第20話 おこさまのおつかいではございませぬ

 もうすぐ日が暮れます。

 ナイル川のほうでは光の神ホルスと邪神セトの戦いがまだ続いています。


 街灯なんてない時代です。

 人々はすでに家路についています。


 ツタンカーメンはふらふらとさまよって、通りの脇のゴミ捨て場に目を凝らしましたが、クフ王の心臓はありませんでした。


「?」


 小さな足音が近づいてきます。

 長い髪をきれいな三つ編みにした五歳ぐらいの男の子が、ツタンカーメンのほうへと走ってきました。


 その子は大きな黒い犬に追われていました。



「大変だ!」

 ツタンカーメンはとっさにゴミの山から果物の種を両手いっぱいに引っ掴みました。

 浮遊して犬の頭上に回り込んで、犬の足もとへとたたきつけます。


「!!」

 黒い犬はイチジクの種を踏んづけて、すっ転びます。

 その隙に男の子が走り去ります。



「待てツタンカーメン! 私だ!」

 黒い犬が、人間にも通じる言葉で叫びました。


「え! アヌビス神!?」

 神さまにはいくつもの姿があります。

 四本足になっているのは、そのほうが早く走れるからでしょう。


「あの子どもがクフ王の心臓を持っているのだ!」

「マジで!?」

「追うぞ!!」

「はい!!」



 人口過密な首都の複雑な路地を、男の子は体の小ささを活かして、塀の穴をくぐったり物陰でやり過ごしたりして逃げ回ります。

 だけど幽霊や神さまも、空を飛んだり壁をすり抜けたりできます。


 あっちへ走って、こっちへ飛んで。

 はさみ撃ちにしようとして、かわされて。


 ツタンカーメンが翻弄されている間に、アヌビス神はにおいをたどって、男の子を袋小路に追い詰めました。


 男の子は腕を振り回して、何やら大げさなポーズを取りました。

「ワが名はセティ! 破壊神セトさまの忠実なるしもべなり!

 ホルスに従う犬どもよ! クフの心臓を返してほしくば、ワレとゲームをしようではないか!」


「応じるまでもない。力ずくで取り返す」

「待ってください!」

 牙を剥くアヌビス神の前に、やっと追いついたツタンカーメンが割って入ります。


「どうしてこんな子どもが邪神なんかを崇拝しているのか気になります。もしかしたら洗脳されているのかもしれません。

 だとしたら、ここでおれたちがこの子を押さえつけたら、あとで邪神がこの子にひどいことをするかもしれない……

 この子に危害が加えられない形で収めたいです!」


「しかし、どうやって?」

「邪神は今、ホルス神との戦いに気を取られています。この子はおれが引きつけるんで、アヌビス神はこの子の洗脳を解く方法を探してください」

「……わかった。トート神に訊いてくる」


 洗脳はアヌビス神には専門外ですが、大抵のことはトート神ならどうにかできます。

 それくらいにトート神は、神さまから見ても頼れる神さまなのです。



 アヌビス神が走り去り、ツタンカーメンはセティと二人きりになりました。


 セティは不敵にニヤリと笑いました。

「ボクが勝ったらオマエの心臓をもらうぞ」

「ダメ」

「ふん! 怖気づいたのか!?」

「それはクフ先輩の心臓だ。おれの心臓がほしいなら、おまえはおまえ自身の心臓を賭けろ!」

「ええっ!?」

「あれれー? 怖気づいたのかな?」

「うううっ」

 セティは半泣きになってしまいました。


「仕方ない。おまえはクフ先輩たにんの心臓を」

 セティの顔がパッと輝きます。

「おれはこいつをベットする!」

 ツタンカーメンが右手に高々とかかげたのは、神聖なるナツメヤシの実が練り込まれた、おいしそうなパンでした。


「ファラオの心臓がパン一個の価値なの? クフさん、ちょっとかわいそうかも」

「ンだと、てめー!! バカにしてんのか!? こいつはアンケセナーメンからのお供え物だぞ!!」

「わっ、わかったよぉ、そんな怒らないでよぉ……」

「それで? どんな闇のゲームをするんだ?」

「闇のって……普通にメヘン(ボードゲームの一種)とか、そういうのだよぉ!」

「大人相手に? 賭けとか言っておいて、子どもだから手加減しろってのはナシだぞ?」

「わかってるよぉ! あとね、駆けっことか水泳とか、どっちが長く水に潜っていられるかとか」


 セティはここに来て急に子どもっぽい可愛さを出し始めました。

 が……ツタンカーメンは逆に警戒を強めました。



 神話の時代、オシリス神の息子のホルス神は、邪神セトがオシリス神から奪った王位を取り返すために、セトに戦いを挑みました。

 だけど邪神は、自分では乱暴なことばかりしているくせに『乱暴は良くないよ』などと心にもない言葉でホルス神を騙して、平和的な勝負方法として潜水競争を提案。

 ホルス神を水辺に誘い出した邪神は、カバに変身して巨大な体でホルス神に襲いかかって、ホルス神を溺れさせようとしたのです。



「邪神セトは、クフ先輩のミイラをバラバラにしたのを、オシリス神の神話の再現だって言っていた。

 セティ、おまえがやろうとしているのは、その続きなのか?」

「そうだよ。セト神さまとホルスのやつとの戦いの神話の再現さ」

「……邪神の手口も再現するつもりなのか?」


 邪神は潜水以外にもさまざまな勝負をホルス神に挑み、その度に卑怯な方法でホルス神を打ち倒そうとしてきました。


「そんなことしなくても……セト神さまは、もっといい手を授けてくれたよッ!」


 セティは腰に下げた小袋から、子どもの掌に収まるほどの木片を取り出して、宙に放り投げました。


「!?」


 木片には、ツチブタに似た幻獣の姿が描かれていました。

 邪神セトの頭部を表す、実在しない生き物の頭に、邪神そのものではない四つ足の動物の体。

 木片が地に落ちるのと同時に、幻獣は絵から抜け出して、低い唸り声を上げてツタンカーメンの前に立ちはだかりました。


「さあ、ゲームを始めよう!」

 セティの声が高らかに響きました。

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