5話:アバターネーム(③)
「――、ちょっと、待ってください」
僕は思わず口を挟んだ。牧田先輩は不思議そうな顔で「どうしたの?」と聞き返す。その声は相変わらず凛としていてまっすぐで――なのに、僕の胸の奥はざわめいている。
死んだ人間が生き返らないことはわかる。それをマスターにわかってほしいのもわかる。マスターが頑固で、ミキ先輩がちょっと説得したくらいじゃ簡単に自分の意見を変えそうにないのも――だからこそ彼女が彼女の行動によって、実力行使でわからせようとしているというのも、なんとなくわかる。筋が通っていて、理に適っていて。
――でも、なんだろう。
何かすっきりしないのだけれど、僕には彼女の話のどの部分に飛躍があったのかがわからない。そもそも、僕が納得できないだけで、彼女の考えに間違いはないのかもしれない。でも、なんとなく、「これでいい」とは思えないんだ。
「……巴くん」
その声に我に返る。彼女は僕を見つめていた。笑ってもいない。怒ってもいない。蛍光灯に照らされ光る髪の黒がいっそう濃くて、それが一房たらりと垂れてくる。
「『納得がいかない』……って顔をしてる?」
え、と漏らすと今度は彼女が「あ、」と言う。
「ああやだな、私の気のせい? それか、私がきみに『納得いかないって思ってほしい』から、『そういうふうに見えた』だけかもね。そうかも」
そうだったらだめだね、と彼女は笑う。それを見ながら、今更だけど、なんだかこの人はずるいなと思った。
「……『納得いかない』って、思ってますけど」
彼女は僕を上手に誘導する。僕が質問をするように。僕が何か、意見を言うように。
でも、正直、自信がない。だって、ここから――今から僕が話すこと、今僕が思っていることには根拠もない。論理的じゃないなら正当性も説得力もない。そんな言葉を向けたって、他人に――目の前の彼女に、何かが届くわけもない。
しかし、彼女は僕の言葉を待っている。まっすぐな瞳で僕を見据えている。
その真剣な眼差しに――僕は素直に言うことにした。
「でも、それを主張するための根拠がないです。それに何が間違っているのか、どこが気になるのか、わからないです。だけどただ……僕は、『それはおかしい』って思います」
――静寂が、訪れる。僕はいつの間にか、息を止めていた。
これでよかったんだろうか。そう思っていると、不意に彼女が立ち上がる。立ち上がった牧田先輩は両腕を上げ、上半身をぐぐっと伸ばすと、すぐに下ろして小さく息を吐いた。
「……それで十分だよ」
牧田先輩は、ゆっくりと歩み始める。壁の方へと一歩進むたび、その長い髪が揺れて膨らむ。
「私もね、感じてるんだ。自分の言ってること、やってること、どこかで間違って、おかしくなってるって」
「そうなんですか……?」
振り返らずに彼女は頷く。
「本当に、ですか? 僕は、自分の考えにものすごく自信があるんだと思ってましたけど」
言い終わる頃、牧田先輩はぴたりと立ち止まる。そして近くにあった棚の一つに手を伸ばし、一枚のCDケースを取り出した。透明なケース。何か、ラベルに文字が書いてある。
「もちろん、自信もあるよ。自分で出した考えを信じて、三年間も同じことを続けてきたんだから。だけどその自信は、自分の不安を無理やり上塗りするためのものでもある……」
牧田先輩の細い指は、優しくCDケースの背をなぞる。
「今までずっと自分が信じてやってきたことが間違いだったなんて、思いたくないでしょ。そんなこと考え始めたら、もう歩けなくなっちゃう。……それが一番、だめだと思うから。前に突き進むために、自分で自分を疑わないように、言葉で自分を欺いているの」
「……それ、しんどくないですか」
「どうだろうね」
黒くて重たげな長髪が、濡れたように光っている。
「でも、ここまで来ておいて、自分を否定して振り出しに戻る方が馬鹿らしいかなって思うんだ。そうは思わない?」
……僕は、牧田先輩の言うことがなんとなくわかる気も、する。僕も自分で自分自身のことを否定したくない。少なくとも、自分の信じた自分の考えを否定したくない。そのためにたくさんの都合のいい言葉で自己正当化するのが日課みたいな人間だ。そうやって自分を保っている。そういう意味では僕と彼女は、きっとよく似ている。
でも、だからこそ――わからないことが一つだけ。
「……なんで、それを『僕に言う』んですか」
ぼそりと呟くと、牧田先輩が振り返る。黒髪がきらめく。
「どうしてそんな、『弱み』を見せたんですか。見せたくないでしょ、だからあなたは今まで僕を、言葉で欺いてきた。なのに……どうして、今さら」
そんなことをしたら、彼女が守りたくて、傷つけたくなくて、必死になって頑張ってきたものを、僕が傷つけてしまうかもしれない。
「僕は……あなたのことを知らない。あなたのことを正しく、ちゃんとした論拠をもって否定できるとは思えない。それでもあなたが自分の意見を言えって言うんなら、僕は、あなたを根拠なく非難したり、不当に傷つけたりするかもしれない。――それでも、本当にいいんですか」
――ぱかん、と音を立てて、CDケースが開かれた。
「……『それ』を、私はずっと望んでいたんだよ」
「え?」
「きみに否定してほしくて。私のことも、マスターのことも」
パキンという小気味のいい音とともに、CDが取り出される。牧田先輩は近くのオーディオコンポに歩み寄り、その電源ボタンを押す。すっかり背景となってしまっていたそれは、僕の家にある物よりずっと大きく、立派なコンポだった。
「『僕に』、『否定してほしい』……?」
「そうだよ」
真っ黒な画面に「HELLO」の文字が浮かび、消える。次に表示されたのは「NO DISK」だ。
「最初に会った時、きみに『運命』を信じるかって訊いたこと、覚えてる?」
牧田先輩の声に、考える。そんなこともあったっけ。あれは部室の黒板の前だった。黒板に名前を書いて、自分の名前の由来を聞かれて。あの時にはもう「サインイン」――「世界の交差」や、この人たちに関わっていく契約を、結ばされていたんだよな。
「黒板で行った『サインイン』は、『契約』それ自体でもあるし、その人が創作部に入部できる人間かどうかを調べるための『テスト』でもあるんだ。といっても、基本的にサインインできない人間はいないから、『契約』って意味合いの方が大きいけどね」
彼女がボタンを押すと、ウィーンと小さな音を立てて、黒色のトレーが現れる。
「それが、マスターから言われている適切な部員の見極め方。……でも、『私』にとって重要なのは、私がしている『質問』の方なんだ」
聞きながら、僕は彼女のCDの持ち方が綺麗だと思った。できるだけCDとの接触を少なくするよう、つまむように持つ手が美しく見える。
「私は、例えば『運命』についてどう思ってるか、みたいな話をした時に、きみたちがどんな反応をするかを見ていたんだ。……これから自分の仲間になる人が、ちゃんと『マスターを』、そして『私を』疑うことができる人間かどうか見極めておきたくて」
「『疑うことができるかどうか』……」
「『世界の交差』なんていう超常現象を目の前にして、それがもたらす面白さや利益を享受するだけでなく、常に『自分』という視点を持ち、矛盾を探しつづける姿勢。それを持った人に出会いたかったの。それがないと、『世界の交差』の調査、そして、私の望む『マスターの否定』と、それを叶えようとする『私の否定』をすることはできないから」
「……先輩は、『自分で自分の考えを否定したくないと思う』と同時に、『自分の考えを否定してくれる誰かを探していた』……?」
僕の言葉に、彼女はより力強く頷いた。そしてだるんと腕の力を抜く。彼女はため息を吐くように「他力本願だけどね」と呟いた。
「私はね、ずっと誰かに、私の凝り固まった考えを『間違ってる』って否定されたかった。そして、……解放されたかったんだと思う。自分のことを否定してくれる『誰か』に出会って、私の『世界』を変えてもらいたいって、願い続けていたんだ」
「……それが、」
「そう」
牧田先輩は、僕の「世界」の中心で、微笑んだ。
「私の話に怯まず、自分の考えを聞かせてくれた、『きみ』なんだよ」
……チカリ、と、目の奥が光った。
「きみはあの時、『運命』を、『行為の結果に現れる選択肢だ』って言ったよね」
「……はい」
「今なら、それ、なんとなくわかるんだ、きみの行為が、選択の一つ一つが、きみの『運命』を作っている。例えば、『世界の交差点』でマスターと口喧嘩をするとか……。本当に、前代未聞だったんだよ。でも、そうやって、『世界の交差』や『マスター』を疑い続けてくれたことが、今のきみの、この状況を作り出したんだ」
彼女はCDの縁を人差し指でなぞる。僕は頬に熱い血が集まっていくのを感じて、思わず顔を逸らす。
「『この状況』って……。僕は、マスターを否定することに、失敗したんじゃないですか」
牧田先輩は首を横に振る。そして、優しい口調で言った。
「きみは、私がスカウトした人の中で、初めて、この世界でマスターと直接会った人になってくれた。ゼロちゃんに会ったのもそう。『仁』っていう名前を教えてくれたのも、そうだったんだよ。私はその名前が、マスターを否定するために必要な名前だって『直感』した。根拠なんてないけれどね」
彼女はいたずらっぽく笑う。僕はその言い方に、言いようのない安堵と親近感が湧いた。
「きっと、きみはまだ『運命』の糸で繋がった、数々の出来事の中にいるよ。きみが『ここ』に連れてこられた――ってことはね」
「え、それって、どういう――」
「私はきみの、マスターとの『運命』を信じてるってことだよ」
そう言うのと同時に、牧田先輩はコンポの再生ボタンを押す。
キュルキュルキュル……という回転音。そして、イントロが流れ始める。
イントロを聞いた僕は、すぐにそれが僕の知っている曲だとわかった。
ベースの低音が心地のいいイントロは、僕がiPodに入れて何度も聞いている曲。そして夏休みの初日、僕が美術室に置き忘れたiPodで、牧田先輩が勝手に聞いていた曲だ。
「……CD、持っていたんですか」
僕の問いかけに、牧田先輩は微笑んで応える。
「当時のラジオの放送の後に、父が気に入って買ってたみたい。巴くんのおかげで思い出したんだ。家に帰って久しぶりに聞いて、いい曲だなってしみじみ思っちゃった」
ゆっくりと僕に近づくと、先輩は手のひらを差し伸べる。僕はそれを握るべきかどうか迷ったが、おとなしく手を取る。その時、自分の屋根になっていた灰色の机の上に置かれていた物を見て、思わず目を丸くした。
四本のマイク。埃をかぶったプラスチックのファイル。乱雑に重ねられた紙の束。その一番上にプリントされた、黒の太文字。
「え、先輩……っ」
「『ゲスト』の席はそこだよ、巴くん」
牧田先輩はすぐ傍にあった、背もたれのついた椅子の一つに腰かける。そして、一番上に置いてあったプリントの埃を手で軽く払うと、ざっと目を通した。真剣な瞳で。
曲はAメロが終わり、いつの間にかBメロが始まろうとしていた。指し示された椅子に座りながらも、頭は高速回転している。
牧田先輩がこの曲を知っていた理由。「懐かしい」と言った理由。僕が彼女の声に、懐かしさを抱いた理由。彼女の父親の職業と、マスターと彼女が出会ったきっかけ。マイク、CD、コードに、「スタジオ」。――つまり、ここは。
「『……というわけで、私はこの番組のDJを今月いっぱいで辞めます。今まで応援してくださった方、どうもありがとうございました。本当に感謝しています。さて、来月からは私に代わって、父の旧友であるアンドウさんに、DJをお任せする予定です。後ほど父からご紹介をさせていただきますが、その前に、私としてリスナーの皆さんに、お別れのご挨拶をさせてください』」
その、凛と澄み渡るような声に、空間をたっぷりと満たすようなバラードに、僕は、記憶が小学生の時まで引き戻される。
……毎晩、学校から帰っては聞いていた。穏やかな声の男性と、聞き取りやすくて、あたたかな声色の女の子の会話を。
僕は毎週、そのラジオ番組を楽しみにしていた。友達は当時から少なかったけど、クラスに馴染んでいるとは言えなかったけど。学校に楽しさなんてあんまり見つけられなかったけれど、そのラジオだけは僕の楽しみだった。
「『長い間父の手伝いをしていましたが、私もとうとう中三になりました。あと一カ月で受験です。今までも少しずつ勉強はしていましたが、これからラジオをやめ、集中して、行きたい高校に進学するために勉強をしたいと思います。今まで応援してくださって、本当にありがとうございました。中学生ラジオDJ、アシスタントの――』」
「『ミキ』、ちゃん……!」
「『あと一ヵ月』の受験勉強で何とかなるなんて、大学受験じゃありえないね」
あははっと屈託なく笑う、その声は確かに、確かに聞いたことがある声だ。むしろ、同世代のどんな女子よりもよく聞いていた笑い声。僕は思わず目の前に座る彼女の姿を、その顔をまじまじと見た。
地元のラジオ放送局のとある番組で、「ミキちゃん」の愛称で親しまれていたこどもDJ。「お父さんのお手伝い」という名目をそのまま番組のテーマにして、彼女とその父とで進行していく音楽番組のことを、この辺りでラジオを聞いていた人はほとんど知っていたと思う。
「ミキちゃん」は、老若男女、幅広い世代に愛される女の子だった。声こそは幼いものの、大人に対して物怖じせずに、堂々として礼儀正しい「ミキちゃん」は、当時の僕のような子どもからすると一種の憧れだった。また同時に、親の世代や祖父母の世代からしてみれば、「ミキちゃん」は理想の「いい子」や「いい孫」だっただろう。
彼女は中学卒業を機に、その番組から――そしてこの町から姿を消した。その後のことは知らない。彼女はまだ子どもだったし、その行方が知られることはよくないことなんだろうなと幼心に思い、考えないようにしていた。
けど、気になっていなかったわけじゃない。この町のどこかにいるのだろうか……いや、この町を出て遠くに行ってしまったのだろうと思うようにしていた。でも、まさか!
「あなたが、『ミキちゃん』だったなんて……!」
「すぐバレちゃうかと思っていたけど、そうでもなかったね。在校生の何人かにはもう知られてるんだけど、巴くんは新入生だもんね」
そう言うと、牧田先輩は原稿を机に置いた。そこには、番組名と日付が、わかりやすく印字されている。それは彼女が何度もコールしていた名前。日付は、二年前の一月だった。
「最初に会った時、巴くんの好きな曲が『ラジオで紹介されてた曲』って聞いて、まさかと思ったの。思い返してみれば自分が紹介した曲だったから……嬉しかったな。ちゃんと、誰かの中に『何か』を残せてたんだなってさ」
彼女は初めて会った時と同じように、ほろり、と笑う。その表情を見た瞬間、初めて、僕は牧田先輩――「ミキちゃん」の、顔と、名前と、声が一致した気がした。
「ここは、私の父が勤めているラジオ局の跡地なの。放送局も番組も数年前にリニューアルして、駅の近くの商店街の方に移転したんだ。それからここには古い機材だとか、今までの原稿だとかをしまってるの。いわば物置小屋って感じかな」
机の上で寄り添っている、埃で白っぽくなったマイクを一瞥してから彼女は僕を見る。彼女は机に両肘を突き、組んだ手の甲に顎を乗せてにこりと笑った。
「察しのいいきみなら気づいたかもしれないけれど、そう、私とマスターはこの建物の中で出会ったの。マスターは当時、音響機器を探していてね」
「……音響機器?」
僕が聞き返し、彼女は頷く。
「後から知ったんだけど、その時、マスターは『世界の交差』システムの開発途中で、自分以外の人間が『世界の交差』を起こすために使える場所を探していたんだって」
彼女は指を折りながら話す。
「条件としては、人の出入りが少ないことと、密室にできること、常時使用可能な音響機器があること。『あっちの世界』から『こっちの世界』に帰ってくるときに目印となる音源の用意が必要らしくて……。ここには音源はあるし、密室にもできるけど――やっぱり人の出入りが多くてね。マスターは諦めたみたいね」
「それが、今は多目的教室に……」
「そう。あれは私の提案ね。あそこなら校舎の端の端だし、あんまり人も入ってこない。それに、学校にはチャイムがあるから、無料で音源を『借りられる』ってわけ。学校側はまさか、そんなことに使われているなんて微塵も思っていないのだろうけど」
牧田先輩はニコッと笑い、組んでいた手を膝の上に置く。背筋を伸ばした彼女の後ろで、いつの間にか二曲目を流し終えていたコンポが、三曲目のイントロを流すところだった。
「私が初めてマスターに出会ったのも『ここ』。初めて巴くんに会って、私がきみに惹かれたのも、『ここ』で私の紹介していた曲を、きみが好きだと言ってくれたから。そして――マスターが気絶したきみを運び込んできたのも、『ここ』。……あいつが意図的に『このスタジオ』に運び込んだかどうかはわからないけどね、もし『偶然』ならでき過ぎていると思った。『運命』って呼びたいくらいにね」
「……どうしてですか?」
僕の問いに、彼女は机の縁をなぞる……と、力を込めてそれを引っ張る。ガゴン、という低い音を響かせて、大きな引き出しが現れた。
彼女はその中から一枚のCDケースを取り出す。プラスチックのケースに入っているのは白無地のディスクだ。
「このCDを使えば、ここで今すぐにでも、『世界の交差』を起こせる」
「……えっ」
噓、と僕が言うと、牧田先輩は笑ってそれを僕たちの間に置いた。
「これは、マスターが私に渡してくれたCD。録音されているのは、うちの学校のチャイム音……。マスターはね、私に『世界の交差』の入り口の一つを預けてくれているの。もっとわかりやすく言えば、私はこの音源を使って、この場できみに、『世界の交差』を起こさせることができるの。その権限を与えられているってことね」
でも、こんなふうに使う時が来るなんて思ってもみなかったと彼女は笑う。僕は心臓が高鳴るのを感じた。
「もう、今から『世界の交差』を起こせるってことですか……? 学校に行かなくても?」
「ええ。……そして、きみがこっちの世界に帰ってくる時間は、下校のチャイムの時刻じゃなくてもいい。私がこのCDに録音されたチャイムの音を流せば、それが合図になる。そうすればきみは必ず目を覚ます」
「眠り始めた一分後とか、五分後とかでも、ですか?」
「さすがに一分は短いから、少なくとも十分から十五分は取るよ。こっちとあっちとで時差が生まれて、何らかのバグが起きてもいけないし」
彼女はもう一度CDケースを手に取ると、その表を優しく撫でた。
「もちろん、『世界の交差』を起こすのは明日でも、明後日でもいい。『ここ』じゃなくて、いつもの部室でもいい。むしろ今、この場ですぐ起こす必要は全然ないんだ。……ただ、」
そう言い、彼女は僕の瞳をまっすぐ見つめる。
「『予感』しているんだ。もし何かが変わるなら、きみが『ここ』で私の話を聞いた直後で、私が『世界の交差』を起こせる、今しかない……って」
僕は、彼女の瞳をまっすぐ見据えた。黒くて静かな瞳には、もう一点の曇りもない。代わりに、その奥には燃えるような切実さがあった。
「先輩は、『この状況』だからこそ、僕に託したいって……?」
「そうだよ。『この状況』を作り上げてくれた、きみに託したいんだ。きみなら、きっと何かを変えられるから」
牧田先輩は僕に向かって笑いかける。
「私は、きみの『運命』を信じてるよ」
――僕は、目を閉じる。
そして、今までの牧田先輩の言葉を振り返る。
牧田先輩は、中学の時からずっとマスターの願いを否定するために、マスターに従ってきた。彼女は、マスターの「死んだ人間ともう一度生きたい」という、到底叶えることのできない願いを諦めてもらいたい。今のマスターの状況を変えたいんだ。
しかし、どこかで自分のやり方に疑いを持ちつつも、自分を否定しないために前に進むしかなくなってしまった彼女は、彼女とは別の方法でマスターを変えることができる人物――「運命」の人を探していて、それが、この「僕」だと「予感」していると言う。
彼女は自分のことを「他力本願だ」と言ったが、その「他力」が「僕」のものである必要性は、きっと論理的に説明することはできないのだろう。「偶然」、「予感」、「運命」。そのどれもが客観性に欠けていて、論理的根拠とはならなくて。これを論拠として「他人」に――「僕」に納得させるのは、少々無理やりでパフォーマンス不足だろう。先輩の話は筋が通っているように見えて、実際そんなことはない。
でもきっと、彼女もそれ以上の根拠を提示することはできないんだ。賢い彼女はそれをきっとわかっている。にもかかわらず、彼女はマスターや彼女自身を変えられるのは、他の誰でもない「僕」だと言ってくれる。
彼女は「僕」を選んだ。根拠はないけど――ないのに、僕を信じているんだ。
僕にとって「非凡」の代名詞のような彼女が、「僕」のことを、「特別」だと言ってくれたんだ。――これ以上、僕にとって嬉しいことがあるだろうか。
「……先輩、」
僕が言うと、牧田先輩は「なあに」と返事をする。
「先輩は、噓をつきますか」
「噓?」
「僕に言ったように、『きみだからこそ託したい』って、他の多くの人に言ってたりしませんか」
彼女は一瞬きょとんとしたが、僕の言葉の意味を察すると、あははっと声を出して笑った。
「他の人にも、きみだけが『特別』だよって言ってないかってことね! ないよ。今まで噓ばっかりついていたから信じてくれないかもしれないけれど、本当に、きみだけにしか言ってない」
「そうですか……」
思わず歯切れの悪い返事をした僕の様子を見て、牧田先輩は「そうねえ、難しいけれど」と前置きをして、僕に語りかける。
「もし私を信じられないなら、私じゃなくて、自分の胸に訊いてみて。今自分が何をしたいのか、そして、何をするべきだと感じているのか」
もし「運命」なら、きみの心がわかってくれるはず。
そう言うと、僕に向かってノックをするようなジェスチャーをする。僕は、自分の考えをどこからどこまでを言うべきか迷って――彼女の「言いたいことは、言わなきゃ伝わらない」という言葉を思い出し、言える限りのことを言うことにした。
「僕には、――あなたみたいな切実さは、今は、ないです。それよりも、あなたが『僕』を選んでくれたことが単純に嬉しい。僕にとって、あなたは『特別』だったから」
彼女は僕をじっと見つめたまま動かない。僕に話す権利を与えてくれているのだろう。
「あなたが自分のことを、自分の考えを話してくれたのも、たぶん、よかったんだと思います。おかげで僕は、以前よりもずっと、あなたのことを身近に思うようになった。そして、あなたのことが少しわかって、すっきりしたんです」
喉の奥が、頭と繋がっている所がひりひりする。でも、言葉は、思いや考えは、堰を切ったようにあふれて止まらない。
「あなたの話を聞いてすっきりした部分もあるし、でもすっきりしない部分もある。例えばマスターのことはあなたから聞いただけで、本人の口から聞いたわけじゃないですよね。僕、他人の主観で語られたことは簡単に信じないことにしてるんです。だから、もしマスターのことに関して何かを考えたり、何かを選んで行動したりするのであれば、僕はマスターの話を聞いてからにしたいです。僕は今、マスターの話を聞きたい」
「巴くん……」
「その前に聞いてみたいこともあって、それは『Lの世界』にあるから――やっぱり、『世界の交差』を起こしたいです。今、ここで。明日が来る前に」
「……そう言ってくれると、信じてたよ」
真面目な顔をしていた彼女が目を細める。その瞳はあたたかな安堵に満ちていた。
「きっときみの選択が、マスターの、私の、そしてきみ自身の『運命』になる。その行き先がどうなっているかはわからないけれど、何か――いい方向に進むと信じているよ」
そう言うと、彼女はすっくと立ち上がる。
CDケースを手に取って、いつの間にか再生が終わっていたオーディオコンポの前まで歩いていく。僕は慌てて椅子に座り直し、机の上にしっかりと肘を固定する。いつ意識がなくなってもいいように。
机の上に積もった埃を拭いておけばよかったかなと思う時、僕は屋上でウェットティッシュを渡してくれたひょうのことを思い出している。
「CD、セットしたよ」
彼女の声に我に返る。と、彼女は再生ボタンを押した。いい機器を使っているからだろう、いつもより音質のいい、キーン、コーン、カーン、コーン……というチャイムの音が、部屋中に響き渡る。どうやらすぐには眠くならないようだ。
「念のため、十五分くらい経ってから、この音を流すね。それまでずっとこの部屋にいるし、うちの人は誰も入ってこないはずだから安心して」
笑顔の彼女に、僕は余計なことかと思いつつ、それこそ念のためで確認する。
「そういえば、もし先輩が帰ってくるための音を流さなかったら、どうなるんですか」
牧田先輩は虚空を見つめて少し考えた後、短く「そうだね」と言う。
「たぶんだけど……目覚めないんじゃないかな」
「えっ」
僕は思わず声を上げる。牧田先輩は「でも、まあ」と言葉を続けた。
「体を学校に持って行って、下校時刻のチャイムを聞かせたら起きるかもしれない……かな。あは、あんまり考えたくないね。そうならないためにも、私がしっかり見ておくから」
「はあ……」
「私じゃ、信頼できない?」
牧田先輩は僕の傍までやって来ると、黒髪をたらんと垂らして僕を覗き込む。僕は彼女の考えていることを推し量ろうとして――やっぱり考えるのをやめようと思った。今は。
「いえ……よろしくお願いします。頼みました」
「うん。じゃあ、さっそくだけど……行ってもらおうかな。そういえば、『Lの世界』っていうのは、マスターが言ってたの?」
僕は少しどきりとする。が、正直に言うことにする。
「いや、僕が……勝手に呼んでるんです。『あっちの世界』は『Lの世界』で、『こっちの世界』は『Rの世界』って」
「かっこいいね。私も今度からそう呼ぼっかな」
「まあ、お好きにどうぞ」
僕は逃げるように目を閉じた。そして、机の上で組んだ腕に、頭を乗せて、寝る態勢に入る。
「それじゃ、巴くん」
牧田先輩の声が部屋の中に響き渡る。僕は、腕の上でわずかに頷いた。
「きみの願いを言ってごらん」
「――、僕は――――」
僕が願いを言うと、突然後頭部を殴られたかのような、強くて激しい眠気が僕を襲う。
――「世界の交差」が、起きるんだ。
そのまま僕は意識を手放す。もう恐れるものは何もない。きっと、僕はもう一度、マスターに会うことができる。
痛みのような暗闇に自分の意識を預ける時――預け切るその前に。
僕はもう一つ、ある「特別」な願い事をした。
◇
――人って、完全に『わかり合う』ことができると思う?
僕は問いかける。返ってきたのは穏やかで透明な声。たいした回数聞いてないはずなのに、妙に心地のいい透明なその声は、おそらく僕の「道具」――結花ひょうの声だ。
「『わかり合う』……ですか」
「うん、まあこの際、『わかり合う』じゃなくて、『わかる』だけでもいいんだけど。……ねえ、人は、他人のことを、そして他人の考えを、完全に理解することはできるんだろうか。だって人って、自分のことですらちゃんと理解してないんだよ。それを他人が外から見て、ちゃんと『わかる』ことってできると思う? 途中で間違えちゃう可能性の方が高くない?」
「それは、そうかもしれないですね」
「でしょ? そしたら『相手のことを知りたい』だとか、『相手のことをわかりたい』っていう気持ちってさ、無意味な行為だと思わない? ちょっと考えたら誰だってわかるはずなのに、どうして人は『わかりたい』って思うんだろう。その気持ちの終着点は、どこにあるんだろう。例えば『わかった!』って納得することは一つの終着点だと思うけど、もし途中で間違えてしまったら、『わかった』っていうその納得は間違いかもしれない。っていうか、間違えることの方が多いんだよ――ってなったら、『わかった』っていう感情は、そこに行き着いた時点でほぼ間違えてるんだ。人は他人のことを『わかりたい』、『知りたい』って言うくせに、実際は自分が納得できる形に当てはめて、自分が納得できる範囲の中だけで『わかった』って言って、自分の都合のいいように結論づけるだけだ。やつらは結局、何もわかっちゃいない。全貌も真実もやつらには必要なくて、ただ、自分の知識欲が満たされればそれでいいんだ。『相手をわかりたい』は、『自分の欲求を満たしたい』なんだ。ってなったら、『わかる』つもりがないのに『わかりたい』って言って近づくことも、話を聞いて『わかった』って言うのも、なんか、とっても失礼なことだと思わない? それなら他人なんて、最初から近づかない方がよくない?」
「……論理が飛躍していますね」
ひょうは、穏やかな口調で僕の話を遮った。僕が「どうして?」と尋ねると、ひょうは静かに語り始める。
「相手のことを『わかる』ことは、確かに難しいです。巴様の言うとおり、人は自分自身のことすらきちんと理解していません。自分のことも、相手のことも、『わかる』ことは難しいでしょう。さらに、自分の外にある物を見るとき、理解しようとするとき、私たちはそれらを、どうしても一度は『自分』というフィルターに通す必要があります。その時に間違えてしまうこともあるでしょうし、途中で満足してしまって理解することをやめてしまうこともあるでしょう――ですが、私は『わかりたい』という気持ちに、最初から『わかる』つもりがないという気持ちが、常に伴うとは思いませんよ」
「じゃあ補足。『わかりたい』っていうくらいだからさ、なんか、相手に向かう意思の動きはあると思う。ただ、その原動力は結局、『自分の知っていることを増やしたい』だとか、『それを知らないのは不安だから、知ることで自分が安心したい』だとか、『自分が経験したことがないことだから、今後の自分の人生のために参考にしたい』みたいな、そういう自分の欲求から来ているんだ。だから、その欲求が満たされれば、大抵の人はそこで理解しようとすることをやめてしまう。それが失礼だと思うんだ。『相手のため』っていう素敵で素晴らしい言い訳で自分のエゴを正当化する、その態度が気に食わないんだよ」
「そういう行為が『失礼』だから、『最初から近づかない方がいい』と?」
「ああそうさ。っていうかそもそも、人の人生に、真実も善悪もないじゃん。生きてきた道が人生で、正しいも間違ってるもないよ。だってそれは、人が外から判断するものだから。その人生を生きている人にとって幸せな人生だったなら、それは『いい人生』でいいじゃん。わざわざそれを外から見て事情聴取して、『それは間違ってる人生です』なんて判断する必要なんてないじゃん。どうして人はいちいち知りたがって、自分の言葉で語ろうとする? 他人の生き様について自分の意見を述べようとする? 『あんたの考えなんて聞いてないっつの! あんたは僕の人生の何なの? 他人だろ!』って気持ちにならない?」
「……やっぱり、論が飛躍していて――さらに、交錯してきましたね」
透明な声が、僕を遮る。その穏やかな響きが心のささくれを撫ぜた時、僕は少しだけ我に返った。
ひょうはしばらく喋らない。が、僕の感情が鎮まるのを待っていたのか、静かに話を切り出した。
「最初の質問は、『人は、相手のことをきちんと理解することができるかどうか』でしたね。巴様と私の共通の理解として『それは難しい』ということを確認した上で、あなたは『人が、相手のことを理解しようとするのは失礼なことではないか』と主張している。自分の欲求を満たすために、『相手のため』という大義名分を振りかざして行動する。その欲求が満たされてしまえば、相手のことを理解したかどうかに関係なく、それらの行為をやめてしまう。それら一連の行為が『失礼』に値するので、人は他人のことを理解しようとすることをやめるべきだ……という意見で、間違いないでしょうか?」
「……うん、」
「お気づきですよね? 自分の論の破綻に」
責めでも、中傷でも、決めつけでもない。ただの指摘、確認だった。
僕は自然に頷く。とても冷静な声だけど、ひょうの声は決して冷たい印象を与えない。
「あなたは、それが言い訳だってわかっている。あなたは、自分の言葉で自分の行為を正当化することもあれば、自分の行為を否定しようとすることもある。今、あなたは後者であり、あなた自身が心に決めた行為を疑い、否定しようとしている――違いますか?」
「どうしてそう思う?」
「まず、あなたの願いは――〈『世界の交差』の仕組みを暴き、マスターの世界をぶっ壊すこと〉ですね」
「うん、そうだね」
「あなたのあなたらしいところは――マスターの否定のために、〈『世界の交差』の仕組みを暴く〉というプロセスを挟むところ。初めて学校に行く前に、こんなことを言ったのを覚えていらっしゃいますか?『相手のことをよく知らずに言う悪口が論理的根拠を持たないように、何かを批判しようと思ったら、まずはそれがどういうものであるかを見極めなくちゃいけない』――って」
「……うん、覚えているよ」
「私は思うのですが――、『見極める』って、起きている事象や相手のことをよく見て、『理解』し、『判断』するっていうことになりませんか?」
僕は口をつぐむ。ひょうは、淡々と言葉を続けた。
「巴様の願いは、『世界の交差』という仕組みを、そしてマスターのことを『見極める』ための――『わかる』ための願いです。あなたこそが、マスターやマスターの行為を『きちんと』否定するために、マスターのことを『きちんと』理解しようとしているんです」
「…………」
「そうでありながらあなたがそれを否定するのは、あなたが今、自分自身の願いに疑問と不安を持っているから……。違いますか?」
「……例えば、どういうふうに?」
「『自分にマスターを否定することができるのだろうか』、『どこかで間違えたりしないだろうか』、『マスターのことを理解することができるだろうか』……等でしょうか?」
「……さあ、どうだろう」
「あなたは言葉を、あなた自身を守るために使う。そして、あなたはあなたの言葉がいたずらに他人を傷つけてしまうことを恐れている」
「そんなことないよ」
「いいえ、あなたは、」
ひょうの透明な声が、僕の心にまっすぐに届いて――、そして、それは優しく、残酷に響いた。
「あなたは、とても臆病な人です」
「…………そうだよね」
僕は自分の胸に手を当てる。そして、今までの自分を思い返した。
自分から行動しようとしない自分に、大きな選択は他人に任せようとする自分。都合の悪いことがあったら屁理屈でごまかす自分。「屁理屈でごまかしている」という自覚を持っているのに、いや、だからこそ、それすらも正当化してしまう自分。死にたいとか殺してくれとか言うくせに、実際身に危険が迫ると動けなくなる自分。弱い自分。逃げたいと思う自分。誰かに状況を変えてほしいと願う自分。「特別」になるために、「特別」になる努力をするんじゃなくて、ただ口先だけで「普通」を否定したり、回避したり、たいしたことは何もできない自分。
僕は無力で臆病だ。無力であるってことを自覚しながら、自分で自分を変えるのがめんどくさくて、そして怖くて、偉そうな言い訳を並べては前に進むことを避けてきた怠け者だ。
そういう自分を見られるのが嫌で、「普通」であっても堂々と生きている周りの人たちのことが本当は羨ましくて、嫉妬して、自分のルールで成立する「世界」に閉じこもって、自分の弱さを隠してきたんだ。誰にも見られないように。僕にも見えてしまわないように。
「……どうしてわかったの」
「え?」
「どうして、僕が臆病だってわかったの」
少しの間と、小さな唸り声。ひょうは少し迷っているようだったが、すぐに言う気になったのか、ためらいなく言い放った。
「あの、隠してたつもりなんですか?」
「…………は?」
思わず間抜けな声で聞き返すと、ひょうは、いつものお気楽な調子で話し始めた。
「巴様、仁が現れた時に震えていたじゃないですか。水筒だってまともに持てていませんでしたし、歩くことだってままならなかったでしょう」
「なっ、あっ……! あんなの誰でも怖がるでしょ! ……っていうか何それ! あの時からずっと僕のことを『臆病者だ』って思ってたくせに、黙ってたのか!」
「だって、言ったら巴様、へこみそうだなって思ったんですもの。ただでさえ怯えているのに、これ以上動揺させたらさすがに可哀そうかなと」
「あのねえ、僕はそんくらいでへこんだり傷ついたりしないっての‼ それに言ったでしょ、『君の勝手な判断で僕に噓をついたり隠し事をしたりするな』って! 知らないうちにそんなことを思われてる方が腹立たしいからさ、変に気を遣わずに僕には何でも言ってよ!」
「そうですよねぇ」
「そうだよ!」
「同じことを、私はあなたに言いたいんですよ」
――ハッ、と息を吞む。相変わらずひょうの顔は見えないが、おそらく、微笑んでいるんだろうなと思った――ひょうの声が、先ほどまでよりも優しく、あたたかかったから。
「そうですよ。私も簡単には傷つかない。臆病なあなたでさえも『そんなことじゃ傷つかない』って言うんですから、他の人なんかはもっと丈夫ですよ。あなたは臆病な人ですが、裏を返せば、人のことをよく見ている優しい人です。あなたは、他人をむやみに傷つけることを、極度に嫌っているようですから」
「……ただの臆病者だよ。人とまともにケンカしたことがなくて、主体性がなくて、口だけ達者で、人よりちょっと言い訳が得意なだけさ。僕は、優しくなんてないよ」
「少なくとも、私は、優しい人だと思っていますよ。臆病で、そして、優しい人だって」
「どうだか。君の『見極め』は、間違っているんじゃない?」
「そうかもしれませんね。……ですが、私はあなたを見て、あなたの考えを聞いて、そう感じたのです。だから、少なくとも、私にとってはそうなんです。――これはあなたがどんな人かを決めつけるものじゃなくて、現時点での、私にとってのあなたの『像』です。これは、あなたを知れば知るほど、より細やかに、より鮮やかに変化していくでしょう。そしてあなた自身も、時間とともに変わっていくかもしれない」
ひょうはすうっと息を吸うと、はっきりとした口調で言った。
「あなたがどう変わろうが、変わらなかろうが、私はあなたの隣にいます。そして、ずっとあなたのことを見ていますよ」
「…………」
「失礼なことですか? あなたのことを『きちんと』理解していないのに隣にいることも、あなたのことを『わかりたい』と思うことも」
「……単純に、理解できないね。どうして出会って二回目の僕なんかに、そんなことを言えるのか」
「私は、あなたの『従者』ですから」
その声が聞こえた瞬間、胸に当てていた手が、何か冷たい物に包まれる。その感触と、冷たさには覚えがあった。ひょうの手、だ。
「私も、あなたを知りたいんですよ。途中で間違えたり、傷つけたりしてしまうことがあるかもしれませんが――自分の思い込みに陥って、あなたを知らずにいるままの方が、よっぽど悲しいことだと思うから」
ひんやりとしたひょうの手のひらに包まれて、全身の神経が鎮まっていく。心の内側に何本も刺さっていた棘が溶けていき、重く沈んだ心が軽くなっていく。
僕は、「ここに来てからずっと閉じていた瞼」を――少しずつ――開いていった。
太陽の光、空の青、白い雲。遠くには山の緑が茂り、灰色の町が広がっている。春風はコンクリートの地面を滑り、埃を巻き上げながら空に還っていく。
ここには以前も来たことがある。ここは――「学校の屋上」だ。
「巴様、お久しぶりです」
僕の前に跪いて、手を取っていたひょうがにこりと笑う。
「馬鹿だな、今の今まで話してたでしょ」
僕も笑った。握られた手をゆっくりとほどきながら。
そしてひょうは立ち上がる。春風になびく髪の毛、後ろで結んだエプロンの紐。黄色のミニスカートの裾を揺らしながら僕の斜め前に立ち、見据える先には――フェンスにもたれかかって金色の瞳でこちらを見つめる、「仁」がいた。
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