第7話 お客様の中に呪術医はいらっしゃいませんか?

 ギリシャで生まれ、ギリシャで育ったアスクレピオスは、そもそもエジプトに来たいとなんて思っていませんでした。

 エジプトだろうとどこだろうと、外国の医療がどんなに優れているって言われたところで、アスクレピオスの師匠のケイロン先生に勝てるはずがありません。

 アスクレピオスは故郷のギリシャの山奥で、ずっとずっとケイロン先生だけから医術を学んでいたかったのです。


(それなのにどうしてケイロン先生は、エジプトへ行けなどと僕に命じたのだろう……)


 アスクレピオスは不満で仕方がありません。

 それと同時に不安でもありました。


(ケイロン先生は、ギリシャの高度な医術を僕なんかに教えても、どうせ覚えられるはずないとお考えになられたのだろうか……?

 無能な僕を先生のそばにおいておくのが嫌で……?

 低レベルな僕なんかは、低レベルな外国で学ぶのがお似合いだと……?)





 雄大なるナイル川。

 大都市メンフィスが近づいて、行き交う船も増えてきます。


 隣を通る貨物船から、アスクレピオスたちが乗った客船に声がかけられました。

「そちらにお医者さまはいらっしゃいませんかーっ?」


 メンフィスにはプタハ神の大神殿があります。

 古代の神殿は、病院の役割も担っています。

 神殿まではもうすぐなのに、貨物船の人がこんな呼びかけをしてくるなんて、よっぽどの非常事態なのでしょう。



「僕は医学生です!」

 アスクレピオスが名乗りを上げました。


 客船の船頭さんと貨物船の船頭さんが合図をして、お互いの船を近づけます。


「ハッ!」

 アスクレピオスは身軽な動きで、ヒラリと貨物船に飛び移りました。





「どいてどいてー! よっこいせー!」

 もとの客船からもう一人、貨物船に飛び移ってきました。

 ツタンカーメンです。

 ですがジャンプ力が足りなくて、ツタンカーメンは貨物船の船べりに足をついたところでガクンとのけぞってしまいました。

 このままでは川に落ちてしまいます。



「危ない!」

 アスクレピオスがとっさに手を差し伸べました。

 けれどツタンカーメンは幽霊です。

 生きているアスクレピオスの掌は、ツタンカーメンの腕をすり抜けてしまいます。



「よっとー!」

 ツタンカーメンは、どう考えても立て直せるような体勢ではありませんでした。

 それなのに、まるで透明な翼でも生えているみたいな動きで、体がフワンと浮き上がって、くるっと宙返りしてスタッと貨物船の甲板に着地しました。 



「なっ!? どうなってるんだ!?」

 アスクレピオスはびっくりしています。

 まさか目の前に居るのが幽霊だなんて気づいていません。



「にへへ~」

 ツタンカーメンはごまかし笑いをしました。

 自分が幽霊だってバレたら、大騒ぎになってしまいます。



「ニヤニヤするな! ああ、そんなことより患者はどこだ!?」

 アスクレピオスは貨物船の中に目を向けました。



 大きな貨物船に積み込まれた、たくさんの荷物。

 荷物の間に寝かされた船乗りさんが、苦しそうにあえいでいます。

 その船乗りさんの顔を、ミイラ男が覗き込んでいました。



「あれ? 先輩、客船で待ってるって言ってたのに。いつの間におれより先に?」

 ツタンカーメンに呼びかけられて、振り返ったミイラ男は、クフ王よりもシャンとした背筋をしていました。


「ミイラ違いです。私はクフ君ではなくて……」

「邪魔だ!」

 妙な会話を始めたツタンカーメンとミイラ男を、アスクレピオスが押しのけました。


 患者の船乗りさんはとてもたくましくて、アスクレピオスの目には、持病があるようには見えませんでした。


 船長さんがおずおずと尋ねてきます。

「どうですか? やはり悪霊の仕業でしょうか?」


「ええ。そうとしか考えられませんね」

 アスクレピオスがうなずきました。


 まだ人類が、細菌やウイルスの存在に気づいていなかった時代。

 ギリシャでもエジプトでも、古代の世界ではだいたいどこの国でも、人が病気になるのは悪霊のせいだと信じられていたのです。



「悪霊退治には、ケイロン先生からもらった、聖なる葉っぱを使うのが一番!」

 アスクレピオスが取り出したのは、解熱効果のある、ちゃんとした薬草でした。

 病気は悪霊のせいだと信じているような時代の人たちでも、だからあきらめようとか、悪霊なんかにかれるようなオマエが悪いとか言って投げ出すのではなく、病人を助けるために懸命に研究を重ねてきているのです。

 そしてその研究は、遠い未来の医療にも繋がっていくのです。



 ですが……

 残念ながら、今回は……


「効果がない!?」

 アスクレピオスが叫びました。

 患者の顔が、見る見る青白くなっていきます。




「ぐっ! があっ!」

 突然、患者とは別の船乗りさんがうめき声を上げました。


 最初のうめき声は、アスクレピオスの真後ろから聞こえました。

 続いて右で。

 それに左でも。

 アスクレピオスの周りで、船乗りさんが次々と倒れていきます。


(感染症か!? いったい何が原因なんだ!?)

 目の前で倒れようとしている人が、せめて頭をぶつけないように、アスクレピオスはその人を支えながらそっと甲板に寝かせました。


 その直後、アスクレピオスの視界の隅で何かが動きました。

「何だ!?」

 アスクレピオスは無意識にソレに飛びついていました。

 ソレは、細長くって、しましまで……

 ソレは、一匹の毒蛇でした。

 そう気づいた時には、アスクレピオスはすでに噛まれてしまっていました。




 強烈なめまいと吐き気がアスクレピオスに襲いかかりました。

 呼吸、心拍が乱れて、意識が遠のきます。


(あ……これ、死ぬやつだ……)


 こんな風に倒れてしまえば、お医者さんにも船乗りさんにも、何の違いもありません。

 突然の出来事を前に、アスクレピオスは、自分はとても無力な存在なのだと感じました。


 倒れた船乗りさんたちは、まだ生きているのでしょうか?

 アスクレピオスには、彼らを助けることは、もうできません。


(こんな異国の地で果てるのか……ケイロン先生……)




 うめき声の向こうから、祈りの言葉が聞こえてきました。

 イシス女神への祈りです。

 冥界の王のオシリス神の妻で、死者の守護者。

 エジプトを代表する神さまの一人です。


(やめろ。僕はギリシャ人だ。死んだからってミイラにされるのなんてゴメンだ)


 そう思いながらもアスクレピオスは、もう声すらも出せません。



「お願いしまーす! イシス女神ー!」


(……幻聴だろうか……こんな状況なのに、やけにのんきな声がする……)


 いえいえ、幻聴ではなくて、今のはツタンカーメンの声です。



「今回だけよ。あんまり人間を甘やかすと、セクメトちゃんに怒られちゃうんだから」


(セクメト……? たしか疫病の女神の……)


 昔、人間たちが神さまを敬う心を忘れた際に、怒りに任せて疫病をまき散らしたと言い伝えられている、危険な女神さまです。




「妻には私から話しておきますよ」


(セクメトの夫といえば……)


 プタハ神。

 これからアスクレピオスが留学する神殿の主です。

 プタハ神の外見は、植物の生命力を表す緑色の肌を、死者への慈しみの包帯で包んだミイラ男だとされています。


(まさか、さっき患者のそばに居たのは……)


 そう。

 先ほどアスクレピオスが邪魔だと言って追い払ってしまったのは、なんと他ならぬプタハ神さまだったのです。





「えいっ!」

 イシス女神が杖を一振り。

 七色の光が飛び散って、患者たちを包み込みます。

 強力な癒しの魔法です。


 神話では、セト神に殺されたオシリス神を、イシス女神が魔法で生き返らせたとされています。

 イシス女神はそれほどにすごい力の持ち主なのです。



 アスクレピオスに呼吸が戻りました。


ア「うぐぉっ! がっ!」

ツ「イシス女神ー! 患者たち、みんな、すっごい苦しそうですよー?」

イ「あー。蘇生させただけで毒まで消せたわけじゃないからね」

ア「ひっ! あぐっ!」

イ「セルケトちゃーん! 解毒お願ーい!」

セ「無理! この蛇、生息地があたしの管轄じゃない!」

イ「えー? じゃあウアジェトちゃん……」

ウ「コブラ以外はわかんないなぁ」

イ「ええーっ?」


 エジプトの神々は全知全能ではありません。


ツ「どうしましょう、プタハ神」

プ「トート神に頼んでおいたので、もうすぐ……」

ト「待たせたな。時空を歪めて未来から血清なるものを持ってきたぞ」


 セルケト女神は砂漠の女神。

 ウアジェト女神は王家の守護神。

 トート神は時の神にして知恵の神。

 プタハ神は、医学に鍛冶に農業にと、マルチな才能を持つ穏やかな神さまです。



いたっ!)

 アスクレピオスの腕がチクッとしました。



プ「なるほど、これが注射というものですか」

ト「おそらく」

プ「……本当にこのやり方であってます?」

ト「たぶん」


 エジプトの神々は、決して全知全能ではないのです。

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