第54話

 いっそ何も感じなければよかったかもしれない。だが、ほんの僅か、水の一滴程度に残された五感が、一本の蜘蛛の糸のような感覚が、生きる実感を与えてくれる。与えられてしまう。

 日に日に消えていく体感。味覚が、視覚が、聴覚が、触覚が、嗅覚が消えていく。

 自分が消滅してしまいそうな恐怖に襲われながら、グレイスは感じられるものはなんでも試した。たとえそれが自分を傷つけるものだとしても。

 それでも、月日が経つうちに感覚は消えていく。

 完全に消えることはない生殺しの状態。自分の存在すら確かなのかわからなくなり始めた時、唯一応えてくれたのは、触覚の一種である痛覚だった。

 視界がぼやけても、音がほぼ聞こえなくても、痛覚ははっきりと生きる実感を与えてくれる。

 それからグレイスは、何年も何年も自傷行為を続けることとなった。

 皮膚を破り、肌を突き、頭を殴り、額をぶつけ、指を折っては腕を噛む。

 体内の体液もとうに枯れ果て、もはや生きた屍のような状態。だがそうなることでしか、グレイスは自己を保たずにはいられなくなっていた。


「とても苦しい、すごく苦しい。こうすることでしか、私が今ここにいるってわからない。何も見えない。何も聞こえない。でも、全然死なない」


「まさか、さっきの話を僕達にしたのは」


「うん。すごく痛い。身体中が痛い。信じられないくらいに痛い。何かを触ってるのかも殆どわからなかったのに、話すだけで泣きそうなくらい痛いの。震えちゃうくらいに。こんなの久しぶりだった。ねえエヴァン、私、本当に生きてる?」


 唇を噛み締めた。

 今のエヴァンには、二重の意味でどう答えたらいいのかわからない。間違いなく生きてはいると考えている。そう言いたい。それを言うだけならば簡単。だが、それを今ここで言うのは正しいのか。むしろ傷つけてしまわないかと、複雑な感情がぐるぐると巡ってくる。


「今私がお願いしたら、殴ってくれる? 刺してくれる? 折ってくれる? 潰してくれる? 私ね、もう散々やり尽くしたの。だから……」


「やめてくれ……」


 残された一枚の毛布ごと前のめりにゆっくりと倒れ、這うようにして引きずりながらエヴァンの側まで近づき、弱々しく足を握ってその姿を上目遣いで見つめる。

 まるで殺してくれと懇願しているような、縋るようにして呟いた問いかけ。一滴もその瞳には流れていないが、はっきりとその耳に聞こえる涙声が、エヴァンの心奥に突き刺さる。


「今の私をどう思う? 醜い? 穢い? 哀れ?」


「もう、やめてくれ……」


 エヴァンは膝を付いて身体を屈め、そっとグレイスを抱きしめた。

 今どうにか出来るならば、この穢れから解放したい。だがそれには長い長い時間を再びかけなければならない。殺せば一瞬だとしても、それは言語道断。

 エヴァンの胸の内で渦巻く無念感が、抱きしめる力を強くする。


「ねえ、エヴァン」


「……グレイス、少しだけ心を整理させてくれ」


 その一言耳元でつぶやき、エヴァンはそっと手を離して立ち上がり、大我達の方を向く。

 それまでの浮き沈みしていた感情。アレクシスとの交流で休まった心は既に磨り減っていた。


「……一度解散しよう。ここまでついてきてくれて、みんなありがとう。そして……すまなかった」


 アリシアの騒動や、親しい者達の変わり果てた姿と、精神に棘が刺されるような出来事を連続で体験したエヴァン。

 誤魔化すよう笑顔を見せるが、その何重にものしかかった心労が、表情から滲み出ている。


「わかり……ました」


 それに対して、誰一人として言い返すことも、断ることもできなかった。

 最後の最後でその眼に焼き付けることとなった凄惨な光景。その前に何も言うことができず、考えがまとまらない。

 大我達は喉に支えるような感覚と重苦しい沈鬱とした感情を抱えながら、黙って言われた通りにその場を後にした。

 そして、エヴァンとグレイスの二人だけになった後、もう一度振り向いて屈み込み、しっかりと目を見て口を開く。


「グレイス、一つ聞きたい」


「なに、エヴァン?」


「さっき、不治は穢れを治癒する場所に向かうと魂が傷つくって言ってた。とにかく痛みが欲しいなら、それをする方が確実だったのに、それをしてなかった。……だよね」


 二人だけになり、なんとか気持ちを落ち着けて冷静さを取り戻すエヴァン。

 身体の痛みと魂の痛み、それぞれが別の物だということはわかっている。だがそれでも、魂が傷つけられることを選ぶことなく、ただ身体への痛みに自らを任せたことが、どうしても気になっていた。


「身体が傷ついても構わない。でも、心までは失いたくない。そう……思ってた?」


「………………」


 沈黙が流れる。

 深く食い込む程に唇を噛み締めた後、ずるずると身体を引きずり、縋るようにエヴァンを抱きしめる。


「だって……私……そうしたら……もう、自分が自分じゃ無くなっちゃう気がして……それに、まだ自分の穢れをどうにもできてないのに、街のみんなを危険に晒せない……またみんなに会いたい……はやく、楽になりたい……でも、死にたくない……いやだよ……痛くないと、私が私だってわからない……でも、痛いのなんていやだ……でも、痛くて嬉しがってる自分もいて……どうしたらいいの……エヴァン……」


 二人だけになり、強く蓋されていた本心が噴出したように、溜まりに溜まっていた感情を吐き出したグレイス。

 身も心もボロボロに摩耗し、それこそ無理矢理生かされているアンデッドと呼ばれてもおかしくない。だが確かに生きている。

 こんな濁流のようの感情を何年も吐露できず、腐り切る寸前だったところに、エヴァンという救いの手が現れた。

 もう自分がなんなのかわからなくなりかけている。錆びついた心体。虚無の中へと自ら落ちたくなりそうになった寸前で、それは踏みとどまったのだった。


「大丈夫。必ず、解決できる糸口はあるはずだ。だから僕達はこうして、今あれについての情報を聞き回ってる。絶対になんとかする。だから、もう少しだけ待ってほしい」


 いつになるかはわからない。どれだけかかるか、どれだけ進めるかはわからない。だが、バレン・スフィアという悪塊は必ず取り除かねばならない。

 そのためには今、少しでもできることをする。それを心に近い、エヴァンはもう一度、グレイスを強く抱きしめた。


「うう……ぁ……うああ……ああ……ぁ……」


 どれだけの間、流していなかったかわからない安堵の涙声。

 痛み、苦痛、虚無感の涙を流し、流し、とうに枯れ果て、瞳からは一滴も涙は流れない。

 だがその眼には幻の涙が見える。グレイスはその胸の中で声を上げて震えて泣き、心の膿を吐き出した。

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