第一七話 城和泉正宗(じょういずみまさむね)

 1

 お屋敷の前に来ると、自然に門が開いた。

 その内側で、まだ若い女性が深々と頭を下げている。

「お待ちしておりました」

 あたしは門を潜り、母屋に向かいながら尋ねた。

「紅(べに)。冷泉(れいぜい)・甥はもう来ているの?」

「はい。いらっしゃっております」

 うん。冷泉には幾つか長所があるが、時間に正確なのはそのうちのひとつなのだ。あたしとは違って。

 紅が続ける。

「ですが烈花(れっか)様。冷泉様は、お庭にいらっしゃるのです」

「はあ?」

 冷泉は、伊吹家の次代当主なのだ。『御一門衆』として、『松の間』に通されているが当然だろう。

「なぜ庭になんかいるの?」

「あのう。それは、冷泉様に直接、尋ねていただけますでしょうか。私からは、申し上げにくいのです」

「わかりました」

 あたしは向きを変え、庭に向かった。

 池の傍らに、冷泉がいた。

 冷泉は、数人の子供たちに囲まれている。

 腰には津軽正宗、表向きは東京国立博物館に収蔵されていることになっている、伊吹家の宝刀を佩いている。

 ちなみに、津軽正宗とは号で、名は城和泉正宗という。さらに付け加えるなら、現在、ただ正宗と言えば、この太刀を指すことになる。それくらいの名刀なのだ。

「冷泉・甥、何をしているの!」

 思わず声を荒げてしまう。

「あ、烈花・叔母(おば)様。こんにちは」

 冷泉は、のんきに答えた。

 ちなみに、あたしは、冷泉の育ての親で、剣術の師匠でもある。

 子供たちが、あたしに挨拶した。

「こんにちは。烈花・従伯母(じゅうはくぼ)様」

「こんにちは。烈花・従叔母(じゅうしゅくぼ)様」

「はい、こんにちは。従甥(じゅうおい)、従姪(じゅうてつ)の皆さん」

 伊吹のお屋敷の中では、その血筋の関係性を付けて呼ぶことになる。伊吹家の、伝統のひとつなのだ。

 冷泉が言う。

「光輪・従叔父(こうりん・じゅうしゅくふ)様に、『菊の間』で待つよう言われまして」

 『菊の間』は、『御一門衆』以外の親族、『親族衆』が通される部屋なのだ。冷泉にはふさわしくない!

「それで、『菊の間』で待っていたのですか」

「はい。ですが、皆は僕がいるので緊張していますし。何だか居づらくなりまして。それで再従弟(さいじゅうてい)と再従妹(さいじゅうまい)を連れて、庭に出たのです」

「はあ」

 何だか、くらくらとしてきた。

 子供たちは、無邪気に冷泉と戯れ始める。

「冷泉・再従兄(さいじゅうけい)様、鬼退治のお話して下さい」

「ねえねえ、3DS持ってますか?」

「あたしに、謎々を出して下さい」

 冷泉は、優しく答える。

「はいはい、皆で一緒にお願いしないで下さいね。順番ですよ」

 あたしは言う。

「皆を連れて、『菊の間』に戻りなさい。いいですね?」

「うーん。烈花・叔母様がそう仰るなら、そのように致します」

 あたしは背を向けて、母屋に向かった。

 どうやら、今日の『御一門衆』会議は、いつもと違うようだった。



 2

 廊下に座った碧(みどり)が、ふすまの前で言う。

「烈花様が、お見えになりました」

 ふすまを、碧が開ける。

 あたしは一礼し、『松の間』に入った。

「やあ、烈花・従姉(じゅうし)様。遅かったですね」

「申し訳ありませんね、光輪・従弟(じゅうてい)。皆様も」

 光輪は、当主様の弟である。

 あたしは、部屋を見回す。

 冷泉が欠席しているのだから、部屋にはあたしを含めて11人しかいないはずだった。

 だが下座に、セーラー服姿の少女が座っている。

 ちなみに、なぜ『御一門衆』が12人で構成されているのかは、また別な機会に説明したい。

 あたしは詰問した。

「なぜ、雪香(せっか)・従姪が座っているのですか。この場にはふさわしくないでしょう」

「まあまあ」

 光輪が言う。

「おいおい、わかりますよ。まずは座って」

「ふん」

 何だか、今日は気に入らない。



 3

 『御一門衆』会議が始まった。

 光輪は、話し始める。

「最近の、冷泉・従甥(じゅうせい)のお務めぶりについては、皆様、聞き及んでおりますね」

 ふむ。

「もちろん、その活躍は、次代当主として、ふさわしい気もします。ですが」

 光輪は続ける。

「いつも傷を負い、病院に運ばれているのも事実なのです。私は今一度問いたい。冷泉・従甥は、本当に次代当主にふさわしいのでしょうか? 伝家の宝刀・津軽正宗を引き継ぐに足る、腕前なのでしょうか?」

 何ですって!

 あたしは言う。

「冷泉・甥を次代当主に指名したのは、光輝(こうき)・当主様です。何人たりとも、例え『御一門衆』全員が反対したとしても、それは覆らないはずです」

「以前ならそうでしょう。しかし、時代は変わりました」

 勝手なことを言う。

「当主様も、『御一門衆』の考えに耳を傾けない訳にもいかないと思います。なにせ当主様は」

 そこで光輪は言葉を切った。

「お病(やまい)に臥せていらっしゃるのですから」

 だから長くはない。そう言いたいのか。

「そんな不吉な話はしたくないのですが、当主様がお亡くなりになった後、冷泉・従甥に『御一門衆』は仕えることができますでしょうか」

「仕えるのが、『御一門衆』です!」

「しかしですね、烈花・従姉様」

 光輪は、嫌な笑い方をした。

「冷泉・従甥は、『あの女』の息子でしょう?」

 ああ! その話をするのですか!



 4

 あたしは、泣きそうになるのを我慢した。

「確かに、冷泉・甥は、『あの人』の息子です」

 あたしの姉さんは、親族の間では『あの女』『あの人』としか呼ばれない。

 伊吹家を捨てて、駆け落ちしたからだ。

「ですが、あたしが育ての親なのです。冷泉・甥をそんな理由でふさわしくないと言うなら、あたしをも軽んじることになります。それでもいいのですね?」

「いえいえ」

 光輪は言う。

「しかし、申し上げにくいのですが、烈花・従姉様もお病でしょう? あなたがお亡くなりになった後、誰が冷泉・従甥の後ろ楯になるのです?」

 だから、それが『御一門衆』の役目だと言っている。

「それに、これも申し上げにくいのですが、冷泉・従甥は、伊吹家に伝わる秘伝の『技』のうち、幾つを習得しましたか? 21歳のはずですが」

「あたしは師匠として、基本をみっちりと教え込みました。決して、伊吹の他の者に劣るとは思いません。第一」

 あたしは言う。

「習得した『技』の数で、当主様が決まるわけでもないでしょう?」

 あっ。しまった。

 今のは失言だった。

 光明(こうめい)の顔が、みるみる真っ赤になる。

 あたしにとって従兄(じゅうけい)になる光明は、当主様の兄だった。

 習得した『技』の数では勝っても、弟に当主の座を奪われた男なのだった。



 5

 光輪は言う。

「『技』を伝えて行くのも、伊吹の者として重要です。それは烈花・従姉様も認めざるを得ないでしょう?」

 あたしは、悔しくて言葉が出ない。ああ、こんな病に蝕まれていなければ、冷泉にはもっと多くの『技』を伝えられたのに。

 ごめんなさい、冷泉。

「その点、光明・兄様の娘、雪香・姪は、18歳にして、非常に多くの『技』を習得しています。その覚えの早さたるや、 天賦の才があると言ってもいいでしょう。もちろん、『技』の数だけではありません。その剣の腕前も、相当なものなのです。そして、光明・兄様という立派な後ろ楯があるわけです」

 なるほど、そういう話なのね。

「ここにお集まりの『御一門衆』の皆様方、雪香・姪の方が、冷泉・従甥より次代当主にふさわしいと思いませんか? 思う方は、挙手して下さい」

「!」

 まさか、こんなことになるとは。

 挙がった手の数は、十本だった。

 つまりあたし以外、全員が雪香を推しているのだ。



 6

 あたしは言う。

 声が震えているのが、自分でも良くわかる。

「だから言っているでしょう。当主様がお決めになった以上、それは絶対であると」

「そうですね。しかし、『御一門衆』は、雪香・姪の方が適任だと考えているわけです。ねえ、光明・兄様?」

 光明が、やっと口を開いた。

「烈花・従妹 (じゅうまい)の気持ちは良くわかる。あなたの教え子が可愛いことも。あの『皆殺しの烈花』が鍛えたのだ、冷泉・従甥の剣術だって、決して他に劣るものではないのだろう。しかし、我々が疑っているのも事実なのだ。冷泉・従甥の、その腕前を」

「では、いかがなさいます?」

「私の娘、雪香・娘と勝負して貰おう。その勝敗で、皆は納得するだろう」

「わかりました。すぐに準備させましょう」

 あたしは、雪香を睨んだ。

 あたしの可愛い冷泉が、こんな小娘に負けるわけがないのだ!



 7

 あたしは碧に命じて、『梅の間』に冷泉を呼び寄せた。

 事情を説明すると、冷泉は、肩を落とした。

「そうですか。烈花・叔母様以外、全員が雪香・再従妹を推しましたか」

 さすがの冷泉も、ショックだったようだ。

「僕は、伊吹の親族の中で、孤独なのですねえ」

「孤独ではありません」

 ごめんね、冷泉。あたしに、政治の才能が無いばかりに。

「あたしと、当主様は、あなたの味方ですよ」

「でも」

 冷泉は、しまった、という顔をした。

「いや、何でもないです」

 わかっている。あたしも当主様も、もう長くはないのだ。

「やはり、『あの人』の息子だから、誰も味方してはくれないのですね」

 ああ! 息子のあなたまで、自分の母親を『あの人』と呼ばなければならないなんて!

「あなたを次代当主に選んだ、当主様のためにも勝ちなさい。師匠である、あたしのためにも勝ちなさい」

「でも、相手が女の子では、やりづらいのです。本気が出せませんねえ」

「しかし負けたら、津軽正宗を奪われてしまうのですよ?」

 冷泉の目が、すうっと鋭くなった。

「なるほど。そうでしたね。それは許せません」

「そうでしょう」

 冷泉は、腰に佩いた太刀を撫でながら言う。

「城和泉正宗は、僕の物です。例え当主様でも、もう取り上げることはできないのです」

 ああ。この子は、やはり、こじれている。

「わかりました。剣道場に先に行ってて下さい。後から行きますから」

 冷泉は、そう言った。



 8

 剣道場には、『御一門衆』が壁際に並んで正座している。

 雪香は、すでに剣道着に着替えて、準備が整っていた。

「冷泉・従甥は遅いですね」

 光輪が言う。

「まさか、逃げたのではないでしょうね?」

「失礼な!」

 あたしも、つい大声になる。

「冷泉・甥が逃げることなどありえません!」

 しかし、遅い。

 遅すぎる。

 その時、剣道場の扉が開いた。

 やっと来たのか?

 いや、違った。

 碧に付き添われ、入って来た、そのお方は。

 『御一門衆』全員が、もちろん雪香も、ぬかずいた。

「何をしているのです?」

 それは、当主様であったのだ!

「光明・兄、答えなさい」

「はっ」

 指名されて、当主様の兄が答える。あたしも顔を上げて見ることはできないが、額を床に押し付けるほど、ひれ伏しているはずだ。

「私の娘、雪香・娘と、冷泉・従甥が勝負することになったのです」

「勝負?」

 光輪が後を継いだ。

「じつは、どちらが次代当主にふさわしいか、勝負することになったのです。勝敗をつけなくては、『御一門衆』皆が納得できないと」

「そうですか」

 当主様は言う。

「しかし、それは冷泉・従甥でしょう。彼はもう、この屋敷にはいませんよ」

「それはどういうことでしょうか?」

 光輪が尋ねる。

「ああ。これだけ伊吹の末裔がいて、誰も気が付かなかったのですか。嘆かわしいことですね。伊吹も、質が落ちたものです」

 あっ。

「冷泉・従甥は、出かけて行きました。我らが守る都市、弘前に侵入した、鬼を切るためにね」



 9

 あたしは当主様と、『桜の間』に入った。

 この部屋に通されたことがある親族は、極めて少ない。

 こうして見ると、当主様は、だいぶやつれていらっしゃった。

「烈花・従妹、あなたにしては、珍しいことですね。当主代理になるはずだった、あなたが鬼に気が付かないとは」

「申し訳ありません」

 あたしは平伏する。

 そう、あたしは当主代理と言われていたのだ。それは、現当主様と次代当主との間を繋ぐ御役目である。こんな病に侵されていなければ、きっとあたしが、その御役目を務めていたことだろう。

 あたしと当主様は、同じ病だった。それは伊吹の血筋に時々現れる、恐ろしい病なのだ。

「伊吹とは、鬼を切り、この弘前を守るための家なのです。当主争いに夢中になって、それを失念するなど本末転倒ですよ」

「重ね重ね、申し訳ありません」

 当主様の口調が変わった。

「まあ、その話は、これで終わりにしましょう。顔を上げて。それよりも冷泉・従甥の話です」

「はい」

 あたしは、当主様に話した。『御一門衆』に味方がいないことを。冷泉が、孤独なことを。

「私に人望がないのが悪いのですね」

「いいえ! そんなことはありません」

「では、政治の才能でしょうか。うん、光輪・弟にはとても敵いそうにない」

「あたしが悪いのです。あたしが、もっと気を付けていれば」

 当主様は言う。

「私は冷泉・従甥を次代当主に決めたのです。これは絶対なはずですね」

「はい。当然です」

 いまさらの説明だが、伊吹家の当主は、その血の濃さでは決まらない。完全な、実力主義なのだ。

「ですが困ったものです。『あの人』の息子であることが、これほどまでに影を落とすとは」

「はい」

「これだけはわかって下さい。私は、実力で、冷泉・従甥を選んだのです。そして烈花・従妹、あなたが育ての親だからです。あなたが、剣の師匠だからです」

「はい。光栄です」

 当主様は、辛そうに言う。

「決して皆が噂するように、『あの人』の息子だからではありません」



 10

 当主様は、『あの人』に惚れていた。

 いや、今も惚れているのだ。

 あたしの気持ちに、気が付かないふりをして。



 11

 当主様は、突然言う。

「冷泉・従甥と雪香・姪では、6親等、離れておりますよね?」

「はい。冷泉・甥にとって、雪香は再従妹になりますから、6親等です」

「私は、あの二人が、夫婦(めおと)になってくれればいい。そう思うのですが、どうでしょう?」

 日本では、4親等以上離れていれば、直系でない限り血族同士の結婚も認められている。

 まったくの余談になるが、あたしと当主様は4親等離れているので、『法律上は』結婚できる。もちろん、姉さんもだった。

 さらに余談を許されるなら、伊吹家が『血筋の関係性』を付けて呼ぶのは、近親婚をできるだけ避けるためなのである。

「それは」

 あたしも、尋ねるしかない。

「ご命令なのでしょうか」

 だとしたら、従うのが絶対だ。

「いえいえ。そうなったら、いいなあ、というだけです。本人同士の気持ちが一番大事ですよ。でも何だか」

 当主様は、にっこりと笑った。

「私には、うまくいくような気がするのです」



 12

 帰ろうとすると、あたしを待っている者がいた。

 雪香だった。

「烈花・従叔母様、お話があるのです。宜しいでしょうか」

「ええ、構いませんよ」

「あのう。ここでは、話しづらいのですが。それに、長い話になります」

 あらあら。何かしら。

「わかりました。しばし待ちなさい。『梅の間』を開けさせます」

「いいえ」

 雪香は言う。

「できれば、外でお話したいのです」

 ふむ。

「わかりました。そのようにしましょう」

 あたしは碧に、車を出すように命じた。

 ホテルの部屋を予約することも。



 13

 紅の運転で、車は走り出した。

 あたしたちは、後部座席に座っている。

「烈花・従叔母様、実は」

「ああ、もう、やめてやめて。もう伊吹のお屋敷ではありません。あたしのことは、名前だけでお呼びなさい。あたしも、あなたのことを、ただ雪香と呼びますから。もう血筋の関係性なんて、うんざりです」

「はい。あたしも、うんざり致します。まるで伊吹家に、絡め取られているような気がします」

 うん。それは、いい表現だわね。

 案外、この子とは、気が合うのかもしれない。

「では、烈花様とお呼びさせて頂きますが、宜しいでしょうか?」

「うん、それでいいわ」

「冷泉・再従兄様から、いえ、単に冷泉兄様とお呼びしますが、その兄様からあたしの携帯にメールがありました。逃げて申し訳ない。でも、戦いたくないのです、と。そして、津軽正宗は残念ながら渡せません、と」

 まあ、冷泉らしいと言えば、冷泉らしい話だ。

 でも何だか、この話には変なところがある。

「どうして冷泉が、雪香のメールアドレスを知っているの?」

「はい。恐らくですが、碧から聞いたのだと思います」

 ますます変な話だった。

「雪香は、碧とメールアドレスの交換をしているわけ?」

「はい。じつは、頻繁にメールのやり取りをしているのです」

 信じられない話だった。碧とあたしたちでは、身分が違うのだ。

 あたしは、頭が古いのだろうか?

「何のために、メールをやり取りしているの? まさか、ただのメール友だちというわけではないのでしょう?」

「はい。碧には」

 雪香は言いづらそうにしていたが、思い切ったように言った。

「兄様のことを、つぶさに報告して貰っていたのです」



 14

 あたしたちは、『弘前プリンスホテル』に着いた。

 碧は、一番良い部屋を予約してくれたようだ。

 広いリビングルームのソファに座る。

「お茶をいれてくれるかしら?」

「はい。喜んで」

 雪香は、ティーポットで紅茶をいれてくれた。

 日本茶なら、お屋敷で何杯も飲んで来たのだ。それも最高級の物を。

 紅茶は、とても美味しかった。

 それだけで、この子が可愛くなってきた。

「それで、長い話というのは?」

「はい。これは、兄様とあたしが、まだ幼かった頃のお話です」



 15

 あたしは父様に連れられて、伊吹のお屋敷に参りました。

 『松の間』に、初めて入りました。

 そこには、『御一門衆』の皆様が待っていたのです。もちろん、烈花様はいらっしゃいませんでしたが。

 父様は言います。

「雪香・娘が、早くも『技』を覚えました。ぜひ、ご覧になって下さい」

 あたしは、父様に裏切られた気がしました。

 あたしは、鬼を退治するために、『技』を学んできたのです。

 『御一門衆』に、披露するためではないのです。

 あたしは、決して見世物ではありません。

 何だかあたしは、とても悲しくなりました。

 父様は言います。

「皆様、剣道場にお集まり下さい」

 あたしは父様に、剣道場に行き、道着に着替えるよう言われました。

 しかし、あたしは剣道場に行かず、逃げたのです。



 16

 あたしは、母屋の陰で泣いていました。

 逃げたのはいいものの、後から父様に厳しく叱られるのかと思うと、とても恐くなりました。

 母様だって、伊吹の血筋です。あたしを助けてはくれないでしょう。

 すると、

「何を泣いてるの?」

 と、あたしに声をかける者がいます。

 それは、兄様でした。

「泣いてなんか、いないわよ」

 あたしは、涙を拭きました。

 当然ですよね。

 伊吹の者にとって、泣いているところを見られるなんて、とても恥ずかしいことだからです。

 あたしは、剣道場に行かず、逃げて来たことを言いました。

 『御一門衆』の前で、『技』を披露するのが嫌なことを言いました。

 すると、

「うん、わかった」

 と、兄様は仰います。

「光輝・当主様にお願いしてみようよ。ねえ、雪香・再従妹?」

 兄様は、あたしの手を引いて歩き出しました。

 もちろん、当主様には、今までお目通りしたことはありません。

 あたしは、それはそれで恐くなりました。

 だって、相手は当主様なのです!

 なのに、兄様は、あたしの手を引いて、どんどん歩いて行くのでした。

 母屋に入り、廊下を進みます。

 すると、

「どこへ行かれるのでしょうか?」

 あたしたちを、止める者がいます。

 それは碧、先代の碧でした。

「碧、当主様にお会いしたいんだ。通してくれる?」

 あたしは、碧の恐ろしさを聞いていました。

 それは、当主様の部屋に入ろうとする、それにふさわしくない者は、誰であろうと容赦なく切るというものです。

 碧は言います。

「冷泉様、それは大事な要件なのでしょうか?」

 兄様は答えました。

「うん。とても大事な要件なんだ」

 碧はしばらく、兄様をじっと見ていましたが、やがて言いました。

「わかりました。冷泉様、雪香様、ついて来て下さい」



 17

 あたしたちは初めて、『桜の間』に入りました。いえ、この時以来、あたしは入ったことはないのですが。

 当主様にも、初めてお会いしました。

 あたしたちは、畳に額を押し付けて申します。

「初めまして。光輝・当主様。こうしてお目通りを許されたこと、光栄に思います」

「うん、良く言えました。冷泉・従甥、雪香・姪」

 当主様は、あたしたちに優しく声をかけて下さいました。

「顔を上げて、説明しなさい。大事な要件とは何ですか?」

 当主様も兄様も、あたしを見ます。

 ですが、あたしは口が動きません。

 初めて当主様にお会いしたのです。

 それは当然ですよね。

 すると、兄様が、あたしの手を、ぎゅっと握って下さいました。

 少し冷たかったのですが、とても頼もしい手でした。

 はい。そのお陰で、あたしはようやく、話し始めることができました。

 あたしの話を聞き終えた当主様は、なるほど、と仰います。

 そして立ち上がりました。

「光明・兄には、私から『技』の披露を止めるよう命じておきましょう。ついでに、雪香・姪を叱ることがないように、とも。あなたたちは、しばらく、この部屋で遊んでいなさい」

 当主様は、部屋を出て行かれました。

 あたしは、ほっとしました。当主様は絶対です。『技』の披露を命じられることも、父様に叱られることも、これでないでしょう。

 緊張が解けました。

 あたしは思わず、泣き出してしまいました。

 両親以外の人前で泣くなんて、初めてのことでした。

「泣かないで、雪香・再従妹。伊吹の者は、決して人前で泣いてはいけない、と『あの人』も言っていたよ」

 あたしは涙声で尋ねます。

「『あの人』って誰?」

「うん。僕の母様さ。ねえねえ、それよりも」

 兄様は、本当に興味津々な顔をして尋ねます。

「雪香・再従妹は、もう『技』を覚えたの?」

 うん、とあたしは答えました。

 兄様は、本当に純真な声で仰います。

「凄いなあ!」



 18

「凄いなあ!」

 あたしは、びっくりしました。

 父様も母様も、あたしに「凄い」なんて言ってくれたことはないのです。

 いいえ。普通に誉めてくれたことさえ、一度もないのでした。

 父様も母様も、いつも「出来て当然」と言うのです。

 あたしは嬉しくなりました。

 本当に、嬉しくなりました。

 そうかなあ、とあたしは答えます。

「僕のお師匠様、烈花・叔母様は、僕になかなか『技』を教えてくれないんだよねえ」

「そうなの?」

 お師匠様によって、教え方はずいぶん違うのだなあ、と思いました。

「うん。そうなんだ。基本が大事だと言って、毎日毎日、同じ練習ばかり。僕、嫌になっちゃうよ」

 あたしは、その言い方がおかしくて、笑ってしまいました。

 やはり、伊吹の者にも、あたしと同じで、剣術の練習が嫌いな者がいるのだなあ、と嬉しくもなりました。

 父様は、伊吹の家に生まれた者は、みな剣術が好きで当然だ、と仰っていましたが。

「ねえねえ。今度、僕に、『技』を教えてくれる?」

 あたしは、いいよ、と約束しました。

「やったあ!」

 そう言って兄様は、本当に嬉しそうにするのです。



 19

 それから、あたしたちは、他愛のないお話をしました。

 あたしは父様と母様から、学校では友達を作ってはいけない、と言われていました。

 伊吹の家は、他の家とは生まれが違うのだから、と。

 伊吹の同世代の者でも、親しくしてはいけない、と言われていました。

 あなたとは血が違うのだから、と。

 だから兄様は、初めて出来た、あたしの友達だったのです。

 今でもあの時のことを思い出すと、本当に幸せな気持ちになります。

 はい。今もこうして生きていられるのは、あの時の思い出があるから、と言ってもいいでしょう。

 そうです。それぐらい、本当に、幸せな時間だったのです。

 当主様は、遅く戻りました。今、考えると、あたしたち二人のために、時間を作って下さったのかもしれませんね。



 20

 あたしは父様と一緒に、家に帰りました。

 父様は、あたしを叱りませんでしたが、もう二度と、兄様と話してはいけない、と強く命じました。

 あたしは、約束させられました。



 21

 あたしは、それからも『技』を学びました。

 しかし幾ら学んでも、何かが違う気がするのです。

 兄様には、決して勝てない気がするのです。

 そう、悪い言い方ですが、まるであたしは、芸を仕込まれている犬のようなものなのです。

 それは、鬼退治をお勤めとする者とは違います。

 当主様にふさわしい人物でもないのです。

 本当のことを申しますと、あたしは、父様も母様も卒倒すると思いますが、当主様という御役目にも興味はないのでした。

 長い話になりました。

 烈花様にお話したかったのは、つまり、こういうことなのです。

 兄様こそ、次代当主様にふさわしい。あたしは、そう思っているのです。

 あたしの手を握りしめてくれた、あの優しい兄様が。



 22

 雪香の話は終わった。

 あたしは聞いてるうちに、この子がとても可愛くなっていた。

 ひょっとしたら、あたしの冷泉にお似合いかもしれないわね。

 一応、確認しておこう。

「雪香は、冷泉のことが好きなのね?」

 雪香の顔が、泣きそうになった。

「冷泉のことが気になって、碧に逐一報告させていたのでしょう?」

「はい」

 ついに我慢できなくなったのか、ぽろぽろと泣き出す。

「あたしは、兄様が、また鬼を退治したと聞くと、自分の手柄のように嬉しくなるのです。誇らしくなるのです」

「ええ」

「そして兄様が、また怪我をしたと聞くと、胸が張り裂けそうになるのです。今すぐ病院に駆け付けて、その手を握ってあげたくなるのです」

「ええ」

 雪香は、やっと告白した。

「はい。そうです。あたしは、兄様が好きなのです。この気持ちを抑えることが、とてもできそうにないのです」



 23

 あたしは雪香に言う。

「冷泉は、誰に似たのか、鈍感です。恋愛には、疎いのです。なかなか、あなたの気持ちには気が付かないでしょう。情けないですが、そういう子なのです」

「はい」

「願わくば、あなたの気持ちが伝わりますように。恋が、叶いますように。あたしも祈っていますよ」

「ありがとうございます」

 そう言って、涙を拭いて笑う。

 うん。この子は、やはり、可愛いわ。この子になら、あたしの冷泉を任せられるかもしれない。

「さて。では、冷泉の話をしましょうか。あの子が、なぜ髪をあんなに伸ばしているのかわかりますか? なぜ、津軽正宗を、渡したくないのかも?」

「はい」

 雪香は、言いにくそうだった。

「『あの人』も、髪を長く伸ばしていたからですね」

「そうです。冷泉は、ますます『あの人』に似てきています。それは見ていて、恐ろしいほどなのです」

「津軽正宗も、わかります。津軽正宗は号、その名は城和泉正宗」

「はい」

「和泉。それは、『あの人』の名前と一緒なのです」



 24

 あたしの姉さん、冷泉の母親の名は、和泉という。

 それは、伊吹家に代々伝わる、宝刀の名から頂いたものなのだった。

 ちなみに、宝刀の銘は『 金象嵌銘城和泉守所持正宗磨上本阿 (きんぞうがんめい・じょういずみのかみしょじ・まさむねすりあげ・ほんあ )』である。

 城和泉守とは、武田信玄の家臣で、武田氏滅亡後、徳川家康に仕えた城昌茂(じょうまさもち)様のことだ。

 その名を頂いたのである。

 姉さんがどれほど期待されて生まれてきた子供なのかは、それでわかるだろう。

 そしてその期待に応えるように、あたしにとっても姉さんは、あたしより美しく、あたしより賢く、あたしより強い、憧れの人に成長した。

 しかし、男と駆け落ちし、『あの人』と呼ばれるようになる。

 そして、あっけなく夫婦揃って死んでしまった。

 冷泉を残して。



 25

 あたしは話した。

 冷泉が伊吹家に戻った時、和泉姉さんの形見、思い出の品は、何一つ持って来られなかったということ。

 それが、どんなに悲しかったか、ということ。

 伊吹家の中で、和泉姉さんは『あの女』、『あの人』としか呼ばれないし、呼べない。それが、どんなに悔しかったか、ということ。

 そして成長し、冷泉は、津軽正宗こと城和泉正宗を手に入れた。

 それは、亡くなった母の名を持つ太刀だ。冷泉にとっては、母の代わりのような気持ちなのだろう。

 そして。

 それがあれば、伊吹家の中で「和泉」という母の名を堂々と口に出来る。なにせ、太刀の名が、「和泉」なのだから。



 26

「なぜこんな話をするのか、疑問に思っているでしょうね」

「はい」

 あたしは言った。

「お願い。冷泉を救ってあげて」

「えっ?」

「あたしには無理だったの。あの子のこじれてしまった心は、あたしには救えなかったのよ」

「しかし」

 雪香は言う。

「烈花様に救えなかったものを、あたしなどにどうして出来ましょうか?」

「あたしは、もう長くはないわ。伊吹の血筋に時々現れる、あの病のせい」

「そんな悲しいことは仰らないで下さい」

「いいのよ」

 それは覆らない、事実だったから。

「あたしが亡くなった後、冷泉を救ってやって欲しいの。後を、あなたに託してもいいかしら」

「無理です! あたしには無理です!」



 27

 あたしには無理だ。

 兄様を救うことなど、あたしには無理だ。

 烈花様は言う。

「お願い。あたしと当主様が亡くなったら、冷泉は孤独になってしまうの。だから、あの子の側にいてあげて。孤独じゃないんだと、教えてあげて。それだけで、あの子をきっと救うことができるから」

 あたしは。

 兄様の側にいたい。

 ずっと、側にいたい。

 それで兄様を救ってあげられるの?

 もし、そうなら。

「わかりました」

 あたしは言う。

「あたしは、兄様の側にいます。たとえ、ふられることになっても」

「あら。いきなり、そんな悲観的なことを、この口でお言いですか」

 烈花様は、あたしの頬をつねった。

「ご、ごめんなさい。しかし、その可能性はあるでしょう?」

 烈花様は言う。

「そうねえ。冷泉にだって、気持ちというものがありますからね。でも、大丈夫だと思うわ。うん、そういうことにしましょう」

「はあ」

「押して押して、押しまくりなさい。あの子はあれで、押しに弱んだから」

「そうなんですか」

「あなたから働きかけることを勧めます。いつか気が付いて貰えるなんて思っていたら、あたしみたいに人生を不意にしてしまうかもしれないわよ」

 烈花様が、光輝・当主様をお慕いしているのは、有名な話だった。

「あなたは、『技』を学び続けなさい」

 はい、とあたしは答える。

「そして、冷泉との約束を果たしなさい。あの子に、『技』を教えてあげるのです。それも、できるだけ多く」

 はい、とあたしは、また答える。

「まずはそれから。そこから始めましょう」



 28

 烈花様は、その後、いろんな話をしてくれた。

 烈花様ご自身の話から、和泉様の話まで。

 兄様の素敵な話から、意外な話、本人が赤面するような恥ずかしい話まで。

 こんな素晴らしい人に、育てられたのだ。

 正直、兄様がうらやましくなる。

 そして、家に帰る時が来た。

「お願い。お別れの前に、抱き締めさせてくれる?」

 もちろん、断るわけがない。

 烈花様は、あたしを強く抱き締めた。

 泣いているのが、わかった。



 29

 あたしは思った。

 ああ。これで安心して、旅立てる。

 あたしがいなくても、もう大丈夫。

 冷泉に、雪香の思いを伝えるのは、余計なお世話というものでしょうね。

 でも、これだけは伝えたかった。

 たとえ、あたしと当主様がいなくなっても。

 冷泉、あなたは、孤独ではないのですよ。

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