第55話

 エヴァンのお願いを聞き入れ、その通りに解散した大我達。しばらくの間、四人で日が沈み備え付けられた明かり照らされる街なかを歩いていたが、一言も言葉を交わすことはなかった。

 最後に口にしたのは、別れ際の挨拶だけである。


「俺は……どうしたらいい……」


 三人と別れ、一人帰る場所までの道を、下を向いて歩くラント。

 憧れた人達との、特にアレクシスと間近で話せたこと。それそのものは嬉しいことではあった。だがそれ以上に、今のラントにはそれぞれの変わり果てた姿へのショックが大きかった。

 未だ自分の実力は、あの人達には到底及ばない。代わりになることなど夢のまた夢。その無力さが、非力さが悔しくて仕方がない。

 元凶であるバレン・スフィアをこの手で鎮めることができたならばと、もっと強くなりたいと遠い願望を胸に懐きながら、とぼとぼとその足を動かした。




 その日の夜。大我は自室の即席ベッドの上で、じっと天井を見つめながら募るいくつもの感情を巡らせていた。

 大我、ティア共に夕食の手が殆ど進まず、空腹にも関わらず用意された鶏肉の香草焼きの風味も鈍く感じる程に思いつめていた。

 しかしその時は口に何も入れなくてもよかったかもしれない。だが、人は必ず腹が減る。

 この一日で目と心に焼き付いた惨い光景から来る、義憤にも似た落ち着かない感情と空腹感。その両方が駆け巡り、眠ろうにも寝られずにいた。


「なあエルフィ」


「どうした」


「少し、夜風に当たらないか」 


「…………同感」


 胸の中がざわついているのは、エルフィも同様だった。

 まるで砂嵐が暴れているかのような、自身の心でどう整理をつければいいのかわからないこの現状。

 なにより、ここまで残酷にこの世界の住人を壊し切らずに壊すことができるのかという動揺。

 少しでも気分を変えなければ治まらないと、二人は部屋を出て、一度外に出ることにした。


「これは」


 その途中、大我はテーブルの上に置かれた丸い木の実入りのパンが目に入った。

 それが二つほど乗せられた皿の横には、この世界での言葉で「食べてください」という大我宛にリアナが書き記したメモが置かれていた。


「……母さんを思い出すな」


 そのお節介と優しさが、傷心に深く染み入る。自分ではない、ティアの母親からの愛情とはいえ、それはとても感慨深いものがある、

 大我はありがたくパンを二つ手に取り、玄関から外へと出ていった。

 月光と外灯が照らす夜の街。空には無数の星空が燦然と輝いている。


「あれ、大我さん?」


「ティア、どうしてここに?」


 玄関を出てすぐに、ティアと顔を合わせることとなった。

 互いに既に就寝したと思っていたところのこの鉢合わせに、二人は思わずきょとんとした顔になってしまった。


「眠れなくて。それと、ちょっとお腹も」


 ちょっと照れくさそうに、ティアは下げていた右手を上げて、その手に保っていた二齧りほど痕のついていたナッツ入りのパンを取り出した。

 やはり主張し始めた空腹というものには、大抵の場合逆らえない。


「……隣、少しいいか?」


「大丈夫ですよ」


 少々遅めの変則的な夕食。同じタイミングで食べているならいい機会だと、大我はティアの隣に並び、エルフィを含めた三人で、夜空の下でパンを口に頬張った。

 温められてはいないが、固めの皮ともちもちとした中身、ナッツの食感と濃い風味が舌と腹を程よく満たしていく。


「あっ、大我さん、あれみてください」


 黙々と食べていた途中、ティアは大我の肩を叩き、無数の星煌めく夜空に向かって指をさす。

 その人差し指の示す先には、周囲に点在するきらきらとした小さな星の中、一際輝く赤い星が見えた。


「綺麗だな……そういやここに来てから、夜空とか見たこともなかった」


「あれがテンクレトの赤星って言って、言い伝えでは、かつて裁きの光を汚れた大地に下した神が星になった姿って言われてるんです」


「へぇ……そうなんだ」


「今でも空から私達を見ていて、罪を犯した人に冥界にて罰を下す役割を持ってるとか。昔、ちょっといたずらとかした時に、あの星は見てるのよーとか言われて、それで怖がってたりしてました。今思うと、乗せられすぎですよね」


 夜風吹きすさぶ、幻想のテクスチャが張り付けられた世界から見る夜空。

 自分が生きていた時代から何千年も経った後の空なんて見ることもないだろうと思っていた。

 しかしその美しい世界が今、視界に飛び込んできている。空を見ていると、どこか気分の隙間にも風が吹いてくる。力を抜いて交わされる他愛の無いティアの話も相まって、大我は荒んだ心が少しだけ和み癒やされた気がした。


「大我さんは、願い事とかってありますか?」


「願い事か……うーん」


 ティアから唐突に切り出された話題。一口に願い事と言っても、大小様々で一口には言えないため、とっさの返答に少々困ってしまう。


「私は、ささやかで小さいかもしれないですけど、みんなと一緒に元気で変わりなく、平和に過ごせたらなーって、そう思ってます」


「なんか、ティアらしい」


 何気ないエルフの少女の願い事。多くは言わない。ただ今の幸せが続いてくれれば、普通という脆くも尊い日々が続いてくれればいいと、そう考えていた。


「ありがとうございます」


 夜の暗さでも曇ることの無い明るい笑顔を向けて、短くとも心のこもったお礼を返すティア。

 しかし、それからすぐにその輝きは陰りを見せた。


「けど、それはもしかしたら長くは続かないのかなって。ずっと自分達を閉じ込めて、皆が頭の片隅に置くくらいの年月が経っても、エヴァンさん達はずっと苦しんでた。見て見ぬ振りをしてたと言われても、何も言えません」


 直接会いはしなかったが、疲労困憊かつ誰にも会いたくないと言う程に精神を摩耗させていた迅怜。交流があっただけに、その変わり果てた姿にショックを受けたクロエや、心が壊れる寸前というものを間近で見たような気持ちになったグレイス。

 10年の月日の中、民衆が楽しく暮らしている時でも、ずっとその下で苦痛や自分自身と戦い続けていた。月日が経てばいつか治っているなどという都合のいいことはない。それを間近で認識させられた。


「……それに、エヴァンさんを連れて帰ってきた時に現れたキメラ。あんなのが最近、増えてるらしいですし。穢れを纏ったアンデッドの話もよく聞きます」


 パンを握る力がだんだん強まっていく。

 それは、怒りのような激情からではなく、平穏が壊れてしまうかもしれないという恐怖からのものだった。

 先程まで向日葵のようだった笑顔は陰りを見せ、下を向き不安を次々と吐露していく。

 自分のことではないにしても、大我はその姿が心苦しく、胸が痛くなった。


「何かの拍子にみんなとの日々が、パパやママとの暮らしが壊れたらどうなっちゃうのかって、怖くて不安になっちゃったんです。それで私、今日は眠れなくて……」


 ここまでの弱音を、余すことなく吐き出してくれたティア。

 自分の心情でも思い当たることがある。突如として壊れてしまった、今の神様にすり潰されたかつての日常。

 眼の前にいる、自分を助けてくれた心優しい少女が、そんな悲惨なことを体験する必要があるのかと、ふつふつとお人好しの心が煮えたぎる、


「俺も、そんな感じで眠れなかった」


 ちびちびとパンを口に含んでは、二人が受けた心傷を共有し合うように話し続ける。それをエルフィが黙って聞き入れ続けている。


「俺も………………ここに来るまでに色んなことがあってさ、それで俺の知ってる人はみんな死んでしまった。この指輪、母さんがくれたものなんだ。昔、結婚指輪がどうだって話を聞いたかな」


「優しい母親なんですね」


 右手中指に嵌められた指輪を見てティアが呟く。


「ああ。お人好しなところはあるけど、母さんも親父も本当にいい人だった。それが今じゃ俺一人だよ」


「そんなことありませんよ」


 自分一人という言葉に対して、ティアが手に持っていたパンを小さくちぎり、手渡すように目の前に突きだす。


「私には、過去に大我さんに何があったのかは知りませんし、それを聞いてとても……悲しいと思います。けど、今は一人じゃないですよ」


「ティア……」


「私もいますし、アリシアもいます。素直じゃないけどラントもいます。ルシールやセレナだって」


「俺を忘れちゃ困るぜ」


「ああごめんなさい。ともかく、せっかくこうして出会って、成り行きとはいえ一緒に暮らして、一緒に色んなとこに行ったんですから、大我さんの心の内に居させてもらってもいいんじゃないかなって、そう思いますよ」


 優しい、優しすぎるその一言。

 全てを失い、右も左も分からない状態で未知なる世界へと放り込まれた大我にとって、ティアという優しいエルフに出会えたことは何よりの幸運だった。

 それだけに、ティアの心からの暖かさに自然を頬が綻ぶと同時に、そんなみんなをこれ以上苦しませるわけにはいかない、いつ何が起こるかわからないような危険な状態を放置するわけにはいかないと、内心での静かな感情を燃え上がらせた。


「ありがとうティア。…………じゃあ俺も」


 ティアのちぎったパンのお返しとばかりに、大我も手元のパンを少しだけ大きめにちぎって目の前に突き出した。


「お返し」


「ふふっ、大我さんって律儀なんですね」


「ちょっとだけ気になってたけど、それだけのこと言ってくれたんだし、さん付けは無くしてもらっても……いいか?」


「そうですね。自分でこんなこと言っておいてよそよそしいですし。じゃあ、ありがたく受け取りますよ、大我」


 明るい暖色に満ちた二人と一人の小さな空間。

 二人はちょっとしたおかしさに微笑みながら、互いのちぎったパンを交換し合った。

 大我とティアが持っているのはそれぞれ同じパン。しかし、その渡された欠片の部分だけ、少しだけ味が違うような感じがした。

 それから二人は、深夜が訪れるその直前まで談笑を交わし、その日の心に受けた衝撃を癒やし解しあった。

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