第二五話 魔道都市妖宴(宴の始まり)
1
真冬の早朝。
降り積もった雪の中を、あたしは運転手にタクシーを飛ばして貰い、(弘前)大学(医学部附属)病院に駆け付けた。
片手に太刀を握り締め、病院の階段を駆け上る。
そして集中治療室の前。
厚いドアに付けられた、インターホンを押す。
「伊吹冷泉の親族の者ですが」と告げると、
「どうぞ」
と女性看護師の声がして、ゆっくりとドアが横に開いた。
あたしはその隙間に滑り込む。
入り口の右にある減菌用の手洗い所にも寄らず、奥へと進んだ。
いた。
そこには、冷泉・再従兄様がいた。
器械に囲まれたベッドに横たわり、酸素マスクを口に当て、身体中に管が取り付けられている。その横には伊吹家の伝家の宝刀・津軽正宗が持ち主を守り、置かれていた。
あたしは足の力が抜け、その場にしゃがみ込みそうになる。
それを兄様のかたわらにいた、赤いスーツの女性が支えてくれた。もちろん伊吹の人間で、腰には太刀を佩いている。
烈花・従叔母様だ。
「大丈夫よ、雪香」
しかし兄様は、青白い肌の色をしている。
大丈夫なわけがない。
「もう手術は終わったの。だからこの部屋に移されて、こうして親族の面会もできるのよ。ね?」
あたしは、すがり付いて言う。
「だけど烈花様!」
「安心なさい。あたしの、いいえ、あたしたちの冷泉は、こんなことでは死なないわ」
でも、でも。
烈花様が、兄様の手を握る。
「ほら、冷泉。雪香が来てくれたわよ。女の子に心配かけるなんて、あなたは悪い子ねえ」
涙がこぼれそうになるのを、ぐっと我慢した。
伊吹の人間は、人前で決して泣いてはいけないのだ。
「あなたも、手を握ってあげてちょうだい。早く目が覚めるように」
あたしは兄様の手を握った。いつも冷たい手が、今日はあまりにも冷たかった。
2
我(わ)は『長老の間』に、長老会の12人の者たちを呼び出した。
「こんな時間に何であろうか」
「緊急の用事かな?」
我は答える。
「うむ。『約束』を破ることは、できないのであろうか? 天狼との戦いにより、憎き伊吹の裔、冷泉は地獄に落ちかけている。今こそ新しい戦士を送り、その息を止め、忌々しい太刀をへし折るべきではないのか?」
長老が笑った。
「うむ、やっと鬼皇としての立場に目覚められたか。これは僥倖、僥倖」
何が僥倖だ。最初から、そのつもりだったくせに。
「だが焦ることはないぞ、紫苑・鬼皇よ」
「そうじゃ、そうじゃ」
「天狼のおかげで、伊吹の者も懲りただろう。しばらくは放って置くがよい」
何を言っている。天狼の死を、無駄にする気なのか。
「紫苑・鬼皇よ。『約束』は絶対なのだ。次の機会を待つべきである」
『約束』。
それは、我らの祖が取り決めたものだ。
ひとつ。我ら正統な鬼族は、呪われた太刀を持つ伊吹の者としか、相まみえてはならぬ。
ひとつ。我ら正統な鬼族は、呪われた太刀を持つ伊吹の者とは、正々堂々と相まみえねばならぬ。
くだらない!
あまりにもくだらない、カビの生えた決まりごとだ!
「『約束』が我らにはある。冷泉が地に足を付けるのを待ち、それから再び挑むのが宜しかろう」
「そうだ、我らは長命なのだ。急ぐことはなにもない」
そんな悠長なことを言っていられるか。
「やはり『約束』に、我ら鬼族は縛られねばならぬのか?」
「まあ、そうとも限らぬ」
「『約束』に縛られぬのは、まず『名前』を持たぬ鬼」
「我らが聖地、魔道都市・弘前を守る結界が今、破れています。もちろん、あの汚れた太刀を持つ、正式な者が倒れているからです」
「だから『名前』を持たぬ鬼たちは、日が沈むとともに、冷泉が弱った今こそがチャンスなのだと、首をはねるため必死になることだろう。もちろん褒美として、紫苑・鬼皇から『名前』を頂くためだ」
『名前』を持たぬ鬼か。だが、奴らの大半は弱い。冷泉の周りには、伊吹の者たちがいるのだ。可能性は低いだろう。
「次に、人から鬼に転じた者。彼らの多くは名前を持つが、『約束』には縛られない」
転じた者は極めて少ないし、我ら正統な鬼族には服従しない。彼らを戦士として使うのは無理だろう。
「次に、主を守るために戦う場合は、『約束』に縛られぬ。その後、彼らは『約束破り』となってしまうが」
『約束破り』。
そうか、奴らがいたか。
「そして『流れ者』。これは自ら『約束破り』をした、風上にも置けぬ者たちだ。鬼ではなく、ただの獣に成り下がった者たちだ」
我は問う。
「『約束破り』なら、伊吹の者どもの誰と戦おうと勝手なのだな? 奴らを蹴散らして、寝ている冷泉の首をはねても良いのだな?」
「宜しかろう」
「ならば」
我はつい大声になる。
「この里に、『約束破り』はいないか! それも手練れの者だ!」
長老たちは眉をしかめる。
「情けない。『約束破り』を戦士として使うなど、鬼皇としてあまりにも恥ずべき行為」
「構わぬ!」
「これで最後にして頂こうか。長老会としても、我らの祖に顔向けができぬ」
つまり。
「いるのだな!」
「ああ。一人おる。たまたまこの里にぶらりと立ち寄った、『流れ者』じゃ」
「名は何と言う!」
長老は、いかにも汚らわしいというように吐き捨てた。
「臥竜(がりゅう)という、腐れ外道じゃ」
3
女性看護師が、あたしたち二人に、やんわりと退室を促した。
伊吹家に仕える者の一人、檸々(ねね)だった。彼女は確かに、看護師の資格も持っている。
「後は頼むわ」
「はい!」
「大丈夫だとは思うけど、何かあったらいつでも呼んでね。あなたも無理せず、適度に休むこと」
「ありがたいお言葉です!」
だが、無理をするだろう。
伊吹家に仕えるというのは、そういうことなのだ。
あたしたちは、集中治療室を出た。
4
家族待合室に入ると、光明・父様がいた。もちろん脇には、太刀を置いている。
「お前も来たのか。母様は許さなかったのではないか?」
「説得致しました」
「そうか。まあ、あれも伊吹の者だ。自分の身ぐらい、自分で守れるだろう」
津軽正宗の持ち主である兄様が倒れたことにより、魔道都市・弘前を守る結界が今、失われている。
だから、これが兄様の首を討つには良い機会だと、鬼たちは夜になると同時に、こぞって侵入して来るだろう。
我々、伊吹の者たちは、その鬼たちから兄様を守るため、結集していた。病院の周りを、警護しているのだ。
また、もちろん鬼たちは兄様だけでなく、当主様をも狙ってくる。伊吹のお屋敷も、たくさんの親族によって警護されていた。
さらに鬼たちは、伊吹の末裔たちとも、あちこちで戦いを繰り広げることになる。
一般人を襲うことは、まずない。なぜなら、伊吹の者を根絶やしにすることが鬼たちの悲願なのだし、その首を持ち帰れば、奴らには正統な鬼族、鬼同士の両親から生まれた鬼の貴族から、莫大な褒美が与えられるからだ。
この状態は、現在の正式な持ち主である兄様が目覚め、その手に津軽正宗を握った時に終わりを迎える。
それは津軽正宗が持つ、霊的な力のためだ。
そして。
このような戦の状況を、我々、伊吹の者は何と呼んでいるか。それはーー。
「雪香、座りなさい。いざという時のために体力を温存しておくのが、伊吹というものよ」
「はい」
ベンチに腰かけたあたしに、烈花様がタオルケットを手渡してくれた。
「今日は冷えるわ。あなたに風邪をひかせたら、あたしが冷泉に叱られてしまう」
烈花様は、そう言って笑いかける。
あたしは頷くだけで、笑顔を返すことができない。
低いテーブルの上には、おにぎり、サンドイッチ、お菓子、ポット等が並んでいた。
タオルケットも含めて、檸々が揃えてくれたのだろう。彼女は、とても気が利く。
しかし、これは長丁場になるということなのか。
それにしても。
「誰が兄様を夜中、病院まで運んでくれたのですか?」
「それがわからないのだ。伊吹の者であることは、確かなのだが」
「倒れた冷泉にとどめを刺そうと集まる鬼たちを、食い止められるのは伊吹の者しかおりませんからね。名乗り出ないのは、何か理由があるのでしょう。うん、叱られるほど酔っていたとか、良からぬ恋の相手と一緒だったとか」
そんなことが、ありえるものだろうか?
「考えても仕方ないぞ。それよりも」
父様が、ポットのひとつをあたしの前に置いた。
「来たばかりですまないが。ロビーで見かけただろう? 光輪が、この病院を守る者たちに指示を出している。コーヒーを持って行ってくれないだろうか」
「承りました」
あたしは太刀とポットを持って、立ち上がった。
5
「兄様は、相変わらず嘘が下手ねえ」
烈花は言った。
「雪香には、聞かせたくない話があるのでしょう?」
まさか向こうから、振ってくるとは思わなかった。
俺はおもむろに口を開く。
「聞くまいと今まで思っていたのだが、急に気が変わった」
「何でしょう?」
「育ての親のお前なら、先生から聞いているのだろう。冷泉の様態は、どれくらい悪いのだ」
すまぬ。やはり伊吹の人間として、万が一のことを考えておかねばならない。
烈花は、いつもと変わらぬ表情で言った。
「今夜が、山だそうです」
6
我は『鬼皇の間』に、その『流れ者』を呼び出した。
玉座から問う。
「汝(な)が、臥竜か」
その男は、あぐらをかいている。
「その通り。お前が紫苑か。愛(め)ごい女童(おなごわらし)だな」
周りを取り囲む臣下たちの、空気が変わった。
我は、そんなことは意に介さないふりをする。
「『約束破り』だと聞く。何をした?」
「伊吹の女を襲い、犯した。その後、ばりばりと食らってやった」
なるほど。まともな鬼族ではないらしい。
「頼みがある。津軽正宗の持ち主、伊吹冷泉の首が欲しい。褒美は何でも取らせるぞ」
臥竜はその場に、ごろりと横になった。片肘を枕にして言う。
「まず第一に、それは人に物を頼む態度ではないな。その、ごてごてした椅子から、ここまで下りてこい」
臣下が怒鳴る。
「ふざけるな!」
「紫苑・鬼皇様の前で、お前こそ、その態度は何だ!」
我は、手を挙げて制す。
「良い。この者の申すことにも一理ある。すまなかった」
我は玉座を下り、正座する。
そして頭を下げて。
「頼む。何としても冷泉の首が欲しい。引き受けてくれぬだろうか」
「お前は礼儀を知っているようだな。考えてやってもいい」
「繰り返しになるが、何でも褒美を与える。金でも土地でも、なるべく意に添うようにするつもりだ」
「そんなものいらねえよ」
臥竜は言った。
「金など人間から奪えばいいし、土地など『流れ者』には何の価値もない」
我は尋ねる。
「では、何が欲しい? 我は、できるだけのことはするつもりだぞ」
「そうだなあ。前払いなら、やるぞ」
「わかった。それで構わん。言ってみろ」
臥竜は下卑た笑いをしてから言った。
「お前を抱かせろ」
7
臣下の者の中には、すでに刀に手をかけている者もいる。それも一人ではない。
「紫苑・鬼皇様、もう我慢ができません! 切らせてください!」
「ならぬ」
我は言う。
「この者だけが、我の願いを叶えてくれるのだ。だが、我の身体などでいいのか? それほど、魅力ある褒美とは思わないのだが」
「どうも人間を抱くのは、つまらなくてなあ。力を入れると、すぐに壊れる。同族なら、もう少しは楽しめるかもしれない。さらに、どうせ同族を抱くなら、その一番の姫様が愉快だろ?」
「わかった」
我は立ち上がる。
「寝室に参ろう。ついて来い」
「紫苑・鬼皇様! なりませぬ!」
我は臣下の、その声を無視した。
「寝室? そんな必要はねえよ」
「何?」
「この場で抱かせろ」
臣下が怒鳴る。
「もう我慢ができません!」
「死んで償いますから、この『流れ者』の首を落とさせてさい!」
「良いのだ」
我は言う。
「臣下の者たちも、下がる必要はないぞ。良く見ておけ。そして末代までの語り草にするがいい」
我は、その場で服を脱ぎ始めた。
8
家族待合室で、あたしは膝を抱えてタオルケットにくるまっていた。
父様も烈花様も、無言で新聞や雑誌を読み、まるでレストランで食事が届くのを待っているかのようだ。
あたしは兄様のことが心配で、気が気でない。雑誌を一度、手に取ってみたが、頭にまったく入って来なかった。
膝頭の上に顔を埋める。
こうすれば涙が不意にこぼれても、二人には気付かれないかも知れない。
父様の携帯が鳴った。
「俺だ。うむ、うむ。わかった。宜しく頼む」
電話を切る。
「誰ですか?」
烈花様が尋ねる。
「光輪だ。なあに、ただの定時報告。現状、未だ問題なし、とのことだ」
あたしは今まで光輪・叔父様を、心のどこかで見下していた。剣技に劣るため、父様とは違い当主争いにも加われなかった人だ。今は常に、伊吹の人間なのに拳銃を持ち歩いている人だ。
だがコーヒーを持って行った時、ヘッドセットのマイクに次々と指示を発しながら、膝に乗せたノートパソコンを叩いている姿を見たら、それが過ちだったのだと思い知らされてしまった。
叔父様は、太刀を握る者とは違う形で戦っている。兄様を警護する者たちに、コーヒーを口にする暇さえなく、指示を与え続けるという形で戦っている。
そうなのだ。
光明・父様、光輪・叔父様、烈花・従叔母様。
光輝・当主様は、冷泉・再従兄様のために、少数ながら最強の顔ぶれを病院に送られたのだ。御自分の身を守るためよりも。
あたしは今さらながら、そのことに気が付かされていた。
9
烈花様が、「外の空気を吸ってきます」と言って立ち上がった。
「あたしも、ご一緒して宜しいですか?」
「うーん。外は雪が降っているから、やめておきなさい。あなたには、お留守番を頼むわ」
そう言って出て行った。
父様は、変わらず新聞を読んでいる。
こんな時、親子なのに、どんな会話をしたら良いのかがわからない。
だから、烈花様について行こうと思ったのだが。
「雪花」
突然、名を呼ぶ。拡げた新聞に隠れて、その顔は見えない。
「何でしょうか?」
「烈花の身体のことだ。心労でさらに弱っていること、気が付いていたか」
しまった。
烈花様は、病に蝕まれたお身体なのだ。
「いいえ。恥ずかしながら兄様のことだけで、あたしは頭が一杯でした」
「そうか。まあ、それが普通だな」
新聞のページを捲る。
「烈花は他の者、特に俺には、弱気なところを見せない。お前なら気に入られているようだし、女同士のこともある。支えてやってくれないか」
「わかりました」
「烈花を追いかけてやれ。一人泣きたかったとも思わん。ならば誰かが側にいた方が、心強いこともあるだろう」
「はい、そのように致します」
立ち上がったあたしに、また父様が声をかけた。
「それから、だ」
父様は、新聞を下ろした。
「お前は、冷泉に惚れているな?」
あたしの顔を、じっと見る。
ああ。
あんな目をされたら、隠すことができるはずもない。
「はい。その通りです」
「月に一度、冷泉に伊吹家秘伝の『技』を教えているだろう」
父様は、すべてご存じだったのか。
「俺は、お前に次代当主になって欲しい。だからお前には、俺が学んだ限りの『技』を教えるつもりだ」
「はい」
「だが、お前が学んだ『技』を誰に教えようと、それはお前の勝手だ。好きにするがいい」
ああ、父様。
「しかし学ぶ以上に、教えるのは難しいものだぞ。半端な気持ちなら、やらぬ方がましだ」
「ありがとうございます。そのお言葉、決して忘れません」
「それにな」
父様は、また新聞で顔を隠してしまった。
「月に一度では足りぬようだぞ。せめて二週に一度にしてやれ」
あたしは、父様に頭を下げた。
10
「つまらなかった」
臥竜は言った。
「じつに、つまらなかった」
我は、唇をきつく噛み締めたままだ。
「人間の女なら泣き喚きもする。命乞いもする。それを犯しながら殺すのも、また楽しいものだ。だが、お前はどうだ。喘ぎ声はもちろん、何の声も出しやしない。まるで人形を抱いているようなものだったぞ 」
「ならば約束は、なしか?」
「ああ、なしだ」
所詮、これが『流れ者』ということか。
臥竜は我の顔を見て、大声で笑う。
「冗談だぞ。それでも顔色ひとつ変えないのか。まったく、本当にお人形様だ!」
「すまぬ。冗談だとは思わなかった」
「最初は引き受けた後、とんずらするつもりだったんだぜ。俺は強い。同族に追われて暮らすのも、楽しいかと思ったんだがなあ。だが、気が変わっちまった。やる。冷泉の首、必ず持ち帰る。だからその時は、もう一度抱かせろ」
一度も二度も、変わるものか。
「良かろう。約束する」
臥竜が突然、我の尻を平手打ちした。
「あん!」
思わず声が出てしまう。
再び大声で笑った後、臥竜は言った。
「ああ、いい声だ。次はもっと、そんな声で啼いてくれよ」
11
烈花様は、玄関から少し離れた場所にいた。
この雪の中、置かれた灰皿の横に立ち、煙草を吸っている。
「あら」
烈花様は言う。
「見られちゃったわね」
「煙草を、お吸いになるとは知りませんでした。お身体に悪いのではないですか?」
「落ち着かなくなったら、急に吸いたくなってねえ。これは内緒よ? 特に冷泉には」
烈花様にも、落ち着かなくなる、何てことがあるのか。
「もちろんです。しかし、いつからですか? 烈花様の身体から、煙草の匂いを嗅いだ記憶はないのですが」
烈花様は、舞い散る雪の中に、ゆっくりと煙を吐いた。
「みっともない話だけど、あなたぐらいの歳から吸い始めたの。普通とは逆で、二十歳には止めたのだけれど」
「はあ」
「冷泉の母、和泉姉さんは完璧だったのよ。それが惨めだったのね。ちょっと、不良というものになってみようかと思ったの」
「なれましたか?」
ふふふ、と笑う。
「伊吹の人間は、道を踏み外さないわ。踏み外したら、それはもう伊吹の人間ではない」
「そうですね」
烈花様は吸い殻を、灰皿に捨てた。
「そんなあたしに比べて、あなたはまっすぐに育っているわ。羨ましいくらい」
「そうでしょうか?」
「そうよ。あなたになら、冷泉を任せられる。いつまでも、側にいてあげてね」
「はい、もちろんです。しかし烈花様も、いつまでもお側にいて下さい。そうでないと困ります」
烈花様は笑みを浮かべただけで、何も言わなかった。
それから烈花様は、頭と肩に積もった雪を、手で払った。あたしの身体からも。
「寒い中、すまなかったわね。では、戻りましょう」
12
家族待合室に戻ると、ベンチとテーブルが片隅に寄せられ、マットが敷かれていた。
これも、檸々が手配してくれたのだろう。
叔父様が、いびきをかいて寝ていた。
父様が小声で言う。
「お前たちも寝ておけ。今夜は、忙しくなるぞ」
「そうね。嫌な感じがするわ」
あたしも伊吹の人間だ。烈花様と同じ予感がしていた。
眠れそうにないが、マットに横になる。
兄様。
あたしの兄様。
横になり周りが静かになると、今まで考えまいとしていたことが、あたしに襲いかかってくる。
だめだ。
泣いてしまいそうだ。
烈花様の手が、あたしの頬を軽くつねった。それは烈花様の癖だった。
「起きているでしょう。伊吹の人間なら、どんな時でも眠れなきゃだめ。ね?」
「はい」
あたしは、タオルケットで顔を隠した。
やはり兄様のことが心配で、少し泣いてしまった。
13
うとうとしていたあたしを起こしたのは、話声だった。
窓の外は、すでに暗くなっている。
叔父様が、電話に向かって話している。
「そうか。わかった。無理はしないでくれよ。何かあったら、当主様に申し訳ない」
もう皆にはわかっていた。
鬼が来るのだ。
「兄様、鬼が来ます。見張りの者から、報告がありました」
「うむ。当主様の、お耳には?」
「もちろん見張りの者が、すでにお伝えしています」
あたしはマットの上に正座し、太刀を握る。
「急くな」
父様がたしなめる。
「防衛線を張っている。ここまで鬼がたどり着くかもわからん」
「そうよ。あたしたちが出る必要があるのかも、わからないわ。紅茶を貰える? あなたのいれてくれた紅茶は、とても美味しいもの」
「そうなのか?」
父様が尋ねる。
「それは知らなかったぞ」
「あら、父親として情けないことねえ。剣術の稽古より、もっと親子の会話を増やすべきだと思うわ」
「そうかもしれん」
和やかな雰囲気が、あたしにはかえって恐ろしい。
とても、戦の最中とは思えないからだ。
これが、伊吹の人間ということなのか。
あたしのティーポットを握る手は、少し震えていた。
14
潜り戸が開き、碧が現れた。
伊吹家のお屋敷の、正門に立っていたあたしに声をかける。
「あなたも中に入りなさい」
「紅の名を頂いた者として、従えません」
あたしは、そう答えた。
鬼が来る。
伊吹の者を一人でも討ち取ろうと、そしてできるものならば当主様の首を取ろうと、鬼がやって来る。
紅の名前は代々、お屋敷の門番が頂くものだ。そのお役目は例え死んでも、鬼を門の中に入れないこと。
もちろん門は、霊的な結界の入り口でもある。
「光輝・当主様のご命令です。逆らいますか」
「しかし。この場を離れては、代々の紅に申し訳が立ちません」
「もう一度言います。逆らいますか」
「伊吹家のために死ぬことを、許さないと仰るのですか」
「そうです。当主様は、あたしに仰いました。時代は変わるのだと」
涙が溢れた。
「悔しく思います。あたしは時代遅れなのでしょうか」
「いいのよ」
碧が、微笑む。
「あたしもまた、時代遅れなのだから」
15
叔父様が、またヘッドセットを付け、ノートパソコンを叩いている。
「そうか。それでいい。お前は救助に回り、逃げろ」
救助? 逃げろ?
「兄様」
叔父様が言う。
「厄介な鬼がいるそうです」
「被害は?」
「三人やられました。命に別状はありませんが、重傷です。救助させ、被害が増える前に、予定通り皆を逃がしました。いいですね?」
「うむ。その鬼を通してやれ」
「ならば、あたしの出番ですね」
烈花様が、太刀を手に取った。
父様も、同じく。
「俺の出番だろう。このような時は、年齢順と相場が決まっている」
「いいえ。あたしが出ます。剣の腕前で、兄様に劣るとは思いませんが」
「それは昔の話だ。俺も修練を重ねている。それに言いたくはないが、お前は女だろう」
「あら、それは男女差別。あたしは女とはいえ、当主代理の座に座る予定だったのですよ」
「座りは、しなかった」
「お願い」
あたしは見た。
烈花様の頬を、静かに涙が伝うのを。
「あたしに行かせてちょうだい。後生だから」
「ふん」
父様は言う。
「涙を使うか。それは女の武器だぞ。だから俺は、お前が嫌いなのだ」
「ごめんなさいね」
父様は、立ち上がった。
「冷泉の側には俺が行く。俺の太刀を抜かせるなよ」
烈花様も、立ち上がった。
「はい。それから、もうひとつお願いしてもいいかしら?」
16
伊吹のお屋敷の中には、たくさんの一族が集まっていた。
普段使われない『竹の間』には、鬼に襲われた時、身を守る自信のない女性たちと子供たちがいる。
「あ、紅だ」
「ほんとだ、紅だ」
伊吹の、まだ幼い子供たちが仰る。
「門は守らなくていいの?」
「いいのだそうです」
「ふーん。紅なのに、変なの」
「あたしも、そう思います」
あたしは、この部屋にいる皆様をお守りする、最後の砦になるよう仰せつかった。
もちろん、お屋敷全体を、伊吹の皆様がお守りしている。
皆様を守るためにお仕えしているあたしが、皆様に守られているなんて変な話だ。
「ねえ、鬼が来るの?」
「来ます」
「鬼はぼくたちを殺す? ぼくたちを食べちゃう?」
「大丈夫です」
あたしは、なるべく優しい声になるよう、心掛けて言う。
「伊吹の者は負けません。怖がる事はありません。このような戦の状況を、伊吹の皆様は何と呼んでいらっしゃるか。それはーー」
その時、子供たちが立ち上がり、仰った。
「鬼が来たよ」
「うん、来たよ」
「見なくてもわかるんだ」
その通りだった。
17
雪は止んでいる。
あたしは烈花様と、玄関の外に立っていた。
「みっともない姿を見せたわね」
「いいえ。しかし、なぜあたしに御一緒するよう申されたのでしょうか?」
「うーん。鬼を待つ間、暇じゃない?」
「はあ」
ふふふ、と笑う。
「冗談よ。あたしの戦い方を見ておきなさい。冷泉の妻になるなら、あたしの娘だわ。あなたにも、伝えたいことがあるの」
「はい、学ばせて頂きます」
烈花様は、腰に佩いた太刀を外した。
兄様同様、鞘は戦うのに邪魔なのだ。
「ぞくぞくするわね。楽しくてしょうがないわ。あなたはそうじゃない?」
「そこまでは。でも、不思議と怖くありません」
「伊吹の悪い血ね。まったく、おかしな一族だわ!」
「時々ですが、そう思います」
「伊吹家が力を合わせて鬼と戦う、その戦を何と呼ぶかは知っているわよね?」
「はい。このような戦の状況を、我々、伊吹の者は何と呼んでいるか。それはーー」
確かに、狂っている。
「『宴』、と呼ばれています」
18
烈花様は言う。
「『宴』! 何と恐ろしい一族なのでしょう! 鬼との命のやり取りを、『宴』と呼ぶとは!」
「昔は、一人で鬼退治をする場合でも、その戦いを『宴』と呼んだそうですね」
「そう。本当に妖しい『宴』だわ。鍛えた剣技をもって舞い踊り、秘伝の『技』を披露し、余興に鬼の首をはねる。そして、それを肴に酒を飲み、歌い騒ぐ」
「でも、その『宴』も、もうすぐ終わりますよね?」
伝家の宝刀・津軽正宗は、兄様の側にある。兄様を、お守りしているのだ。
そして兄様が意識を取り戻し、再び津軽正宗を握った時、この『宴』は終わる。
津軽正宗の、霊的な力によってだ。
「そう。もうすぐ終わると、姉さんは言っていたわ」
「えっ?」
「次の代、だから冷泉や雪香の代で、『宴』そのものが終わるだろうと言っていたの」
「そんなことが、ありえるのでしょうか?」
「姉さんには、人には見えないものが見えていたわ。ひょっとしたら、本当かも知れないわね」
その時、目の前に、巨大な『それ』が現れた。
鬼が、ついにやって来たのだ。
<続>
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