prayer

@hitsuji

第1話


 十七歳。セブンティーン。

 それが私の現在地。

 若いながらも歴史あり。もちろん若いは若い。が、歴史は歴史。思い返せば私も何だかいろいろなことがあったなぁ。

 なんてことを漠然と考えてる起き抜けの春。

 布団の中の朝。毛布が木漏れ日のように暖かい。

 現在、午前八時五十分。

 私の家から高校までは自転車で、どんなに急いでも二十分はかかる。一限目は九時からやから、これはもう何をどうしても間に合わない。まだ布団の中やし。用意とか何もしてないし。

 遅刻。

 で、仕方がないから布団の中で自分という人間について見つめ直す。

 え、何で?

 いや、何でとか聞かないで。起きたくない時間の時間つぶしなんやから。なんて自分に自分でつっこんでさらに自分で返す。

 で、私。

 私。

 えーと、私。

 まず、蛇が嫌い。怖いから嫌い。

 南瓜が嫌い。天麩羅にしてる薄いのも駄目。大嫌い。小さな頃からずっと。今でもまだ食べられない。

 無駄にはしゃいでる男子が嫌い。そんなに騒いで、少しは静かにしとけや、って思う。

 眠たいのに頑張らないといけない五限目の授業が嫌い。うん、これはもう、満場一致で嫌いやと思う。

 桃が好き。ちょっと酸っぱい方が、私の好み。

 猫が好き。犬よりも断然猫が好き。道端で見かけたらチッチッチッって呼んじゃう。

 海が好き。入って泳ぐんじゃなくて、見ているのが好き。寄せては返す波、砂浜に腰掛けて。

 スタバのコーヒーが好き。甘くてクリームがたくさん乗ってるやつ。

 で、サリが好き。

 ほんと好き。

 けっきょくそこなのだ。今の私とは、つまりはそこなのだ。

 あ、サリっていうのは私の彼氏で、三つ歳上で、今は大学生。美大らしい。確か二年生って言ってた。長身で、少し長めの髪、ちょっとウエーブしてて、お洒落に見えるけどこの髪は実は天パで、本人は特に意識してなくて、それでいつもぼやっとした目をしていて、何を考えてるのかよく分からない時もあったりして。でもそんなところがかっこよかったりするのよね。

 この気持ちは愛。

 愛。

 愛?

 うわぁ。なんか恥ずかしいわ。顔赤くなるわ。

 愛って。友達との彼氏彼女話では絶対出てこない単語やなぁ。

 まぁ、愛なんて言うと奥が深くて、底が見えなくて、よく分からんのやけど。でも恋って言うとどうにも幼稚っぽくて、その響きはあまり好きくなくて、そんな生易しい気持ちではないと、私自身としては思ってる。

 って、そんな生意気なこと言ってるけど、私はまだ十七なわけで。女子高生で、毎日ビリジアン色のブレザーとスカートを着て自転車で学校に通っている身なんですけども。夏になると受験生になり、夏期講習とかたくさん受けなきゃいけなくなるんですけども。

 って何が言いたいんやろ。私。

 だんだん分からんくなってきた。

 再度、時計を見る。午前八時五十五分。てか、よく考えたら八時四十五分からの朝の朝礼はもうすでに始まってるよな。なう。じゃ遅刻なうだ。もう。

 まぁ、でもあと一週間で終業式だし、春休みだし、学年が変わる前のテストも終わって、最近の授業はなんだか消化試合っぽいし、もういいでしょ。それに昨日のバイト、めっちゃ大変やったし。たかがコンビニバイト、されどコンビニバイト。昨日はレジに殺されるかと思ったよー。うん。よし、今日は二限目からしれっと行こう。生理痛で、なんつって。私は身体を丸めて布団を頭まで被る。

 てか、こんなこと言ってると私、なんだか不良少女みたいに思われるかもしれないけど、全然そんなことはなくて、むしろけっこう頭良くて、去年の夏なんて期末試験で文系で学年十三位やったんやから。すごいでしょ。私もびっくりした。そりゃ人並みに試験勉強はしてたけどさ。まぁ、だから少なくとも、学校に遅れて行って、休み時間はトイレで煙草を吸って、放課後は他校の男子とカラオケで合コンしたり、みたいな女の子ではない。断じて。朝が弱いから今日みたいに遅刻しちゃうことはたまにあるけどさ。休み時間は普通に教室で友達と話してたり、次の授業の教室に真面目に移動したりしてるし、放課後遊びに行くって言ったって女友達とせいぜいスタバかマクドくらいやし。

 てか、サリ。

 もう二、三日連絡がない。

 どーしてるんだろうか。大学が忙しいのか。バイトが忙しいのか。両方なのか。

 布団の中で丸まったまま、携帯メールを見てみる。

 あ、絵里ちゃんからメール来てる。《薫ー! 寝坊かー?》て。ええ、そうです。寝坊です。んで、えーと、サリ、サリ。だいぶ下の方に行ってる。絵里ちゃん、お母さん、クラスの仲良し女子グループ、ゲームの広告、優子ちゃん、あ、あった、サリ。あー、やっぱ三日前だ。三日前の夜だ。二十三時、サリの《今バイト休憩時間、疲れたー》ってメールに私が《頑張ってね! また連絡ちょうだい》って送ったら返事返って来なかった。ここで私達の会話は終わってる。

 何してんだよ、バカ。

 私、連絡待ってんだよ。バカ。

 思うけど、まぁ言えないよね。そんなことは。嫌な女、めんどくさい女って思われるの嫌やし。だから待つ。でも、今日も連絡なかったら明日は一回連絡してみようかなぁ。

 で、起きた。

 一階に降りるとお母さんがいて、眼鏡をかけてテーブルで新聞を読んでいた。眼鏡は最近かけ始めた。小さい文字が見えないのよねぇ、なんて言って。

「おはよう」

「おはよう。朝ご飯できてるよ。温めなおして食べなさい」

「うん」

 娘が遅刻しているのに、遅刻なう、やのに、なんて緊張感のない母親なのだろう、と私は思った。

 お母さんは夜は門限だの、女の子なんやから危ないから早く帰りなさいだのうるさく言うくせに何故か朝は緩い。私がこんな時間に起きてきても基本的に何も言わない。何故だろう、と思うけど下手に聞いて朝も厳しくされたらたまらないから何も聞かない。

 私は机に置かれた鮭の塩焼きをレンジに入れ、お味噌汁に火をかける。

「眼鏡慣れた?」

 お母さんの向かいに座って聞いてみる。

「慣れないわねぇ。違和感しかない。小さい文字は確かに見やすくなったけど」

「ずっと目、良かったもんね、お母さん」

「歳よねぇ。薫は大丈夫なの? 見えにくくなったりしてない?」

「よしてよ。私まだ十七よ」

「そうやけど、あんたよく携帯で動画見たりしてるじゃない。あんなん絶対目に悪いで」

「まぁ、そりゃ良くはないやろけど」

 そこでレンジが鳴ったので私は朝ご飯を食べ始め、何となく会話は終わった。お母さんは難しい顔をして新聞を読み進めてる。お味噌汁はもう少し温めれば良かったなぁ、ちょっとぬるかった。

 それで軽い化粧をして制服に着替えたらもう十時を過ぎていて、こりゃ二限目どころか三限目からだな、なんて思ってるとお母さんが一言、

「ねぇ、務はとっくに学校行ったけど、あんた遅ない? 一年と二年で授業始まる時間違うん? あ、まさか遅刻?」

 て、気付くの遅ーっ。

 今更かよ。

 あ、ちなみに務ていうのは同じ学校に通う一つ下の弟ね。一年と二年で始まる時間違うとかあり得ないでしょ。そんな高校、多分ない。と思う。

 とりあえず、学校へ行ってきます。



 変に目立つのが嫌だったから、二限目と三限目の間の休み時間に教室に入った。

 教室に入るとすぐに絵里ちゃんと目が合う。にまにまして私の席にやってきた。

「薫、大遅刻だよ。久々にやったね」

 笑って小突いてくる。

「起きたらもう九時前やった」

「遅っ。その時間、私もう教室いたよ。てか普通はいるよ」

「うーん。布団から出れないのよねぇ」

「もうそんなに寒くないでしょ」

 まぁ、確かにそうだ。

「ね、それよりさ、今日学校終わった後って空いてる?」

「空いてるよ。あ、スタバ?」

「うん、優子と話してたの」

「行く行く」

「じゃ決まりね」

 絵里ちゃん、優子ちゃん、私の三人。仲良しのグループ。三人で放課後に集まり、スタバやマクドで女子トークをするのが私達の最近の流行りやった。

 三限目が始まる。

 日本史。苦手だ。

 日本史の先生もちょっと苦手だ。

 おそらく独身、やと思われる四十歳くらいの男の先生で、噂やけど、なんかアイドルグループとかそういうのが好きらしい。まぁ、確かに外見からの印象やとそれは非常に納得できる。アイドルグループ。ほら、最近流行ってるやつ。何て名前やっけ。私はそういうのあまり詳しくないんやけど。

 それとこれも噂やけど、先生、そのアイドルグループの握手会行って、握手したグループの女の子の手をなかなか離さなくて、警備員とか出てきて取り押さえられたことがあるらしい。ほんまかどうか知らんけど。

 ちょっと前に不良ぽい男子達が廊下でその握手会事件のことをからかって、先生に絡んでた。からかわれると先生も怒って、それでなんか男子達と取っ組み合いみたいになってたんやけど、相手は不良やし、数人がかりやし、先生何かぼこぼこにやられてて、それ見た時は私も先生ちょっと可哀想だなぁ、て思った。

 でもごめん。先生、やっぱり私も先生ちょっと苦手。


 私の席は前から三番目の窓際で、私はこの窓際の席をとても気に入っていた。

 何故なら退屈な時、窓の外を見ていられるから。それってけっこう楽しいから。体育の授業とか。見てて楽しい。少し窓を開けると、気持ちの良い風が吹いており、心地良い春の到来を感じた。

 校庭の隅に立つ木々。あれは桜だ。

 今はまだ蕾だけど、再来週あたりには咲くんじゃないかなぁ。桜色の彩り、ってヤツですか。楽しみやなぁ。

 あれ、でもよく考えたらあと一週間で終業式やん。

 春休みやん。学校終わっちゃうやん。高二終わっちゃうやん。で、春休み明けたら私は高三で、教室もここじゃなくなっちゃう。もちろん席も違う席に。

 え、てことは何?

 私、この特定席から桜の開花を見れないってこと?

 うわー、それはちょっと残念。

 いや、かなり残念。辛いなぁ。桜が咲く頃には違う教室と違う席かぁ。なんか切ないなぁ。ぐすぐす。

 まぁ、でも大人になるっていうのはそういうことなんかも。いつまでもおんなじとこにいられないってこと。止まっていられないってこと。

 うん、きっとそうだ。私、気づいた。気づけた。今確実にレベル一つ上がった。

 なんてことを考えながら窓の外を見ていたら、ブレザーのポケットの中で携帯が震えた。しかもなかなか止まらない。メールだったら一回震えて止まるのに。

 なーによ、もう、なんて思ってブレザーのポケットを覗き込むと、サリ。

 え。

 サリ。

 サリからの電話やん!

 そんな唐突な。わっ、待って、待って。気持ちの準備全然できてない。でも嬉しい。凄く。嬉しい。

 あ、でも今は授業中。うーん、流石に電話には出られない。出たい。思ったけど、そんなことしたら先生、さすがに怒るやろうなぁ。先生、怒ったら怖そうやもんなぁ。そのアイドルグループの女の子も怖かったやろうなぁ。多分。あー、もう。

 なんて思ってる間に電話は切れた。

 あー、もーう。私は今の気持ちを何かにぶつけないことには納得がいかなくて、黒板の前でよく分からない偉人の名前をずっと繰り返してる何の罪もない先生を睨んだ。別に気付いてなかったけど。

 てか、電話何やったんやろ。そもそもサリからの電話なんて珍しい。あんまり無いことだ。普段はだいたいがメール、電話は集合時間に遅れる、とかそんな時くらいしかない。

 なんやろ。何か急ぎの用事やったんかな。わー、気になる。気になる。時計を見るとまだ十一時半。まだあと三十分近く授業終わらないよー。気になるよー。早く電話かけたいよー。声が聞きたいよー。

 するとまた携帯が震えた。今度は一回。メールだ。見るとサリやった。

《ごめん。今、授業中だった?》

《うん、どうしたの?》

 返事はすぐしちゃダメだって誰かに聞いたことあるけど、そんな歌もあるけど、私はすぐに返事を返す。

《今日、バイト二十三時までなんだけど、その後ちょっと会える?》

 え、会える、会える。超会える。めっちゃ会える。

《大丈夫やで》

 なるべく大人しめに返す。テンションが上がってることを悟られたらダサいし。冷静に。

《じゃ二十三時過ぎにうちまで行く》

《了解》

 わっ、決まった。

 今夜、久しぶりやなぁ。一週間ぶりかしら。サリと会える。

 再び窓の外に目をやる。

 不思議とさっきより空気が暖かい。桜、もう咲いてるんじゃないかってくらいに。

 そして景色が美しい。

 民家の屋根瓦がやたらと艶っぽくて綺麗。風で樹々の緑が揺れてる。それもやっぱ美しい。

 あ、あれだ。

 これ、あれだ。

 そう愛の力。

 なんて思って。

 ばっかだぁ、私。そんなこと、思ったら思ったで恥ずかしくなっちゃって。私の頬が桜色に染まってる。

 鏡を見なくても分かる。きゃー。恥ずかしいからブレザーの袖から余分に出したセーターで口元を隠した。それで何とか日本史の授業を最後までやり過ごした。



 夜、二十二時半。

 私は部屋の窓際に椅子を置いて一人外を見ている。何もない。特に。子供の頃から見ている何の変哲もない住宅街だ。

 でも夜の匂いは不思議だった。

 特に今くらいの、春の夜の匂いが私は一番好き。そこには何とも言えない甘さがあり、その甘さは周りの景色をやたらとくっきりさせていた。

 春ってやっぱりいいな。三十分後にはサリが来るからか、明るいことを考える。

 夏が来る時、嬉しいながらも、暑くなるねぇ、なんて言って身構える。

 秋が来る時、嬉しいながらも、涼しくなってきたねぇ、なんて言って哀愁漂う。

 冬が来る時、嬉しいながらも、寒くなるねぇ、なんて言って備える。

 でも春が来る時、暖かくなってきたねぇ、なんて言って、ここにはもう希望の、プラスの要素しかない。これはちょっと、なかなか凄い。完全なプラス。あんまり無いよね。私にとってそれはサリみたいやな。希望、絶対的なプラス的な。サリが春みたいなのか、春がサリみたいなのか、どっちでもいいけど、なんか良い。うん、すごく良い感じ。

 でもサリが春なら私は何やろう。サリが春なら私は別に春じゃなくてもいいや。希望って、あたたかさって確かに良いんやけど、別にみんながそうである必要はないと思う。二人とも春なんて、幸せやけど、なんか温泉でのぼせちゃったみたいな、間抜けな気もする。

 サリが春なら私は他の季節でいいよ。

 うだるような夏の暑さと、消え入りそうな冬の寒さをあなたにあげる。たまに秋の哀愁も。

《店、暇やから早く上がれたわ。今から行く》

 二十二時四十五分、メールが来た。

 サリは居酒屋でバイトをしてて、たまにこういうことはある。少しでも早く来てくれるの、歓迎。浮き足立つ。私は春物のロングコートを羽織り、そのポケットに携帯だけを入れてさっさと部屋を出た。

 そしたら階段のとこで、ちょうど二階に上がって来た務と鉢合わせた。

「何? どっか行くの?」

「え? いや、そんなわけないやん。こんな時間から」

 私は咄嗟に誤魔化す。

「もう二十二時半過ぎてるもんな。門限」

「そうそう。そうだよ」

「にしては何かしっかりしたカッコしてるやん。ネックレスまで付けて。いつも家の中ではスウェットかジャージやのに」

 そう言って私をじっ、と見る。疑いの目。

「たまたまよ。今スウェットとか、洗濯に出しててこれしかなかったの」

「ふーん。あ、そ。まぁ、何でもいいけど。俺はもう寝るわ。明日も部活の朝練あるし」

「あ、そう。おやすみ」

「うん」

 そうしてすれ違う。でも私が階段を降りようとした時、

「姉貴」

「何よ?」

「てっきりデートかと思ったよ」

 そう言って、ちょっと笑って自分の部屋に入って行った。

 あいつ……

 昔はお姉ちゃん、お姉ちゃんて言って可愛い弟やったのに。最近ではすっかり生意気になった。

 中学でバスケ部入って、何か知らないけどけっこう上手いらしくて、背もいつの間にか私よりだいぶ高くなった。同級生の話では、割と強いうちの高校のバスケ部の中でも一年ながら何やらいい感じらしい。すごいらしい。余談やけど、私も中学の時はバスケ部やった。でも全然上手くならなかった。試合にもほとんど出られなかった。どないなっとんねんDNA。私のDNA。

 あー、でも昔の務はほんと可愛いかったなぁ。小さかったし。小二の夏なんて、お姉ちゃんが行かないなら僕、ボーイスカウトのキャンプ行かない、なんて朝からぎゃんぎゃん泣いて、両親を困らせて。私はその時、一生あんたのこと守るからねって強く思ったのに。もう知らないから。一人で泣いとけ。別に泣いてないけど。

 て、務のことはもういい。

 抜き足差し足で一階まで降り、リビングを覗くと、お母さんが一人テレビを見てた。ダウンタウンの番組。あれ? こんな時間にやってたっけ? 録画? どっちでもいいけど。なんかげらげら笑ってる。そっとリビングの扉を閉めて玄関へ。

 玄関にはお母さんのサンダル、私の学校行きのローファー、務のナイキのスニーカーが置いてあった。お父さんの靴は無い。お父さんはまだ帰って来てない。うちのお父さんはタクシーのドライバーで、帰りは遅い。だいたい毎日深夜一時か二時くらい。今日も夕方一度帰ってきて、夕飯を食べてまた出て行った。大変な仕事だわ。

 私は少し迷ったが、音を立てないように靴箱からお気に入りのパンプスを出し、誰にも見つからないように静かに家を出る。

 空を見ると星が綺麗やった。

 サリはまだ来ていなかった。だから私は家の前にしゃがみ込んで一人夜空を見てた。

 あー、星、ほんと綺麗。

 散りばめたみたいで。ここでもこんなに見えるんやから、もっと空気の澄んだ田舎とか、山の上とかで見たらもっと凄いんやろなぁ。それこそほんまにビーズの箱を黒の画用紙にひっくり返したみたいに。私は父方も母方も実家が割と近いし、田舎とかよく知らないからそういうの見たことないけど、一度見てみたいなぁ。

 それにしても雲一つない。この感じだと明日は晴れやな。晴天。よく秋晴れっていうけど、春晴れ。春晴れってあんの? あってもいいよね。秋があるんやからさ。

 だけどちょっと寒い。

 夜はまだ寒い。スヌード持ってくればよかった。

 なんて思っていたらサリが原付に乗ってやってきた。私の前に停まって、不思議そうな顔をする。

「何してんの?」

「待ってたのよ」

 そんなん聞くな、バカ。無神経。

「家の中で待ってたらいいのに」

 サリが長い足を折って原付を立てかける。寒いからか、防寒でスノーボードのウェアを着ていた。

「別にいいやん」

「別にいいけどさ」

 サリはヘルメットを外して原付の座席の中に入れた。そしてスノーボードのウェアを脱ぎ、それを乱雑にミラーに掛ける。

「待ってたのよ」

 あ、しまった。

 もう一回言ってしまった。

 しかも無意識に頬をちょっと膨らまして、女の子っぽい、可愛い感じで言ってしまった。うわー、嫌だー、そんな女。自分でもそう思うよ。でも出ちゃったのよ。無意識に。仕方ないでしょ。バカ。

 サリはまた不思議そうな顔をしてちょっと笑って、「そっか」なんて言うから、もうその笑顔もくしゃっとしててカッコ良かったから、私も普通に「うん」なんて言ってしまった。

 でもさぁ、そこは「ありがとう」やろ。私、待ってたんやからさ。まぁ私が勝手にやったことやけど。

「あ、ちょっと寒いなぁ」

「うん、夜はまだちょっと寒い」

 原付用にしてるスノーボードのウェアを脱いだサリはシャツと薄手のセーターだけで、上着は着てなくて、それは流石に寒いやろう、と私は思った。

「着たら? もっかい。その上着」

 私は原付に掛けられたスノーボードのウェアを指差す。

「いや、いいよ」

「だって寒いやろ」

 私は自分のロングコートの前ボタンをとめる。

「これくらいなら、いい」

「そう」

 するとサリは私の頭に手を置いて、まるで子供にやるみたいにくしゃくしゃと頭を撫でた。

「久しぶりだな。元気してた?」

「うん」

 嬉しい。

 けど、ちょっと複雑。

 私の身長は百六十センチ弱で、同世代の女の子の平均くらい。決して小さくはない。でもサリはもっとずっと大きくて、そんなサリから頭を撫でられると、私は本当に自分が子供になってしまったみたいな気持ちになる。

 でもそれはけっこう悔しくて。私はサリより歳下やけど、彼女やし。メールとか来たら浮かれるけど、やっぱそこは対等にありたいって思ってたから。

「歩こうか」

「うん」

 夜の密会。

 密会って言い方はなんか嫌やけど、現実的に私は家族の目を盗んでサリに会いに行ってるわけで、だからこれは一応、密会ってことになるんやろうなぁ。でもそうでもしないと大学とバイトで忙しいサリにはなかなか会えない。

 夜の密会はいつもサリがうちまで原付で来て、二人で近所をぶらぶら歩きながら話をする。夜の市街地。たまに犬の散歩にすれ違うだけで、基本的には誰もいない。夜は、私達二人だけの街みたいになって。

 それで今日も歩きながらいろいろな話をした。

 てか、私がいろいろ話した。

 いつもそうだ。会えない時間にいろいろ話したいことがたまって、こうやって会えた時に一気に話す。話してしまう、とも言える。サリはいつも、うん、うん、なんて相槌を打って優しく話を聞いてくれるんやけど、自分の話はあんまりしてくれない。ほんとのことを言うと、もっとサリの話を聞かせてほしいなぁ。何を食べたとか、友達とどんな話をしたとか、最近どんな音楽を聴いたとか、何でもいいから聞きたい。

 あ、でも逆にそれでサリが話し過ぎて私の話を聞いてくれなくなったら、それはそれで嫌やなぁ。私だってたくさん話したいのー、なんて思うんやろなぁ。難しい。大事なのはバランスなんだ。うーん、バランス。街中で腕組んで歩いたりしてる彼氏彼女は、最初からバランスが良かったのかなぁ。それとも時間をかけて良くなっていったのか。もしかして実はみんな私みたいな悩みを抱えていたりして。

 まぁ、いいや。

 私は今のままでもけっこう幸せ。

 そりゃー、欲を言えばキリはないけど。

 今日だって幸せ。私はまたいろいろ話をしてる。サリはそれを聞いてくれる。それって幸せ。てか、最近気付いたんやけど、あんまり幸せやと逆に頭が冷静になる。

 待ってる時間、さっき一人で家の前で星を見てた時やったり、メール見て部屋を飛び出した時やったりの方がもっと空を飛んでた気がする。何でやろ。待ち望んでた瞬間は紛れもない今やのに。

 歩き疲れた私達は近所の公園の幅の広い滑り台に横になってみる。

「家、大丈夫だった?」

 滑り台の、鉄の感触が背中に冷たかった。横を見るとサリの横顔がすぐ近くに見えた。

「うん、お父さんが帰るまでに戻れば大丈夫やと思う」

「そっか」

 サリは「そっか」が多い。私はそれ、あまり好きじゃないんやけど。

「ね、サリ。星が綺麗」

「え?」

「星よ。星。見てよ。綺麗でしょ」

 滑り台の角度がちょうどいい感じで、空が一望できた。私はそれを指差す。

「あー、ほんとだ」

 サリは相変わらずぼやっとした目をしてる。

「サリが昔住んでたところも星、綺麗やった?」

「うん。綺麗だったよ。まぁドが付く田舎だからな」

「ふーん。どんなとこやったん?」

「何もないところだよ。遊ぶとことか全然無いし。カラオケとかボーリング場とかそういうのまったくなかった。あるのはほんと海と山だけ。十八まで俺はそこでひたすら絵を描いて暮らしてた」

 そう言って笑う。

「どこなんやっけ?」

「言っても分からないって。ずっと北の方。寒いとこ。ほら、だから俺、寒いの強いの」

「寒いところかぁ。私、寒いのは苦手やなぁ」

「薫は寒いのダメだよな。でも良いところだよ。何も無いけどさ。空気は綺麗だし、野菜は美味しいし」

「行ってみたい。寒いの我慢するからさ」

「いつかね」

 サリが頭の後ろで腕を組む。セーターの肘が私の頭の斜め上まで来てる。ほんとすぐ側に。

「サリ、大学は楽しい?」

「うん。楽しいけど、何で?」

「うーん。来週で高二も終わりやからさ。そしたら来年は高三で、だから春休みの間にちょっと進路のこと考えておきなさいって、先生が今日言ってたから」

「そっか。薫は大学に行くつもりなの?」

「うん。行くかな、多分。友達はみんな行くと思うし。私も」

「みんなが行くから行くのかよ」

 サリは笑った。

「笑わないでよー」

「大学で何したいの?」

「全然考えてない。やりたいことなんて全然分かんないもん」

「じゃ別に大学行かなくてもいいんじゃねぇの」

「そういうわけにはいかないわよ」

「何で?」

「何でって言われると……」

「みんな行くから?」

「まぁ、そうかな」

「そっか」

 サリはまた笑った。ちょっとやけど。

 でもサリが不思議がるのも仕方ない。サリは何もない田舎から絵の勉強をするためだけに都会に出てきた。美大に入った。やから私みたいに中途半端に大学へ進学する、という気持ちが分からないんやろう。

「まぁ、やりたいことをやりなよ」

「うん」

 そんなこと分かってるわよ。バカ。

 てか、私と同じくらいの歳の頃、サリはもう自分のやりたいことがはっきりあったんだ。それって何かすごいなぁ。途方もなく。カッコ良い。やっぱサリ、カッコ良いなぁ。で、私カッコ悪いなぁ。そう思った。サリみたいになりたいなぁ。心からそう思った。

 憧れって何か馬鹿みたい。他の人のことならそう思う。安直でもなんでも、さ。

 やけど自分のこととなると、こんなにもそれを正当化してしまうのか。不思議と。

 手を繋ぎたかった。

 手を伸ばせばすぐそこにサリはいて、こんなチャンスはなかなかないんやけど。あー、もう。私の手はダメで、無意味にもじもじしてて。そういうとこ臆病で、変に子供で。

 春の夜。星空の下。綺麗な夜。

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