ホットレモネード

瀬野ハンナ

ホットレモネード

 忘れたはず、というより、まだ記憶に焼き付いてすらいなかったはずのあのひとのシルエットが、川口くんのそれに重なった。


「ほんとうにありがとう、申し訳なかった」


 川口くんはわたしから早織を引き取ると、改札機ごしにペットボトルをわたしに手渡した。受け取ってみると、それはあたたかいレモネードだった。


「全然。あとはよろしくね」


 まだまっすぐ歩けない早織が、ほんとに迷惑かけてごめんね唯香ー、と改札の向こう側から申し訳なさそうに謝った。迷惑なんかじゃ全然ないからー、とわたしは笑って手を振る。川口くんが「それじゃ」とこちらに軽く手を挙げ、早織を振り向いてそのままその手を彼女の頭に載せた。しかたないなあ、とその大きな手は早織をぎゅっと抱き寄せる。それはなんのいやらしさもない、とても自然な動作だった。


 そしてわたしはなぜか、そこから動けなくなってしまった。


 どうしてわたしはああなれなかったのだろう、わたしはいつもどうしてこうなのだろう、と得体のしれない切なさが喉の奥からせりあがってきて、いっそ泣いてしまいたくなった。


 立ちつくしたわたしの前を横切って、たくさんのひとが改札を抜けていく。ネオンに照らされた街に旅立っていく。


 金縛りのようなそれが解けると、定期券圏外のわたしはゲートの前で踵を返し、スマートフォンの乗換案内アプリで調べた、乗り慣れない路線を探して歩きだした。




 家に帰り、真っ暗な部屋に電気をつける。一人暮らしのワンルームは朝出かけたときのままの形にかまえていて、足の踏み場がないというほどではないけれど雑然としている。上京してすぐの頃、どうしても一輪挿しを飾りたくて買った華奢なガラスの花瓶には、いまはなにも生けられていない。からっぽの瓶は部屋の片隅で所在なさげに、しおらしくうなだれている。


 試合で使ったユニフォームやジャージをリュックから引っ張り出した。全部を洗濯機に突っ込むと、底のほうまで沈んでしまっていたレモネードのペットボトルが出てきた。


 ペットボトルにはコンビニエンスストアのシールが貼られていた。ということはたぶん、ほかに特に買い物をすることなく、わたしへのお礼を買うためだけにお店に入ってくれたのだろう。わたしはあらためて川口くんの人柄の良さを実感する。


 今日はサークルの同期の飲み会だった。学内のバドミントンサークルで、強豪ではないので今回の大会では決勝に進んだのは一組だけだった。それでもメンバー同士の仲はとてもよく、中学や高校の頃から集団の付き合いが苦手だったわたしが、大学で唯一楽しめる仲間だった。


 久しぶりの大きな飲み会だったので、はしゃいだわたしたちは前半からくだらない酒の潰し合いになり、普段は注意深いはずの早織がいつの間にかべろべろに酔っていた。申し訳ないし、自力で帰れるから大丈夫と言い張る早織を、前回介抱してもらったお返しだからと何度も諭して、わたしは彼女の乗換駅まで送っていった。早織の彼氏の川口くんがそこまで迎えに来てくれることになっていた。


 目的の駅までの三十分弱の電車の中で、早織はアルコールを薄めると言って大量の水を飲みながら、ほんとにごめんねと何度も謝った。あんたが普段はしっかりしてることはちゃんとわかってるから、なんにも気にすることないからとわたしは笑って答えた。それより、バイト上がりに駅まで来てくれるなんてほんとにいい彼氏じゃん、とわたしは以前に一度しか会ったことのない川口くんを褒めた。


 早織と川口くんは一年ほど前から付き合いはじめた。サークル内で恋人をつくってこれ見よがしに見せつける先輩たちや、知り合う男知り合う男をイケメンとそうでないひとに分類したがる同期たちに辟易気味だったわたしは、容姿ではなく人柄で相手を選び、自分からは恋人の話を一切しない早織に強い好感を抱いていた。


「わたしはほんとに運が良かったと思う。こんなに酔ったりしても怒らずに迎えに来てくれるようなひとと付き合えて」


 優しい彼氏を持てたことを、「運が良かった」と言う早織はほんとうに素敵な女の子だと思う。うらやましいぞー、と冗談めかして頭を小突こうとしたら、「わたしね」と早織はもう虚ろではない目でわたしを見つめて言った。


「わたしね、唯香にはほんとに幸せになってほしい。ちゃんと唯香を大事にしてくれるひとと付き合って、幸せになってほしい」


 わたしは頭を小突けなくなる。代わりに、ありがとう、と小さな声でつぶやいた。


 そんなふうに言ってくれたのは、早織だけだった。


 カウンセラーをしている母の遺伝か影響か、聞き上手と評してもらうことの多いわたしのところには、よく友だちが個人的な相談をしにやって来た。それは対人関係の悩みであったり恋愛沙汰であったり、家族との不和であったりいろいろだった。駆け込み寺のようにわたしのところに飛び込んでくる友だちは皆、わたしにひととおり悩みを打ち明けると、すっきりした顔になって帰っていった。わたしの心配をしているひとは一人もいなかった。


 つい数日前に、バイト先で知り合った彼氏とわずか一カ月余りの交際に終止符を打ったわたしは、飲み会の間じゅうその早すぎる破局をネタに笑っていたが、内心はかなり辛辣だった。誠実なひとだと思っていた。バイト仲間の間で最も信頼されている先輩、仕事も丁寧で迅速で、たまにお客さんに「あなた、名前はなんていうの」なんて訊かれることもあるような尊敬すべきひと。そんな彼から告白されたときはうれしさと恐れ多さとで胸がいっぱいになり、いままで何度かつづいていた、結局好きになれずに別れてしまった関係とは違う予感を感じた。ほんとうに好きなひとと付き合えるのだ、と幸せな気持ちに満たされていた。


 けれど現実はそんなに甘いものではなかった。彼は三度目のデートでわたしの部屋に上がり、冷たいベッドの上にわたしを押し倒すと、すべてを奪ってわたしの前からいなくなった。


 男のひとに、プラトニックなんて言葉がないのははじめからわかっていた。それでも、欲望だけの捌け口にされた傷は自分で予想していた以上に大きく深く、割り切れない思いが毎晩胸の中で疼いた。


 早織と数人の同期の女の子たちには事情を話していた。彼女たちは口々にわたしを慰めてくれ、「唯香が優しいばっかりに、だめな男が寄ってくるんだよ」という意見で一致した。たしかにわたしは高校時代に三年近く付き合った彼氏以来、大学では三人と付き合って三度ともろくなものじゃなかった。わたしはまわりの女の子たちのなかでいちばん交際人数が多かったが、そんな人聞きの悪い数字が増えていく一方で、心と心が深く結びつくような関係は一度も築くことができないのだった。


 幸せになってほしい、という早織の言葉が頭の中で反響する。早織の頭に載せられた川口くんの右手が浮かび上がる。誰にも不快な思いをさせず、しごく自然に営まれる幸福な恋の関係―それはわたしの理想だった。だけどもう二度と手に入らないのかもしれない、と理由もなくあきらめてしまっているものでもあった。


 わたしは歪んでしまっていた。大学の入学直後、友だちだと思っていたひとにカラオケの個室で突然抱きしめられ、無理矢理キスをされたことがあってから、もういろんなことがどうでもよくなってしまっていた。セックスフレンドを略したセフレとか、添い寝フレンドを略したソフレとか、そういうものをまわりの子たちはみんな考えられないと言うけれど、わたしはそれらを変だとは思わなかった。むしろ世の中のたいていの男女はそんな欲求を前提に交際しているものだと勝手に悟っていた。


 だからついさっき見せられた早織と川口くんのやり取りはわたしにとって衝撃的で、高校時代には自分だってあんなふうにしていたはずなのに、なんだか遠い世界のものを見ている気がした。絶滅の危機に瀕した珍しい植物を見ているような気分だった。


 別れたばかりの彼の横顔を思いだす。相性はよかった、と思う。話はいつも弾んだし、彼が無理に合わせてくれている感じもなかった。バイト先の飲食店で、彼はいつもわたしのことを気づかってくれていたし、それは決して下心なんかじゃないように見えた。


 うまくいったっておかしくなかった。早織たちのようになれたはずだった。あの夜、彼はなにかに憑りつかれてたんじゃないか。満月だったせいだろうか。なんてそこまで考えて、くだらない、と一人で笑った。


 わたしもいつか早織たちみたいに、あんなふうになれるだろうか。心から好きなひとと、心から好きと思ってくれるひとと出会って、その純粋な腕に抱いてもらう日が来るだろうか。


 ため息をひとつだけついて、川口くんのくれたペットボトルを開けてひとくち飲んでみる。生まれて初めて飲むレモネードは甘くてすっぱくて、まだほんのりと熱を残していた。

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