ビタースイート

天草 瀬戸香(杵築)

「海」

「は?」

「海行きたい」

「どうしてまた」

アブラゼミが鳴き終わる頃の、放課後の教室。彼女は机に伏せたまま、いつものように唐突な発言をした。

「なんだっていいでしょ?私は海に行きたいの」

「期末テストは?」

「あかてーん」

そう言って彼女は、40点にも満たない答案用紙を、なんの恥じらいもなく僕の鼻先に突きつけるようにして見せた。……こういうとこ、幼稚園のときからホントに変わってないよな。

「ね、行こ?せっかくの高校最後の夏休みだもん、謳歌しなきゃ」

「……じゃあ、交換条件だ。追試に合格したら、ついて行ってあげるよ」

「は?無理」

「即答かよ……」

言い切った瞬間に返された。格ゲーマニアも真っ青なゼロフレームのレスポンスだ。

顔をあげて窓から校庭を眺めていた彼女は、窓ガラスに指でくるくると円を描くようにしながら頰を膨らませる。

「無理に決まってるじゃん。私に数Ⅲで及第点取れって、ピーマンたっぷりのスープを飲み干せって言ってるのとおんなじようなものだよ?」

「そこまでか……」

僕は呆れて何も言えなかった。彼女は、苦いものが大の苦手なのだ。幼稚園で年長だったとき、僕の弁当に入っていたピーマンの肉詰めを食べて、目の前でさも当たり前のように嘔吐した彼女を見たから知っている。……というか、そのときの光景がトラウマで、僕もピーマンはそんなに得意じゃなかったりする。

「知ってるでしょ?苦いもの、昔から苦手だって」

「わかってる、わかってるよ」

うちに来るたびに、砂糖の入った壺がカラになるくらい紅茶を甘くする人のことはそう簡単に忘れまいよ。

「お願いだからさー、頑張るからさあ!私に数学を教えてっ!」

「いや、それじゃあ交換条件ってした意味が」

「…………」

「…………まあ、いいか」

「やった!大好き!愛してる!」

「はいはい……」

彼女に震える小型犬のような潤んだ目で見つめられ、僕はしぶしぶお願いを聞いてやることにした。

やっぱり僕は、彼女にほろ苦い対応をすることができない。

だって僕も、苦いものは苦手だから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ビタースイート 天草 瀬戸香(杵築) @Amakusa_Setoka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ