死にぞこないの傭兵と仮面の医者。あるいはさよならまでの魔法

@bontaname

第1話 リカバリー

 肉屋の前で絶叫を上げながらくたばる豚の頭にたまらず反吐をぶちまける夢を見ていた。

 目を覚ましてもさして変わらない光景だった。

 ぼんやりとした灯りがたわんだ壁を照らしている。

 そこで自分が寝ている場所が天幕であると知る。じりじりと黒いものをくゆらしながら燃える獣脂は蝋燭に比べればたいそうな悪臭であるはずだが、この場においてはただ少し目に障るといった程度のものでしかない。

 血の臭い、脂の臭い、膿の臭い、反吐の臭い、糞便の臭い。鼻から入ってくるものだけでうんざりとした気分になるが、かてて加えて耳には痛みに耐えるかのようなうめき声と痛みに耐えかねたような叫び声が混じりあって飛び込んでくる。ただそのいずれも馴染み深いものであり、不愉快ではあったが我慢できないというほどのこともなかった。

 身を起こし、ぐるりと見回せば天幕の中には自分以外にも四、五人が寝かされているようだった。掛布をかぶっているためそれぞれがどのような状態であるかはうかがい知れなかった。

 しかし全員が小さくはない傷を負っていることは鼻と耳から届くもので想像がついた。それでも天幕に寝かせるのならば処置は済んでいるし、助かる見込みもあるということなのだろう。そうでなければとっくにによって苦しみとは縁遠くなっているはずだ。

 はたと気付く。

 ここに横たえられているということは、自分も怪我を負ったはずだ。

 ――思い出す

 銃! 

 そうだ、あの

 東方から伝わってきたという風変わりな武器。噂では大きな音と火の粉をまき散らし精々が威嚇か(騎兵の密集した場所で使われればそれはそれで効果はあるだろうが)、でなければ号令の足しになる程度と聞いていた。

 それがどうだ。

 幾つかの小さな光の瞬き、一拍あってからの轟音。弓も届かぬような距離でばたばたと死んだ。自分の真横で頭蓋の中身を気前よく晒す死体を見て、背筋が凍った。

 頭のどこか冷めた部分が飛礫つぶての類であろうと推測を立てた。子供が遊びの狩りで使う弾弓の玉が鳥などの小さな獲物に当たるとまれにあのように肉も骨もひしゃげて散る。光と音の正体は知れなかったが、恐らくはそのような仕組みの何かだ。ただし威力が桁違いの。

 兎にも角にも身を隠さねばと、咄嗟に盾を構えた。革張りではあるが筋金を裏打ちしてありこの距離であれば弩弓であってもたやすくは撃ち抜けないはずだった。

 再び轟音。

 右腕の付け根に湯玉のような熱さ 衝撃 急転した視界が映す空の青 それを染め上げるような飛散した赤――

 そこで記憶は途切れており、目が覚めたらここにいた。

 右肩に手をやり、そっとさする。

 鈍い痛みが右腕を走った。

 それは予想との奇妙な齟齬。

 確かにここをはずだ。あの飛礫のようなものは悠々と盾を貫いて、自分を抉ったのだ。間違ってもこの程度の痛みで済むはずがなかった。

不気味だった。

 ここに自分を運び込んだ誰かが着せたのであろう綿の肌着にも血や膿の染みは無い。

 恐る恐る今度は肩を回す。包帯も巻かれていないこと気付いた。やはり鈍い痛みがあったが、問題なく動く。 

 (どういう事だ……?)

 「ああ、まだ動かさないほうがいい。熱が出ますよ」

 疑念が頭をよぎったのとほぼ同時に声がかかる。

 外から誰かが入ってきたようだった。

 捲られた天幕の入り口から夜気が流れ込んでくる。こもった天幕の空気に比べ、それはずいぶんと上等に感じられた。

 「その様子だと上手くくっついたようですね。なによりだ。食欲は? 食べられるようならスープの用意があります。喉が渇いているならば白湯を。エールはいけません。生水も。身体が冷えますし、腹を下す恐れがある。落ち着いたら傷口を診ましょう」

 くぐもった声でまくしたてる男の風貌は控えめに言って異様なものだった。

 烏を連想させる嘴のついた面に庇のやたら大きい帽子、厚布で作られた長衣に顎下までを覆う鞣革の合羽ケープを重ね、鋲紐付きの長靴で固めた足と皮手袋を嵌めた両手を含めて肌を晒している部分が見当たらなかった。よく見れば面の覗き穴にも硝子の丸板がはめ込んであるという念の入れようである。

 それらすべてが黒を基調にしているため、まるで死神のような出で立ちに見える。右手に何の変哲もない大きな編み籠バスケットを携えていたが、それがかえって異様に見えるほどだった。

 「あー……」

 言い淀む。

 なにから口にしたものか。

 自分はここがどこかもまだわかってはいないのだ。

 「あんた誰だ?」

 とりあえずの危険はなさそうだが、怪しいことに変わりはない。

 「私はクラヴァスと申します」

 雨粒のようなぴしゃりとした調子で烏面の男はそれだけを言った。

 「ああ、そう、俺は、ティグレってんだけども」

 ――そういうことを聞いたんじゃない

 つられて名乗りながら、聞き方が悪かったのかとも思ったその途端。

 「本名ではありません。職業上の便宜的な名前です。さきほど私の姿を見て少々驚いた様子でしたが、無理もありませんね。病、そう病魔は真の名を組み立てる音節からも露出した肌からも侵入するのです。ですから名を隠し、姿を覆う。わかりますね? そしてあなたは怪我をしている。周りに寝ている方々も同様に。傷というのは世間で思われているよりもずっと病と関りがある。皮膚とは一種結界のような作用があるわけですね。その不可思議。を――これでは正確に全体を表現できていませんが――施療を通してを調べるのです。施療を行うことは重要な仕事ではありますが、患者の快復は我々にとって目的のすべてではないということです。大切なのはその記録。日付と天気を記すところから始まり、名前を、性別を、年齢を、人種を、体格を、職業を、どのような状況でどのような箇所がどのように損なわれ、どのような処置がどのような場所で行われ結果なったのかを記録するのが私という個人の『誰か』という問いへの返答です」

 怒涛のように喋りだす。しかも長々と語るわりにわかりにくかった。

 「つまり、医者か」

 なんとか要点を搔い摘んでみる。

 「広義の意味においてはその通りです」

 またも宣言するような口調でクラヴァスは言う。仮面越しに深く息を吸う様子が見て取れた。

 「まあその格好で普段は床屋ですって言われてもな」

 遮るように声を発する。まだまだ聞きたいことはあるのだ。万事がこの調子ではたまったものではない(医者を兼業する床屋は多い。聖経連座カテドラルの決め事で僧侶は定期的に剃髪と瀉血をしなければならないのだが、そのどちらも剃刀を使うのだからいっそまとめてやってしまえということらしい)。

 「調髪はやったことがありません」

 ふん、と一息つきながら言う。別段気を悪くした様子もなく、ただ吸い込み過ぎた息を吐いたということらしい。

 そうしてからふと気付いたように手にした籠を下に置き、懐をまさぐって矢立と羊皮紙を綴った帳面を取り出すと、さらさらと何事か書き付けた。

 「ティグレ……、『ティグレ』。失礼ですがこれは本名ですか? それと出身地と年齢も教えていただけますと幸いです」

 「衛兵みてえなことをしやがるね。あとで税を払えと言う気じゃないだろうな?」

 何を唐突に始めるのかと少し驚いたティグレは誤魔化すようにつまらない冗談を投げる。

 「まさか。この記録そのものに金銭ではあがなえない価値があるのです」

 クラヴァスは至って真面目な口調で返してきた。

 しかしそれこそ冗談に聞こえる。長いこと戦場の消耗品として扱われてきたティグレからすれば十把一絡げの傭兵の出自を気にするなどというのは粉になる前の麦一粒を有難がるのと同じくらいの莫迦げた行為に見えた。どう考えてもお尋ね者の人相書きくらいしか使い道が浮かばない。

 「歳は三十かそこらだ。生まれは北のどっか山間の村。餓鬼の時分に飛び出してきたからどっちもよく覚えてねえよ」

 それでも一応は答えてやる。別に自分に損はないと踏んだからだ。

 「名前は、まあ渾名みたいなもんだが本当の名前ってのももう忘れちまっててね」

 嘘だった。村にいたころのティグレに名は無かった。「おい」とか「それ」で事足りる、そのような境遇だっただけだ。だがそこまで教える必要もないだろう。

 ふむふむと頷きながら聞いた内容を書き記すクラヴァス。手慣れた様子から、ずいぶんと読み書きが達者であることが窺えた。

 書き終えた帳面に墨で汚れた薄布を挟んでから閉じると、再び懐へとしまう。

 「ありがとうございます。それで、どうなされますか」

 「ん?」

 「空腹であればスープを、喉が渇いていれば白湯を差し上げます」

 そういえば入ってきた時にそんなことを言っていた。

 「じゃあ両方頼む」

 改めて言われてみれば、腹も減っていたし喉も渇いていた。

 クラヴァスは頷くと編み籠の中からまず白湯の入った革袋を手渡してきた。

 栓を外し、喉を潤す。革の臭いも気にならないほど美味く感じた。白湯はまだ十分に熱さを残していたため、一口ずつ含むように飲んだ。

 ゆっくりとティグレが渇きを癒す間に、クラヴァスは籠から続けて木匙と椀、そして素焼きの薬缶を取り出した。

 大ぶりの薬缶から椀に薄黄色のどろどろとしたスープを注ぐ。

 「なんだいそりゃ」

 てっきり塩漬け肉を茹でた汁(そして少量の茹で戻されてもなお固く塩辛い肉)だと思っていたティグレは思わず尋ねる。

 「すり潰した黍と玉葱に乾酪といくつかの香草を加え煮込んであります。滋養がありますよ」

 渡された椀の匂いを嗅いでみるが、周囲の悪臭でよくわからない。

 一口すする。

 「へえ、美味いな」

 素直にそう思った。

 行軍中に口にする日持ちと腹持ちのことしか考えられていない保存食に比べればずいぶんとまともな味がする。ほとんど噛む必要もなく胃にするすると落ちていくが、黍のおかげか腹に溜まる適度な食べ応えがあるのもよかった。

 「それは良かった。食べることも大事な治療ですから、しっかりと召し上がってください」

 「できればもう少し空気のいい場所で食いたかったがね」

 そう返しながら、椀の中身を片付けていく。

 それを満足げに(といっても仮面で表情はわからなかったが)見やってから、クラヴァスはさらに編み籠をごそごそと探る。

 「次は菓子でもくれるのかい?」

 「残念ながらそれは持ち合わせておりません。他の方々の様子も見なければなりませんので、その準備です。ティグレさんはどうぞ食事を」

 言いながらクラヴァスは敷布を取り出し足元に広げた。その上に手拭やら薬壺らしきものを置いてゆく。そうしてから天幕の隅に歩み寄ってそこに置かれていた水桶を二つ手に取り、それも敷布の横に並べた。

 桶の一方には水がたたえられている。もう片方は空っぽだったが、こびりついたものから汚物を放り込んでおくための用途と知れた。

 それで準備は終わったようでクラヴァスは手袋を外すと屈みこんで手拭を水に浸した。

 ティグレ以外に喋れるほど意識のはっきりとしているものはいないようで、声を掛けることもなく抱き起すと手早く汗を拭き、汚物を片付け、身体を清めていく。必要であれば掛布も換えてやるようだった(これもやはり天幕の隅に積んであった)。手拭は汚れれば都度新しいものに交換している。ずいぶんと豪勢だと思った。

 そんな風に見るともなしに見ていると、妙なことに気が付く。

 誰も包帯を巻いていないのだ。

 小さな灯火が頼りなく作り出す薄明かりでははっきりとはわからなかったが、汗を拭くために捲られた衣服の下の肉体はどれもに見えた。

 深く息を吸う。

 やはり天幕の中は屠殺場もかくやとばかりの血腥ささで充ちている。なのに、傷を負っているものが

 なにやら薄ら寒いものが背筋を駆けた。

 視線を己の右肩へと移す。

 目が覚めた直後に生じた我が身への疑問。

 恐る恐る、しかし半ば答えを確信しながら襟をつまみ肩口を見やる。

 やはり傷は無い。

 ――否。傷ものが有る、という方が正確であるのかもしれなかった。先ほど痛みがあった場所が穴の開いた布を無理やり縫い合わせたかのように引き攣れていた。大きさは子供の掌ほどだろうか。決して小さくはない。縮れた皮膚は鮮やかな桃色で、その内側が充分に癒合していることを窺わせた。

 わけがわからなかった。

 傷を負い、意識を失い、目覚めたらその傷は治っていた。そういうことになる。

 そんなに長い時間眠っていたのか? まずそう考え、すぐに打ち消す。

 今しがた食事に使った椀と匙。

 仮に傷が癒える程に眠っていたのだとすれば、これらを尋常に扱えるはずはなかった。肉体は動かし続けなければたやすく鈍重になるということは経験からよく知っていた。

 ではどういうことか。

 考えたところでわかるはずもない。それはティグレの持つ常識の埒外の出来事に違いなかった。

 「なあ、先生よ」

 手っ取り早く聞いてみることにした。すぐに答えの出ない事柄を考え続ける趣味は持ち合わせていない。

 「私ですか?」

 答えたクラヴァスは薬壺からなにやら黒い蜜液のようなものを匙で掬い、これも手際よく男たちに飲ませている最中だった。

 「あんた以外に誰がいるよ。ちょっと聞きたいことがあるんだがね」

 「肩の傷についてでしたら少々お待ちを。まだ処置が終わっておりませんので。その傷を作った武器のことや現在の戦況がどうであるか、というような事であれば申し訳ありませんがわかりかねます」

 「そうかい。じゃあ待つよ」

 少々、と言われたが実際にはだいぶ待つことになった。

 クラヴァスが再び帳面を取り出し、書き物を始めたからである。

 待つ間に天幕の中は徐々に静かになっていった。苦し気な声は消え、聞こえてくるのは穏やかな寝息ばかりになる。先ほどの薬壺に収められていたのは痛み止めか眠り薬か、そのようなものだったのだろう。 墨壺と帳面の間に筆を何度も行き来させ、さらには書き終えた内容を吟味するようにじっくりと読み直してからようやくに帳面を閉じた。

 「お待たせいたしました。ではまず上を脱いでください」

 「いや、別に具合を診て欲しいわけじゃないんだが……」

 「その方が説明をしやすいのです。もちろん私にも必要なことではあるのですが」

 手に持ったままの帳面をぽんと叩きながら言った。

 仕方なしに大人しく上着を脱ぐ。

 露わになった上半身には無数の傷が刻まれていた。切り傷、刺し傷、擦り傷、火傷に矢傷、それ以外のなんでついたかも覚えていないような小さな傷。半生を戦場で、それ以前の半分を家畜小屋で過ごした結果レコード。傷にまみれる不運を嘆くべきか、それでもなお生き残る悪運を喜ぶべきかは常に悩ましい。

 「さて、こいつはどういう事だい先生? 俺もこの稼業は長いがね、身体に痕が残るような傷がちょいと眠ってたら治っちまったのは初めてだ」

 ひと際大きく、そしてもっとも新しい傷跡を顎で指し示す。

 「ティグレさんは癒しの手ヒールというのをご存知でしょうか?」

 仔細ありげに傷跡に顔を近づけながらクラヴァスは問いに問いで返した。

 「また唐突だな。あれだろ、説法師どもが客寄せにやる手品。膏薬売りの親戚みたいな」

 辻説法でよく見かけるだ。大抵は説教の前座にやるもので、聴衆のちょっとした怪我だの捻挫だのを治してみせる。『これぞ聖座におわす御方より賜りし御業也』とやればお題目の有難みも増すといった次第だ。

 しかしそれが自分の質問となんの関係があるのかわからなかった。

 「手品ですか……、確かにそう見えますね。うん、そう考えるのが自然かもしれません。では、そのタネは?」

 「いや、そこまでは知らんが。ただの水を飲んで怪我が治るわけはない。なにか仕掛けがあるに決まってる。まあ大方のとこ客に仕込みがいるとか、そんなところだろ」

 膏薬売りの親戚と言ったのは癒し手が治療――もちろん大したことはしない。手をかざすか、ちょっと凝ったところで按摩の真似事だ――を始める前に必ず飲ませるその「水」のことだ。どこぞの聖地で採水した(そうでなければ聖堂で有難い経文を聴かせて清めただのなんだのと、とりあえず文言をつける)聖なる水であると言ってそれを飲ませる。切り傷であれば一杯、打ち身であれば二杯。飲むほどにどのような重い病も怪我もたちどころに快癒する、と。水はその場で売るわけではなく、寺院に来ていただければ幾ばくかの喜捨で授けましょうというのがそこらの物売りと違うところだが、熱心な信徒を得ることが目的であると考えれば筋が通る。要するに騙されやすい人間の選別だ。

 「そもそも本当に奇跡の御業とやらが使えるなら戦場ここでやればいい。誰だっててめぇの命には一等高い値段をつけるぜ? 喜捨も山ほど集まるさ」

 陣僧と呼ばれる連中がいるにはいたが、戦死者への供養の経文を唱えるのが彼らの仕事であり、どこの戦場でも怪我人の治療をしている姿などは見たことがない。

 「それです」

 「どれだよ」

 「戦場でやればいい、正しくその通り。それが答えです」

 その言葉にティグレは耳を疑った。それではまるで――

 「まるで俺の肩をで治しましたって聞こえるんだが」

 「はい、そのような意味としてお答えしています。ティグレさんの取れかけた右腕は。仕組みは癒しの手とまったく根を同一にするものではありますが、記述上の分類のため我々はこれを回復魔法リカバリーと呼称しております。私は僧籍も熱心な信仰心も持ちませんので」

 塞がった傷跡さえなければ一笑に付した妄言だったろう。

 それでもまだなにか担がれているのではないかという懇願に似た期待を込めてティグレは問う。

 「ちょっと待ってくれ。それじゃああんたは本当にタネも仕掛けもなくそんなおとぎ話めいたことができるってのか? 悪いが飲んだくれの与太でももう少し気が利いてるぜ」

 「いえ、もちろんタネはありますよ。ただ手品や詐術のそれとは違う、というだけの話です。聖座教の法師たちが言うところの『聖水』に含まれる成分—―これを我々は魔素マナと呼びますが――、それが傷を癒す作用を持つということですね」

 喋りながらクラヴァスは籠から小刀と先ほどの薬壺とは違う容器を取り出す。高価な透硝子で作られたその瓶の中には透明な液体が入っていた。

 「これがその魔素が含まれている水です。ひとつ、お見せしましょう」

 言うや否や小刀の刃を自らの掌に滑らせた。当然の帰結として肌がぱっくりと裂け、じわりと血が滲む。そうしてからよく見ていろとばかりに傷口をティグレの目の前に差し出し、瓶の中身を一口含む。

 魔法などと言っていたわりには大仰な動作やを唱えるようなことはせず、クラヴァスは曝した傷口を仮面越しに睨めつけただけだった。

 ただそれだけのことで、目に見えて明らかな変化が生じる。

 傷口から血ではない透明な液体が染み出し、内部から肉が盛り上がり、すぐにそれが平らに均され、薄桃色の新たな皮膚が現れた。

 わずかに数秒。瞬きを一度か二度する間に、傷は完全に塞がっていた。

 濡らした手拭でまだ乾き始めてもいない血をふき取れば、そこに傷があったことさえわからないほどだった。

 「このような次第です」

 目の前で起こったことは明らかに常軌を逸していた。だが、こうも事も無げに成されると逆にそういうものかと納得してしまいそうにもなる。

 「……確かに、手品とは違うみたいだな」

 ティグレはようやくにそれだけを言った。

 「はい。ティグレさんの傷は大きすぎたので綺麗に元通りとはいきませんでしたが、これと同じようにして治しました」

 どことなく嬉しそうな調子のクラヴァス。

 「まあ、見たからにとりあえずはそれを信じるとして、だ。それこそなんで坊主どもはそれをやらないのかってのがわからねえんだが」

 当然のようにいまだ納得しかねる気分は消えない。混乱しそうな頭を落ち着けようと、とりあえず浮かんだ疑問をぶつける。

 実際、こんな便利なものがあるなら使わない手はないだろう。戦場で厄介なものは山ほどあるが、怪我人というのが占める割合はその中でも大きい。

 「もちろん不都合があるからですね。だから彼らは。できるできないで言えば、彼らにも可能ですよ」

 その物言いに嫌な予感がした。

 「不都合ね。でもそれはあんたにとっての不都合じゃない、と」

 試すような口調で訊く。

 「ええ、。回復魔法は全知全能なる存在が為したる奇跡などではなく、未だ窮め尽くされぬ人の技に過ぎない。それが彼らにとっての不都合というわけです。簡単に言えば重傷であればあるほど失敗しやすく、加えて副作用――意図せぬ結果、とでもご理解ください――が生じやすくなるのです」

 韜晦する素振りもなく答える。金看板を背負ってをやる以上、不手際をやらかすわけにはいかない。成程、筋は通っていた。

 「しくじっても構いやしねえってんなら、何処でだってどんな怪我にだって使えるってわけだ」

 「そういうことになりますね。ですが直近の死を少しでも遠ざける手段であれば、私はそれがどのようなものであろうと使うことに躊躇いはありません」

 拾った金で博打を打つようなもんだな、と底意地の悪いことを思いかけたがそれでも勝てば落とし主に金は返そうというのだから誠実と言えなくもない。

 「ま、俺は運が悪い連中の中じゃマシな方だったってことか」

 元々傭兵などという職業そのものが他人の博打に自分の命を張るようなものだ。怪しげな術をかけられたのだとしても命があるだけ良しとすべきだろう。

 しかしその言葉にクラヴァスは首を横に振った。

 「ここに寝ている方々の中で最も重傷だったのがティグレさんです。ですが貴方が誰よりも早く目覚め怪我もちゃんと治っている。これを運の良し悪しと断ずるにはいささか私の経験とそぐわない。申し上げた通り、傷が重いほどに失敗する割合は高くなるのです。有体に言って興味深い。その体中の傷も命を落としていて不思議でないものがいくつもある。私の知るべきへの示唆がそこに含まれている気がするのです」

 こちらが聞いたことに対してどれもこれも素直に答えることにかすかな疑念があったが、合点がいった。つまり件の帳面の紙幅を存分に割くべき珍しい標本には下手にあれこれ隠すよりもつまびらかにした方が話を聞く上で都合がいいということだろう。

 「確かに怪我でどっかいかれちまったってのは今まで無いがね、別に俺はそんなに大したもんじゃねえよ? 試したことはないが首か心の臓でも突けば普通に死ぬさ」

 「いえ、それだからこそなのです。傍目からわかる特異性であるならば、とっくの昔に誰かが見つけているのが道理というものでしょう。実は回復魔法の副作用というのは熱病や攣り笑いロックジョーといった病が主なのです。傷を直ちに塞げば病魔の瘴気が人体に忍び入る隙もなくなるにも関わらず、です」

 攣り笑いと聞いて思わず背筋が冷たくなった。別に戦場に限らずありふれた病気ではある。犬に噛まれたり尖った石を踏んだりしても罹ることがあると聞く。だがありふれているからと言って侮っていいというものでもなかった。この病に侵されると引き攣った口が歯をむき出して笑っているように見えることからそう呼ばれるが、症状が進めば全身が強張り身体が意に反し弓のように反り返る。そうなればまず命はないと言われていた。

 「なるほど、坊主どもがやりたがらねぇわけだ」

 「ですから、私はそれを克服したいと願うのです。物事には必ず因果がある。人が病に侵されるならば、絶対にその原因がある。それを突き止めれば回復魔法の用途は今とは比べ物にならないほどに大きく拡がるでしょう」

 「そりゃご立派な志だことで。ま、命を助けてもらった恩もある。剣が振れるようになるまでなら付き合うぜ。それ以上は俺も仕事があるんでな」

 それを聞いたクラヴァスは仮面越しにもわかるほど喜色を露わにした。

 「ありがとうございます。それで充分です」

 「だがまあ、今日はこの辺で勘弁しちゃくれないか? 飯を食ったらまた眠くなってきたんでね」

 「ああ、それは気付きませんで申し訳ありません。傷はくっついてはいますがまだ無理は禁物ですからね。ゆっくりとお休みください」

 もちろん面倒なので逃げ出すつもりだった。雇い主からの報酬も受け取れず安物とはいえ商売道具も失っては赤字もいいところだったが、ねぐらに帰れば幾ばくかの蓄えはある。銃で狙われるのも変な医者に絡まれるのも二度目は御免だ。

 


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