Episode03:事情聴取

 目を閉じるとあの物体が眼前に浮かぶ。振り払っても振り払っても、それは消えない。網膜にしっかりと刻み込まれたように流を苦しめる。小さな手には五本の指が見えた。その茶色にただれた腐った皮膚にうごめく白い蛆が、自分の足元まで這って来る。幻影だと知っていつつ、首を振り、足をすくめる。そうすればそれが消えてなくなるのではないかと錯覚するのだ。

 シャワーを全身に浴びて、その水と一緒に臭いも記憶も流してしまおうと思っていた自分が如何に浅はかだったか。ながれは思い知る。そしてうな垂れる。


「流君、着替え置いといたよ」


 シャワールームの外で、女の声がした。事務員のなぎさだ。五つ年上の彼女の、いつもと変わらぬ調子に、少し違和感を覚える。


「刑事さん、流君とちょっと話したいんだって。待ってるみたいよ」


 シャワーを終え、柔軟材の甘い香りのする作業着に着替えるが、やはり鼻の奥で死臭が存在感を主張した。ボディーシャンプーを泡立てて何度となく洗ったのに、消える気配すらない。これが死臭というものなのか。

 このままでは田村の言うとおり、「喰うのも寝るのもままならない」状態になりかねない。「便利屋の仕事は死と隣り合わせ」なことは、十分承知していたつもりだった。全部、「つもり」……。経験不足は否めない。初めてのことだからと言われれば、反論するすべもない。

 事務室の奥、社長席には一ノ瀬がいつものバーコード頭をこちらに向けて座っていた。刑事が数人取り囲む中、普段は見せない神妙な面持ちで、監視カメラや作業計画表などを指差し説明しているのが見える。

 その手前、応接セットのソファーに先ほどの女刑事がいた。黒いスーツの細身の女だ。流の姿を確認すると、立ち上がって軽く会釈する。


「流君ね。改めまして、私、警視庁の未成年事件担当の岬です」


 話を伺ってもいいかしらと、優しそうに微笑む彼女は、年の頃三十半ばか。大人の色気を感じる。肩までのストレートヘアはまさに流の好みだが、年齢は微妙に許容範囲から外れていた。

 流は促されるまま、彼女の向かいの席に座った。まだ生乾きの髪の毛をくしゃくしゃっといじり、どうしたらいいのかと不安そうにしていると、


「思い出したくないだろうけど、少しだけでも教えてもらえるかな」


 岬は持っていたバッグからボイスレコーダーを取り出して、そっとテーブルに置いた。

 彼女の台詞と態度に、なぜか流はムッとする。一呼吸間を置くように、テーブルに用意されていた麦茶を勢いよく飲み干して頭を冷やした。シャワーで温まった身体に冷たさが気持ちいい。


「話すことなんて殆どないよ。田村さんに聞いたんでしょ。俺がわざわざ喋ることなんてないと思うけど」


 自分が思っていたよりもぶっきらぼうな台詞に驚いたのは流の方だった。初見の相手に失礼だと思いつつ、口が止まらない。

 だが岬は、そんな流には構わず淡々と話を続けた。


「まあ、そう言わずに。一番最初にあの袋に近付いたのは君なんだから、私にそのときの様子を聞かせてよ」


「──あのさ」


 氷だけになったグラスを両手で抱えたまま、流はテーブルに肘を付いた。そしてしばらくの無言の後、彼はぐっと体を前に倒して、岬の顔を覗き込んだ。


「刑事さん、なんか俺のこと、子供扱いしてるよね。未成年だから?」


 じろじろと岬の様子を伺う流の視線に、彼女ははっとする。流はその、少しだけ反応した岬の顔を確認すると、身体を引き戻した。


「そんなつもりは。ごめんなさい。気を悪くした?」


「いや別に。未成年事件担当なんて言うから、ちょっとからかっただけ。──ちゃんと答えるよ。田村さんに聞いたかもしれないけど、あの付近は三日前に重機で掘り返したばかりのとこ。掘り返して、ガス検知して、異常がなかったら俺が掘り出し作業に入るの。ガス抜きの管が均一に並んでただろ。ゴミから発生するメタンを抜いてるんだけど、そこに番号がふってある。いつも確認して作業してるから間違いないと思うよ」


「それは確かにさっきの彼に聞いたわ。三日前ね」


 頷きながら手帳に走り書きのメモをする岬の手元を、流は更にまじまじと見つめる。


「ねえ、刑事さん、独身?」


 左手の薬指には指輪がなかった。


「ええそうよ」


「勿体無いね。美人なのに。こんな仕事してるから出会いがないんじゃない?」


 よくよく見ると、かなりいい線いってる。年齢なんかで判断するもんじゃないのかもと下心がうずく。そんな流の心を知ってか知らずか、岬は彼を無視するようにひたすらメモを書き進めた。


「大人をからかうんじゃないの。で……、あの場所まで歩いて、何かいつもと違ったことはなかった? 見慣れないものが落ちていたとか、もしくは、なくなっていたとか」


「いや、そういうのは、ちょっと。わかってたら、あの場でとっくに気付いてたよ」


「そう……」


 髪を時折かき上げながら、彼女はペンを走らせた。その前かがみになったその襟元から、胸のふくらみが見える。思わず体が反応した。白い大人の肌だ。しかも、ウチの事務のなぎさより胸が大きいななどと、流はどうでもいいことを考えた。ごくりと生唾を飲み、不謹慎な自分を戒めるように、流は別の話題を振ってみた。


「刑事さんの扱う未成年事件ってさ、こんなんばっかなんだ? 変死体、見慣れてたりするの?」


「慣れるとか慣れないとか、そういう問題じゃないでしょ。人が死んでるんだもの。軽々しくそんなこと言っちゃダメよ」


「だけどさ、テレビ見てるとよくやってるよ、虐待死とか、放置死とか。俺みたいなギリギリ未成年ってやつの事件も、担当することあるの?」


「──被害者が未成年なら、ありうるかも。……って、質問攻めね」


 ペンを止めて顔を上げた岬の表情が少し緩んだ。流もつられるように照れ笑いした。



 *



 陽が落ち始めていた。埋立地の向こう、水平線の先は既に暗くなりかけている。まばらに散った雲に西からの柔らかい光が差し込み、紺と朱の幻想的なグラデーションを作り上げていたが、それに感動できるほど、一ノ瀬の心は穏やかではない。乳児の遺体遺棄事件という、極めて重大な現場に居合わせた流と、その現場を管理していた社長という立場、どちらも一ノ瀬の頭痛の原因だ。なぜここにという疑念と、犯人に対する怒りがこみ上げ、彼は頭を抱えた。 

 事情聴取と現場検証が終わり、パトカーが引き上げた現場には、KEEP OUTの黄色いテープが張り巡らされていた。監視小屋から望む光景の中で一際存在感を主張している。


「社長、どうします。ここの作業は中断するしかないですよね」


 呆然として窓から埋立地を眺める一ノ瀬に、なぎさはお疲れ様と冷たい麦茶を差し出しながらたずねた。窓枠に手をかけ、グラスを受け取り、ひと含み。


「そうだな。これから事件がある程度進展するか解決するかまで、この現場での作業は不可能だろう。参ったな。こうなったら、空き家の解体作業でも請け負うか。──すると、流のヤツがろくでもない現場に遭遇する確率が高くなるんだがなァ。いや、参った参った」


 一ノ瀬の引きつった笑い顔がガラスに映った。

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