影
よもぎもちもち
第1話 ケイマン S
僕は住まいのある札幌から小樽へと愛車のポルシェ・ケイマンを走らせた。早朝、積丹からあがったばかりだというウニ。それをビッシリのせた丼を小樽の汚い寿司屋で食べ、一服つく。セブンスターの煙が一反木綿のように薄暗い店内に漂う。
「今日は1人?」深いシワに黒い肌の大将が静かに呟く。黄色い不揃いの歯、いつクリーニングしたのかもわからない染み付きの近又白衣。この店の衛生観念は壊れている。その壊れた店に来る僕もまた、どこかで壊れてるのだろう。何が正常で、何が異常かなんて、誰にもわからない。他に客もいないので大将は沈黙に耐えかねたのだろう。
「そう、1人。北に行こうと思う。いちばん北にね」僕は空っぽになった丼に付着した米粒を見つめる。
「あのね、今日は様子がおかしい。雲がへんなんだ。なぜなら影がないんだよ。影のない日は凶。こんな日はあまりウロウロしないほうがいいんだ。ましてや遠くに出かけるのは止めておいた方がいい。間違いない」
僕は視線を落としたまま大将の話について一巡考えてみたが、意味がわからなかったし、大将は以前からそういう超常的な何かが好きなタイプだったので、適当に相槌を打ってやり過ごした。「また来るよ」僕は短くなった煙草を趣味の悪い小さな黒い灰皿で潰した。そして3000円丁度を静かに置き店を後にした。
僕は2浪し札幌の医科大を卒業した。37才の独身。精神が磨り減る診療を嫌悪し研究職を目指した事もあったが諸般の事情で諦めた。同期は変わり者ばかり。全身に大きな穴を開ける専門の外科医であったり、勃起不全専門など。
借金をし、札幌市東区にある商業ビルの3階部分を賃借し小さな総合診療所を開いたのが2年前。至ってノーマルだ。常勤・パート合わせ5名を雇っている。同年代の平均よりずっと稼ぎはあるが、大手の外資コンサルでバリバリやってる知人と比べれば足元にも及ばない。
他人と自分を比べることに特に意味はないし、それは時間の浪費だろうと考える性格ではあるが、そのコンサルの男が自分の結婚式にイヴァンカ・トランプを招待した時は流石に驚いた。7人繋がれば世界中のどんな人間とでもコンタクトが取れる、と言うが、事実は小説よりも奇なりを王道で突き進んでいる現実。世の中にはわからないことのほうが多いものだ。
「なるほど。そう、世の中にはわからないことのほうが多いものだ」寿司屋を出て僕はポルシェ・ケイマンのアクセルを踏み込んだ。振動がハンドルから伝い重低音が胃に響く。
「でも、だからこそ動かないといけない。ジッとしていたら景色は変わらない」。貧しかった研修医時代に付き合っていた7つ年上の女が「あなたマグロみたいね。動かないと死んじゃうの?」とたしなめられた事が何度もあった。僕は北海道の最北端、宗谷岬を目指す。
「影がないんだ。今日は危険だ」大将は手垢や指紋でべたべたになった窓からかろうじて空を見上げて呟いた。空は雲の多い晴天だった。
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