった。ごめん、悠」

「でも悠くん、無事で本当に良かった。大禍時に一人でいたのに、悠くんも由梨ちゃんも無事なんて、奇跡だよ」

「お兄ちゃん、ユリを見つけてくれてありがとう」

「お礼なら透に言ってくれ。僕を助けてくれたのも、たぶん由梨が無事でいられたのも、全部透のおかげなんだ」

「その子は一体何者なんだ?」

 零が訊く。さて、どう答えたものか。簡潔な説明が思いつかない。乏しい語彙を脳裏に探っていると、透が僕の正面へ動いた。そしてまっすぐ僕の目を見据え、

「やっぱり、今は生きてる友達と一緒の方がいいよね……またね、ゆうちゃん」

「そんなことないよ!」

 僕は心から叫んだ。

 しかし、透は消え始めた。比喩ではない。彼の体が半透明になりつつあるのだ。空気に溶けていくように、姿形が失われていく。彼の体を通して、向こう側に立つ零たちの目を丸くした顔が見えた。

 生者と死者の間に隔たりを感じているのだろうか。透は馬鹿みたいに優しい奴なんだ。きっと僕に気を遣っているのだろう。御門違いも、甚だしい。

 僕は口を開く。が、その口が固まった。

 迷いが生まれたのだ。

 僕は透に何を言えばいいのだろうか。生者が、死者にかけてあげられる言葉は。有り余る寿命をひけらかして、すでに未来を失った彼に何を言える?

 何も思いつかない。でも、このまま黙っていたら透はもう二度と僕の前に現れなくなってしまうような、そんな気がした。

 何か、何か言わなきゃ。

 僕は思いつくままに、言葉を発する。

「透! また……また隠れん坊でもしよう。毎年、八月に待ってるから!」

「……ありがとう……」

 その一言を残し、透は完全に消え去った。

 透にかけた言葉が正しいものだったのかどうか、僕には分からない。

 ただ、後には正面扉から流れ込む爽やかな夏の空気だけが、体育館を満たしていた。


  9


「死んでもずっと友達なんて、なんか素敵よね」

 暮れなずむ職員室で柏木のしんみりとした声がぽつりと呟いた。

 生暖かく穏やかな風がカーテンを揺らす。外ではヒグラシの切なげな声が響いている。

 カナカナ、カナカナカナカナ……。

「死者が生者を助けることがあるなんて」

 考えられない、という風に零が首を振る。西日に照らされて金色に輝く白髪がサラサラと揺れた。

「図書室の司書さんも、夫の霊に守られていたのかな」

「さあな……でも、そうだったらいいな」

 希望を込めた口調で零は応えた。

 由梨が窓の外を見て、あっ、と声を上げる。見ると、制服姿の警察官らと共に母さんの姿があった。

 今朝、熱中症に気をつけなさいねと言って僕らを送り出したときより、何倍も心配そうな面持ちで足早に向かって来る。

 なんだか久しぶりに母さんの顔を見たような気がして自然と安堵の息が漏れた。

「迎えが来たから、僕たちは先に帰るよ」

「ああ。気をつけて帰れよ」

「うん」

 僕たちは向き合い、真っ直ぐな視線を交わす。

 右手を差し出すと、零は微笑み、力強く握った。言葉はいらなかった。

 僕には二人の親友がいる。一人は生者で、もう一人は死者だ。

 でも、二人は何も違わない。僕の親友だ。

「こんな町、もう引っ越すか?」

 零が訊く。

 答えは決まっていた。

 暑い夏の日、公園で隠れん坊をする幼い親友の姿を想いながら、僕は言う。

「もう少し、ここで生きてみるよ」


  了

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曇天の、常夜町より 阿呆論 @tksm

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