第323話
「そんな……ティア…………」
しばらく痙攣し、動かなくなった偽物の身体を、呆然としながら手放すエリック。
本物の娘が今ここにいないと見抜けなかった己への大きな失望、知らなかったとはいえ、他の人々に危険因子を持ち込んでいた自責、そして本物の娘はいまどこにいるのかという心が張り裂けてしまいそうな程の不安。
リアナと共にその目はうつろい、今にも叫びたくなってしまう程の感情に囚われそうになっていた。
「無理もありません。両親ですら見抜けない程の偽装を、他者がそう容易く看破できるはずもない。これは誰の責任でもありません。敵の策が非常に狡猾なだけです」
これまで誰にも見せたこともないような優しく慰めるような表情と、傷を労るように棘のない声で、フローレンス夫婦へのケアを行うミカエル。
類稀なる美貌が非常に役に立つ瞬間であり、諜報部隊であるが故に毒にも薬にもなることをよく理解しているミカエルらしいフォローである。
それでも二人の混乱と動揺は収まりきらない。うまく自分の口から言葉が紡げない。考えがまとまらない。
「し、しかし……」
「御二人の仰っしゃりたいことはわかっています。その答えも持ち合わせています。現在、本物のティアさんはアルフヘイムにて囚われています」
その情報は、藁を掴みたいほどの気持ちだった二人にとって、ほんの僅かな希望が差す言葉だった。
「本当なのか!? ティアは、ティアは街のどこに!?」
「…………現在の居場所まではわかりません。ただ、部下がティアさんの連れ去られている姿を確認したという報告を受けています。救出しようとした所、深手を負い、止む無く撤退した……ということです」
「…………そう…………ですか」
ティアが現状、大きな危険に曝されているのは以前変わりない。
だが、生きているというだけでも二人にとっては大きな希望となった。
何より、その情報だけでなく助け出そうとしてくれたことが、二人にとっては嬉しいことでもあった。
同時にこの情報は、あえて人々が耳にしている中で発信することで、フローレンス一家やその周囲がアリア=ノワールの手先でないことを示し牽制する効果もあった。
極限状況下では、情報不足が不必要な疑心暗鬼を生み出し、真実から遠ざかるケースが無数に存在する。
ネフライト騎士団第3部隊隊長の位を持つ者からのそれは、人びとから余計な不信、不安を取り除く結果も生み出したのだ。
しかし、それは問題解決に繋がったわけではなく、新たな不安を生み出すことにもなる。
「ティア、どうか無事でいてくれ……」
「あなた……」
娘は生きているかもしれない。だけど無事である保障もない。今頃どんな目にあわされているのか、何もできない無力な自分達がもどかしくて仕方がない。不安がなくなっても、また新たな不安が湧いてくる。
底無し沼に嵌ったかのような精神に陥りそうだったところに、アリアがルシールの身体で、ぎゅっと優しく手を握り、決意に満ちた真っ直ぐな瞳でエリックの眼を見つめた。
「エリック=フローレンスさん。どうか顔を上げてください。希望はあります。私達が諦めない限り、未来は決して途絶えることはありません」
その言葉を形にするかの如く、ゆっくりとアリアが優しく残り香を作るように手を離し、人々の視界に映る位置まで移動する。
そして、確固たる意思と決意に満ちた顔つきで、避難所の全ての者達へ声を上げた。
「今ここにいる皆様、どうか私の声に耳を傾けてください。これから私は、アルフヘイムを、地上を取り戻す為に世界樹ユグドラシルを目指します」
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