空とぶサカナ

来条 恵夢

第1話

 強く地面を蹴れば、強く、強く足を踏み切れば、するりと空に泳ぎ出せる。


 今となってはそれが当たり前になってしまって、言われてみれば幼い頃は空を泳ぐなんてできなかったなと、思い出す。

 そしてふと、不安に襲われたりもする。

 今のこれはお伽噺とぎばなしのような出来事で、ある日ふっつりと、何もかもなかったことになるのではないか、と。


 生物学者も科学者も、SF評論家も、皆が皆、揃って仰天したこの世紀の大事件は大きく取り上げられ、だがいまだ、明確な原因やら理屈は見つけ出されていないようだ。

 それなら、やはり何もわからないうちに元に戻ってもおかしくはない。


 それでも、そんなことをいつも考えるわけではなくて、大体は、生まれるずっと前から、世界の始めから空で泳げていたような気分でいるのだが。


 あかりは、蹴り出た窓を振り返りながら、夜空に身をゆだねた。昼間の青空も好きだが、溶け込んでしまうような夜の闇空も好きだ。

 地面に別れを告げると、導かれるようにある程度の高さまで浮かび上がる。そうやって潮の流れに身を任せ、漂うだけでいくらでも時を過ごせる。

 ただ、昼間は人も多いから、夜の方がゆっくりできる。


「よー、アカリ。こんな時間に何やってんだ、フリョー」

「わー不良に不良呼ばわりされたーショックー。てかただの散歩だし」

「へっ」


 たまに顔を合わせる散歩仲間に鼻で笑われ、灯は、力を抜いていた体に力を込め、殴る振りをして見せた。

 相手はそれを受けて、やられたー、と、大袈裟なリアクションを返す。付き合いが良い。

 散歩仲間は、さばの仲間かと思うくらいに銀色を身に着けている。足元で光るネオンをはじき、色とりどりの光をまとう。それは、新種の魚のようでもある。

 灯は、そんな姿をまじまじと見詰め、ぽつりと呟いた。


「間違えて狩られない?」

「は?」


 殴られた演技をしていた少年が、ぱちくりとまばたきを繰り返す。夜空とはいえ光がないわけではなく、ある程度の動きはわかる。

 灯は、またやっちゃった、と苦笑した。少年の方も、慣れているのですぐに、今度は逆に灯を小突く。


「主語述語はきっちり言え?」

「ごめんごめん。そんなきらきらしてたら、魚と間違って狩られちゃわないかなーと。最近、不法業者もはびこってるらしいし」

「オレがそんなヘマするかよ。つーか、何気に失礼じゃね?」

「そ? いいじゃん、魚きれーだもん。あれが晩御飯になるとか、え?って思うよね」

「…いつもながら、オマエの感覚はよくわからん」

「えー?」


 他愛ないことを言い合い、笑う。

 クラスメイトが見れば驚くだろうなと、ちらりと思う。教室の灯は、どうも笑わないことで有名になっているらしい。学内で唯一の友人の幼馴染が、そんなことを教えてくれた。

 今も、暗くなければ笑うことはできないのだろう。そこも含めて、夜泳ぎは好きだ。


「なあ、アカリ」

「うん?」

「…やっぱ、いいや」

「えー? たち悪いなあ、言いかけてやめないでよー」


 笑いながら、本名も知らない少年と一緒に、灯は夜の空をただよった。

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