やまんちゅの森

たけゾー

1-プロローグ

「ほら、写真撮るからそこに並んで!」


その声に促され、今までに相当な人数の人が歩いたであろう足元の石を踏みしめながら最後の一段を上る。


そして目的の石碑の隣に立って、カメラの方へと振り返る。


その瞬間、冷たい風が頬を擦り冬仕様の防寒具を纏う僕の体を震わせた。


隣に立った僕の仲間が左腕を持ち上げ、肩を組んでくる。

その仲間の隣には山行メンバー唯一の女の子が立っていた。


「君たちは本当に仲良いね!羨ましいよ!」


女の子が眩しそうに目を細めてそう言った。


「じゃお前も一緒に肩組んでやろうか?」


友達は組んでない方の手を持ち上げて女の子に返す。


「いいよ私は、二人で勝手にどうぞ!」


女の子は笑った。


カメラを構える手の向こうに見えた空は吸い込まれるような青色で、眩しい太陽の光が人々を照らしている。

眼下には雲海が遠く地平線まで広がり、その合間からは何連もの山脈が顔を覗かせていた。

あの中には僕の登った山もあるだろう、そして「あの人」の山も。


「はい、ちーず!」


掛け声に合わせ、笑顔を作ろうとする。しかし既に自分の口角が上がっていたことに気が付いた。


山に登るようになってから、いつの間にか笑っているということが増えた気がする。


今までいくつもの山に登ってきたが、何回山に登ってもその頂に立つという達成感はとても気持ちの良いものだった。


山は様々な感動を与えてくれる、それは登ってみなければどんな感動を味わえるかは分からない。


今日は特別な達成感が僕を包み込んでいた。やはり今まで登ってきた山の中で一番高い場所に立っているからか。


山頂から見える景色は今までで一番高く見えた。


雲は足元よりも低い場所、地表を覆うようして流れている。

この山の巨体に雲がぶつかり山の表面を雲が駆け上ってくるが、ここにたどり着く前に左右に分かれ形を崩す。


それほどここが高嶺な場所なのだ、人間の住める所ではない、神々の宿る場所。


もう一度石碑のほうに目を向ける。

そこには[日本最高峰富士山剣ヶ峰]と記されていた。


そのすぐ横には巨大な火口が口を開けている。

火口壁の影になっている部分には夏の終わりとは思えないような大きな氷のつららと雪が残っていた。



山岳部では私たちがいつも暮らしている世界、電気も水道も通っていて何でも揃う下の世界のことを「下界」と呼んでいる。


その名の通り、ここからではそのような世界がいかに小さく低い場所にあるのかということがよくわかる。


山は「下界」とは世界が違う、コンビニもないし、車もない、水道も通っていなければトイレもない、携帯も繋がらないことが多い。


山小屋に行けば、トイレも食べ物も寝場所もあるのだがそこまでたどり着くには何時間も歩き続けなければならない。


そのような面でこの山は人間にとって恵まれているほうだ。山小屋も沢山あるし、携帯だって繋がる。

多くの登山客が訪れるからか、登山道もよく整備されている。


物価は「下界」とは比べ物にならないのだが。


今までも色々な山に登ってきたがこれほど登山客の多い山は初めてだった。


人が多すぎて日の出を山頂から見られなかったのは少し残念だが、それでも山頂に近い場所から拝んだ朝日は素晴らしいものだった。


オレンジ色に染まった遠く水平線の彼方、暖かく眩しい光が顔を出すと周りから歓声があがった。今まで真っ暗な世界の中、ヘッドライトの明かりだけを頼りに何時間も登ってきた登山客にとってそれは特別な光となっていた。



山頂は記念撮影の順番待ちができている。

長く居座っても迷惑なので、火口の来た道とは反対側をまわって賑わっている山小屋まで戻ってきた。

これをお鉢巡りと言うそうだ。思っていたより起伏のある山頂をぐるりと一周してくると、みんな思い思いに下山までの時間を過ごした。


誰かに電話をかけたり、お土産を買いに行ったり、散歩してくると言って高山にも関わらず走ってどっかに行ってしまう先輩がいたり。


僕はというと山頂からの景色を堪能していた。足元の下のほうを形を変えながらゆっくりと流れる雲をずっと見ていても飽きなさそうだ。


そんな風に僕がのんびり景色を眺めていると、


「めっちゃ景色やばくね?こう見てると日本はどこまで続いてるんだろうって思わない?こんな景色を見れるんだから俺、山岳部に入ってよかったって思うよ」


ここぞとばかりにコーヒーをいれて啜りだした山岳部の男友達が話しかけてきた。

この時のためにわざわざ自前のガスとバーナーを持ってきたようだ。


「それは僕も思う。写真を撮っていて楽しいし、なんだって絵になりそう。てゆーか山頂でコーヒーとかカッコいいな!」


友達はコーヒーをいれたコッヘルを僕に見せつける。


「だろ?持ってきたんだぜこれ!こんな景色の中で飲むコーヒーは最っ高にうまいぞー!しっかしこんな頭が痛くなるとは予想外だったけどな!」


そう言って彼はコッヘルを自分の顔の前まで持ち上げ、昇った太陽にそれを重ねて目を細めた。

頭が痛いというのは高山だからだ。実際に僕も山頂に近づいてから頭が痛み出した。昨日の夜から登り始めて寝不足なのも原因だろう。

僕は下を向いて僕らが登ってきた登山道を見渡した。そこにはまだ登ってくる登山者がいた…。


「な〜にやってんだっ!」


急に後ろから元気の良い声が掛けられた。

僕と友達は、驚いて振り返る。

それは山小屋から戻ってきた、このメンバー唯一の女の子だった。


「お!コーヒー?なーにかっこつけちゃって、君はコーヒーを愉しむような性格だったっけ?」


彼女はからかうように笑って、ズイと顔を僕たちに近づけてきた。


「うるさいなあ!俺だってコーヒーぐらい飲むわ!ずっと真っ暗な道登ってきたんだからこんぐらいいいだろ!寒いし、やっと明るくなって景色楽しんでるんだから…

って…ちょ、おま、なんでここ入ってくるの!?」


彼女は友達が話し終わるのを待たずに、そのまま僕たちの間に割り込んで座った。


彼女はこの山を人一倍楽しんでいるように見える。

僕もこの山を楽しんでいるつもりだ、この山にしかない魅力を、風景を。



僕らは学校を昨日の夕方にバスで出発し、登山口に着いたのは昨日の23時前、それからずっと登ってきた。


夜の登山道から見えた光景はとても印象的だった。

ご来光を拝もうとする登山客のヘッドライトが山頂まで連なり、黒い山体に光の帯となって現れていたのだ。

つづら折りの登山道に登ってゆく光の列が幻想的で、まるで何かに取りつかれ一心不乱に頂上を目指す山の亡者たちの行列にも見えた。


登っている途中には、登山道で力尽きて眠ってしまっている人もいた。


そんな中を登ってきた。



…いつからだろうか、僕が大変な思いをしてまで山に登ってしまっているのは。


うちの学校の山岳部は思っていたのより少し違った。


夏合宿は一週間山に登っていた。顧問曰く大学生並だそうだ。


いつも自然が味方していてくれたわけじゃない。


やめたいと思う時もあった、帰りたいと思う時もあった。


でも、山岳部をやめることもなく今もこうして山を登っている。


なぜだろう、つらくて泣きたいときもあったはずなのに、写真も撮れない日もあったはずなのに…。



本当に嫌だったのならとっくにやめていただろう。


それ以上に山が感動を与えてくれたから、平地では決して味わえない自然の偉大さを教えてくれたから、


そしてそれを共有できる仲間がいたから、



結局は僕も昨日見た山の亡者の一員なのだ。



登山客の中には軽い気持ちで登っていた人もいただろう、はたまた何百という山を登ってきた登山家もいただろうか。



でも山が嫌いで登っている人はいない、混沌とした世界の日常から抜け出して、人間が作り出すことのできない美しさを求めて登っているのだ。



「あの人」もそれを求め、美しく刺激的で、時に残酷な山を登っていたのだろう。



山は異世界だ。「下界」とは違う世界。それは行ってみないと分からない。



だから僕は山に登っている、新たな出会いを求めて。

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