第一章 開戦

開戦(1)

 船は灰色の波を切り裂きながら、容赦なく前へ進んでいる。

 船首が上下するたび、甲板に打ちつける雨が跳ね、しぶきと混ざり合って顔や首筋に冷たく貼りついた。

 さっきよりも雨脚は強くなっていた。甲板の上では溝を走る細い川が途切れることなく流れている。水滴が鉄板の上を滑る音は、まるで何かが逃げる足音のようにも聞こえる。

 船体の揺れも、徐々に大きくなっている。足の裏が吸い込まれるような感覚に耐えるため、つま先と踵に力を分けて踏ん張る。

 潮と濡れた鉄の匂い。それに混じる油の重たい匂いが、胸の奥をざらつかせる。呼吸のたびに肺の中に鉄粉が溜まっていくようで、吐く息がひどく重く感じられた。

「ユウ」

 背後から、ジョージが低く呼んだ。声は低く、海鳴りに半分かき消されながらも、すぐに届く。その声の奥には、戦地へ向かう兵士としての堅さと、故郷へ帰る青年としての震えが同居している。両方がせめぎ合って混じり合う、複雑な響きだった。

「なに」

振り返らずに応えると、間を置いて彼が続ける。

「もし、もしもだ……。向こうに、あの頃の誰かがいたら、どうする」

 雨粒が彼の頬を伝い落ちていく。それは確かに雨のはずだったが、俺にはそれが涙に見えた。だが、確かめる気はなかった。確かめてしまえば、互いに余計な荷物を背負うことになると分かっていた。

「会わない」

 即答だった。迷えば命取りになる。任務に私情を持ち込む余地は、砂粒ほども許されない。

 ――でも、本当に会わないで済むのか。

 胸の奥で、小さな声が囁く。

 名前を呼び合った日々の記憶。雨宿りしながら笑い合った商店街の軒先、古びた本屋の前で交わした何気ない会話。すべてが、フィルムのように色褪せず蘇ってくる。

 この作戦への参加を命じられたその時から、どうしようもなく頭にこびりついて離れない感覚があった。胸の奥をじわじわと侵食する気持ちの悪い予感。それはもやもやとした不安でもなく、近い将来、確実に何かを失うという確信に近かった。

 沈黙の後、ジョージの胸ポケットで無線機が小さく震え、ノイズの混じった音が広がった。

「ジョージ・ローソン准尉、ユウリ・カールトン准尉も今一緒にいるな。時間だ、2人とも今すぐブリーフィングルームへ向かえ。クラーク中佐から指示を受けろ」

 俺たちは数瞬だけ互いに顔を見合わせた。その短い視線の中で、気持ちを切り替えることを確認し合う。俺たちはやることをやるだけだ――何度もそう自分に言い聞かせて、ここまで来た。ジョージの目にはもう迷いの色は見えなかった。俺は、いったいどんな目をしているのだろう。

 視線を外し、足を速めてその場を後にした。


 甲板中央にある階段を下りる。雨音は金属の壁に遮られ、かわりに換気扇の低い唸りと、遠くで鳴る機関のリズムが響く世界になる。

 照明は黄色くくすみ、金属板に映る影は薄汚れて揺れている。狭い通路の床は泥と靴跡で黒ずみ、鉄の匂いと湿気が混ざった空気が肌にまとわりついた。

 いくつかの区画を抜け、船体中央のエレベータに乗り込む。甲板からブリッジ近くのフロアまで上昇する間、揺れが上下に重なり、わずかに膝が震えた。

 ブリーフィングルームの前に立つと、中から微かに声が漏れていた。押し殺した怒声と、机を叩く指示棒の硬い音。

 ドアを押し開けると、作戦参謀のクラーク中佐が先に到着していた数名の士官に指示を飛ばしていた。

「地図をもっと寄せろ! ここが死角だ、ここだけは抜かれてはならん」

 中佐は俺たちを一瞥したが、すぐ地図に視線を戻す。

「今回の目標は第三区港湾施設の制圧だ。現地守備隊は旧式装備だが、地の利を持っている。油断するな」

 部屋の中央には、あの国の沿岸部を描いた大きな地図が広げられていた。

 俺とジョージは、無意識に地図上の一点――赤い印を見つめた。そこは10年前、何度も目にした地形だった。

 港湾施設、第三区。

 それは、俺たちがかつて暮らしていた街のすぐ隣だった。学校帰りに通った商店街、雨宿りしたバス停、夜遅くまで明かりのついていた喫茶店。記憶の中の風景が、無機質な線と記号で塗りつぶされている。

「……よりによってここか」

 ジョージが小さく呟いた。

 この作戦が終われば、俺たちが知っている街並みは跡形もなくなるかもしれない。

 いくら気持ちを切り替えようとしても、昔の記憶は無遠慮に割り込んでくる。

「ジョージ・ローソン准尉、ユウリ・カールトン准尉」

 中佐が俺たちを見据える。

「お前たちは先遣部隊に同行し、港湾施設の北側を突破して味方を引き入れろ。現地の地形を知っているのはお前たちだけだ」

 胸の奥が重く沈む。喉の奥がひりつき、唾を飲み込むのが苦痛になる。

 それはつまり、かつての自分の居場所、故郷の思い出を、故郷の人々を殺すために使うということだった。

 俺たちが知っている地形、抜け道、建物の構造。その思い出のすべてが、戦争のための冷たい情報に変わる。

「了解」

 軍人としての口が勝手に答える。

 だが、頭の奥で別の自分が「それでいいのか」と囁く。

 ――祖国を守るため。

 そう言い聞かせても、喉の奥の苦味は消えなかった。

 作戦の詳細が読み上げられていく。

 上陸は夜明け前。砲撃と航空支援で沿岸防御を叩いたあと、輸送艇で部隊を一気に送り込む。港湾の制圧が最優先だが、民間人の避難は「現地の判断に委ねる」とだけ告げられた。つまり、上層部には何も守る気などないのだ。


 ブリーフィングルームを出ると、通路の蛍光灯が点滅を繰り返していた。天井から落ちる雨漏りの雫が、床に小さな水たまりを作っている。

「なあ、ユウ」

 ジョージが立ち止まって俺を呼んだ。

「なんだ」

「もし、あの頃の誰かに……会ってしまったら、どうする」

 さっき甲板で聞いた質問と同じようで、しかし全く違う響きだった。今のそれは、曖昧さを捨て、俺たちの覚悟を直接確認する問いだった。

「会わない」

 即答した。あえて同じ言葉で。自分の声が思ったよりも冷たく響いた気がした。

 ジョージは少しだけ目を伏せ、ぽつりと言った。

「……会わないと、いいな」

 数時間前にも聞いたようなその言葉には、祈りのような響きと、恐れの影が入り混じっている気がした。

 通路の向こうから汽笛が鳴り、船全体が低く震える。

 俺たちを故郷へ、戦場へと運ぶ音だった。

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