【連作短編】魔道都市妖宴集
深上鴻一:DISCORD文芸部
第一話 月光に泣く
私は泣いていた。
長い長い間、泣いていた。
いつから、こうして泣いているのであろうか。まるで思い出すことができない。
世界が始まってからずっと、このベンチに一人座って、月光の下、泣き続けているような気さえする。
そしてもうひとつ不思議なことに、私は何のために泣いているのか、とんと分からぬのであった。
ただ悲しかった。
無性に悲しかった。
悲しみだけが私の内にあり、その眼(まなこ)から滂沱の涙を流させているのだった。
そうして。
どれほど私はうつむいて泣いていたのであろうか。
朝が夜になり、夜がまた朝になり、それが無限に繰り返されて、また夜が来た頃。
隣に誰か、座っている気配がした。
それは驚きだった。
私は長い長い間、この世界で孤独だと思っていたのだから。
「やけに月が眩しい夜ですね」
彼は言った。
「こんな夜は、何かが出そうです。気を付けなければいけません」
私は泣くのをやめて、彼を見た。
ほう。
思わず、溜息が漏れた。
私の隣に座っていたのは、それはそれは美しい青年であったからだ。
真っ白の高級そうな、それはきっとシルクで仕立てられたスーツを着ていた。頭には、同じく白いソフト帽。それに、真っ青なネクタイを締めている。
だが身なりの良さなど、彼の容姿の前ではどうでも良いことのように思われた。
切れ長の美しい瞳。そっとその縁を飾る長いまつ毛。すっとしたバランスの良い鼻。紅を差したかのような、驚くほど赤い唇。
それが、陶器のような白い顔に、このうえもなく美しい形で配置されている。
ああ!
それらを縁取るのは、夜よりも暗い長い髪である。腰まであるその髪は、純潔な乙女だけが持ちえるはずの艶やかさをまとって輝いていた。
男装の麗人であろうか。
いや、この年齢不詳の人物は間違いなく(その可愛らしい声にも関わらず)、男性なのだった。
私は、驚きながらも彼の言葉に答えた。
「何かとは何ですか。こんな夜は何が出ますか」
「いやね、最近ちと物騒でしょう」
彼は眉をひそめて言った。
「この公園にも出るそうですよ。強盗のたぐいがね」
あっ。
そうだ。ここは公園であったのだ。
自分はなぜ、そんなことも忘れていたのだろう。恐ろしいまでの悲しみが、私から常識的な記憶までもを奪っていたのだろうか。
ここは公園だ。
青森県弘前市にある、城跡に作られた、弘前公園である。この公園は、桜祭りで全国的に有名だった。
「この弘前公園も、近頃物騒になりました」
彼は、さもやり切れぬと言った感じで首を振って、
「悲しいことです。こんなことでは、僕も散歩に、こいつを持ち歩かないといけません」
彼はそう言って、一振りの日本刀を持ち上げて見せた。
「その剣で、賊を切りますか」
「いいえ。この弘前に住むものは、誰でも僕の長物を見ただけで逃げ出します。だから人は切る必要がないのです」
「ほう」
「それにですが、僕は人はもう切らぬと決めているのです」
「すると何を切りますか?」
彼は、うふふ、と幼い少女のように笑って言った。
特別な秘密を私だけに教えるのだと言わんばかりの、茶目っ気に満ちた目をしながら、囁いた。
「鬼ですよ。僕は、鬼を切るのです」
鬼。
弘前公園には鬼が出る。
私の中に、何かもやもやしたものが生まれ出た。それはあと少しで正体が知れそうだったのだが、捕らえようとすればするほど、曖昧模糊となって霧散してしまうのだった。
その時、悲鳴が聞こえた。
絹を裂くかのような、女性の声であった。
「やれやれ、また強盗が出たようですね。では、行きましょう」
彼はそう言うと私の手を取り、夜の中へと私を導いた。
その手は驚くほど冷たくて、私を変にどぎまぎさせた。
この青年は、異国で作られた美しい人形なのではあるまいか。そんな可笑しな妄想が、一瞬頭をよぎる。
だが彼は生気に満ちていたし、事実、暗い中において、月光を受けて生き生きと、眩く輝いて見えていたのだ。
どれほど歩いたのだろうか。
まだ咲いておらぬ桜を越え、桜を越え、また桜を越えて。
そうして見ると、男が、まだ若いと見えるサラリーマンが腹から血を流して倒れている。
そのそばには、尻餅を付いた女性。
そして、今では血に濡れたナイフを持つ男が立っていた。
これが強盗であった。
「お逃げなさい、お嬢さん。これから、ほんの少しばかり厄介なことになります」
彼は言った。
だが女性は腰を抜かし、動けぬようであった。
その女性を救わねばならぬ。
なぜなら、なぜなら。
私はまた、泣いていた。
なぜなら、なぜなら。
私はその女性を、愛していたからだ。
さっきから、腹に痛みを感じていた。腹が、焼けるように痛い。
手で触れてみると、べったりとした生暖かいものが手に触れた。
月光に照らして見ると、赤い血であった。
「ああ」
私は、呻いた。
悔しい。
悔しくてたまらぬ。
強盗に刺され、私は命を失った。そればかりか、彼女までもが凶刃に倒れることになったのだ。
だが、しかし。
今の、今の私なら。
「ごお」
と声が漏れた。
人ならざる声であった。
私は、のっしのっしと強盗に近づいて行く。
「ひい」
強盗は小さく悲鳴をあげた。
構うものか。
私は右手で強盗の頭を掴むと、高々と持ち上げた。
すでに手の中で気を失い、身体はだらりと、操演する者のない操り人形のようにぶら下がっている。
ほんの少しこの掌に力を入れたなら、熟れたトマトを潰すよりもやすやすと、頭蓋を砕くことができるだろう。
「そこまでにしておきなさい、横山さん」
横山?
ああ、私はかつて、横山という名であったのだ。
なぜ今まで忘れていたのだろう。
「警察には、僕が責任を持って連れて行きます。だから、さあ」
気が付くと、女性は消えていた。
腹から血を流している男も消えていた。
だが、その男の正体はわかる。
それは私だ。
「あなたは一週間前、この公園でデートの途中、強盗に襲われました。そして腹を刺されて死んだのです。彼女も、強盗の顔を見たために殺されました。惨いことです」
ああ、そうだった。
私たちは一週間も前に、殺されたのだ。
「強盗を捕まえるには、一種の呪術を使うのが得策だと思いました。またこの弘前公園に呼び寄せるのです。そして、そのためには囮が必要でした。生身の人間ではしかし危険に過ぎる。申し訳ないですが、あなたを利用させて頂いたのです」
「強盗は、また私たちを襲い、また私を刺したのですね」
「うん、その通りなのです」
私は、手の中の強盗を眺めた。年老いた男である。卑小な男である。
その頭を一息に砕いてしまえば、私の復讐は果たされる。
いや、果たさねばならぬ。
私よりも、彼女のために。
すると、きらりと月光を受けて何かが輝いた。
見ると青年が、日本刀をすでに抜いているのであった。
私の強盗を掴んだ右手が、どうと地に落ちる。強盗も、地に転がる。
瞬きひとつもする間に、私の右手はすでに切り落とされていたのだった。
「やめておきなさい。あなたの彼女が悲しみます」
彼女。
私の彼女。
涙がまた、こぼれた。
ああ、私は、自分の彼女の名前すら思い出すことができない。
「悲しみだけが、あなたをこの地上に縛り付けていたのです。恥じることはありません。鬼であるとは、そういうことなのです」
鬼。
ああ。私は鬼であったのだ。
悲しみから生まれた、醜い醜い魔物であったのだ。
私は、自分が鬼であることを知ってしまった。
「私を切りますか?」
すると彼は、首を振り、刀を鞘に戻した。
「切りませんよ。僕はあなたを、成仏させに来たのですから」
彼は言った。
「あなたに教えて差し上げましょう。あなたの彼女の名はね」
美しい唇が、そっと言葉をつむぎ出す。
「さくら、と言います」
さくら。
ことり、とその名が、私の胸の中に落ちた。
それは暖かく、私の中を満たした。
それは眩く、私の中を照らした。
幸せであった。
鬼であるはずの私が、内からなる光によって幸せであった。
「さくら。ああ、さくら」
涙が流れる。
その涙で滲んで見えるのは、満開の桜の木々であった。
日本一と謳われた、弘前城の桜である。
月光の圧力を受け、ピンク色の花びらが、はらはらと舞い散っている。
月光に照らされた世界は、闇に踊る桜で満たされていた。
「まあ、今は桜の季節ではないのですが」
彼は照れ臭そうに言った。
「ほんの少しの演出というものですよ。それは僕の、悪いくせのひとつなんですがね」
桜並木がどこまでも続いている。
公園だけではない。
地上だけではない。
それは、遠く遠く、雲の彼方まで続いているのであった。
その向こうで、彼女、いや、さくらが手を振っていた。
ああ、私には行く場所がある。
鬼である私でさえも、還る場所がある。
私は言った。
「ありがとうございます。あなたのおかげで、人を殺めずに済みました。最後に、あなたの名前をお聞かせ願えますか」
「ああ、これは失敬。まだ名乗ってはいませんでしたね」
彼は言った。
「僕の名はレイゼイ。伊吹冷泉と言うのですよ」
美しい名だと、私は思った。
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