覇王に生まれし大樹の子

凛子

待望の男児

00


 さきほどまで降っていた雨で地面はしっとりと濡れ、ようやく顔を出した太陽が、雲間からひかりの線を垂らしていた。

 連なる山々の向こうへ過ぎゆく灰色の雨雲を見つめ、ヒタリは微笑む。


「ふむ、まるで時をあわせたようだな」


 木かげを雨どいにしていた小鳥たちも、ちらほらと飛びはじめた。初夏の空気はまだ肌にやさしく、春の心地さえ残している。


 なんと快い気持ちであろうか。


「おやまぁ…ご子息が生まれるという日に、これは吉兆なことですな」

「カンダチか」

 遅れて顔を出した男をそう呼んで、ヒタリは笑顔を向ける。


 屋敷をぐるりと取り囲む長い縁側に二人は立っていた。

 庭は松、桜、金木犀などが惜しみなく植えられ、清んだ小川から池をひいている。だがいくら城一番の庭師を呼び寄せて屋敷の庭を造らせたとて、ここから見渡せるあの山々の景観に勝ることは出来ない。

 遥かに見渡す山々は、今まさに神々しいまでの日光を浴びて輝いていた。


「景色がこんなにも美しいとは今まで思わなんだ」

「そうでございますなあ――…いやはや、宮中をお離れになってこちらへお越しになると聞いたときは、如何なものかと思いましたが」

「宮中は敵が多い。正室とはいえ、あれはとくに初産なのだ。こういう落ち着いたところのほうが、気も休まるだろう」


 縁側に腰を降ろして笑むヒタリを、カンダチは小さな声で笑った。

「アイノさまはお幸せでしょうな、ここまで陛下のご寵愛を独占しておいでになるとは。お肥立ちもよろしくなったら、一度ご一緒に庭見でもなさるとよろしいのでは」

「――そうだな、あいつの好きなものをたくさん揃えてやろうか。今までいろいろ不安がらせてしまったから」


 ヒタリは渋面をつくって、長いため息を漏らした。

 皇太子であった頃から、唯一望んでやまなかった姫――アイノ。


 さして身分も高くなく、たいした後見も持ち合わせてはいなかった。

 ただ、一度見たら誰しもが惹きこまれるであろう大きな瞳や、笑うと頬にできる小さな笑窪、小柄だがよく伸びた美しい四肢、自分を見かけると嬉しそうに跳び来る愛嬌――。


 挙げればきりがない、アイノに備わるひとつひとつの要素に惹かれてやまなかった。そうしてようやく自由の利く帝となって、アイノを正室に迎えたのだ。


 身分など考えたら、側室どまりの姫を。


 自分ならこの姫を、生涯ひとり愛しぬけると自信があった。だから正室より、側室のほうが身分の高くなる可能性など微塵も考えなかったのだが――…それは大きな欺瞞ぎまんでしかなかった。


 遅かれ早かれ、世継ぎを産むという責務で彼女を苦しめてしまうことはわかりきっていたのに。


「アイノさまはお世継ぎを産むには早すぎた。宮中にお入りになったころは、まだ十五にも満たなかったのですから」

「…そうだな、私がばかだった。そのせいで、側室を三人も抱えることになってしまった」


 なかなか子を身籠らぬアイノを責め、宮の年寄りたちは無理やりに側室を設けた。そうしてそれぞれにひとりずつ、姫が生まれた。

 五年の月日が経つ今となっても、世継ぎとなる男児は依然としてできぬまま。


「お医者の算段によると、アイノさまが身籠られたのは男児だそうではないですか。ほんとうに、嬉しゅうございますよ」

 庭に、小さな鳶色の鳥が迷い込んだ。ちらちらと木犀の木枝を飛び移るその姿を目で追いながら、ヒタリは浮かぬ顔で頷く。

「男児かどうかは生まれてみなければわからぬ。だが、その算段でアイノが喜んでいるのは確かだ。――そうだお前、タカトヲはどうしてる」


「タカトヲでございますか? これはまた唐突なご質問で」

「剣術の指南役から聞いたのだ、おまえの子息がよく育っていると。生まれて折、あまり見かけておらんな」

「五つで軍学校へ挙がりましたからな。育つも何も、まだ十にも満たぬ童子でございますよ。この先いかようにもなりましょう」


「ははは、それはそうだ。だがこのまま上手く育ってくれることを願うぞ。私に息子が生まれたならの話だが…、おまえのような者が早くから私の息子にも必要だと思ってな」

「陛下…それは、」


 ふと言葉に詰まったカンダチを、ヒタリは苦笑して見つめる。切れ長の瞳に涙を光らせて、思ったとおりカンダチは口をぱくぱくとさせていた。


「…その涙もろいのを何とかせぬとな」

「ですが、陛下…」

「おまえの子息に側近を頼もうというのだ。ゆくゆくはお前と同じく、宰相として活躍してもらいたいとも。…おい、もう少ししゃんとしろ」


 鼻水までだらだらと溢し始めて、カンダチの顔はもう見るに見られぬありさまになっている。剣の腕も、卓越した頭脳も、他の者には引けをとらぬほど抜きん出ていたカンダチの唯一の欠点。


「早く拭かんか」

「はい、ですが嬉しいのでございますよ…」

 あ、と声を上げて、カンダチがふと瞳を開く。何事かと思いもしないまま――。



 ――おぎゃあぁぁ……。



 元気な、大きな産声が響き渡った。

 生まれた…ようやくこの日が…!


「あれはやはり男児にございましょうな? あの元気に猛々しい産ぶ声は、」

「どうかな」


 喜びに縋りつこうとするカンダチを苦笑して振りほどき、廊下を足早に進む。

 医者があれを男児だと告げたとき、どんなに嬉しかったことだろう。カンダチには渋い顔を見せたが、どれだけ待ち望んだことか知れない。ようやく息子が生まれた。アイノを重責から開放してやれるのだ。


 廊下を擦るヒタリの足音が停まったのに気づいてか、部屋の戸が向こうから開けられた。

 侍従の一人が頭を下げて、部屋の中に迎え入れる。

 産着にすっぽりと包まれた我が子を抱くのは、すでに乳母の手だった。


 出産を終えたアイノは、奥座敷にひっこんでいるはず。立ち会いたいと言ったのに、穢れを見せるのは嫌だからと頑として断った女だ。

 今ごろ閉じられた襖の向こうで、ひとり疲れた顔をしているに違いない。


「アイノ、だいじょうぶか」

 襖の向こうへと呼びかける。あいつはいつも名前を呼べば、嬉しがって跳び出すように出てくる。



 ――そう思って待っても、返事すらない。



 静かな室内には、赤子のすすり泣く声だけが響いていた。


「アイノ?」

「お館さま、」

 足元にいた女中が声を上げるが、その曇った表情を見つめて襖を開く。

「ア…イノ?!」

 敷かれた布団の上で、静かに目を閉じるアイノ。


 そばに控えていた女中が、申し訳なさそうに首を振る。


「お産みになって間も無く…」

「死んだというのか…」


 あれほど…願った姫を、失ってしまった。ようやく待ち望んだ子を供に喜ぶこともできなかったというのか…。

「アイノ」


 何度呼びかけても、彼女は長い睫をふわりともさせず、口も固く引き結ぶばかり。


「お館さま、どうぞお抱きになってください」

 乳母がそばへ寄り、ぐずる赤子を手渡してよこす。静かに受け取って眺めると、赤子はぴたりと泣き止んだ。


「こんなにお小さくても、お父上はおわかりになりますのね」

「凛々しい顔だちだ。いい王になるだろう」

「…いいえ、誠に申し上げにくいことでございますが」


 首を項垂れて、乳母は赤子の産着の襟を開いて見せる。男児なら、ついているはずのものを見失い、ヒタリは僅かに息を漏らした。


「やはり……女児おなごであったか…」

「はい。ですがアイノ様は死の間際に、お御名みなをささやいておりました…」

「名を?」

「ええ。〝アマキマル〟と」

「…男名」


 ヒタリの言葉に、乳母は戸惑ったように頷く。

「確かにこの耳で聞き取ったのでございますよ、『アマキマル、おまえは雨をうけて育つ大樹のように強く…』と」

「〝雨樹丸〟…か」


 ヒタリは頬をひきつらせて苦笑した。

「私を気遣ったのだな。あげく女児に男児の名をつけるとは…おまえらしいが」

 アイノの白い顔を見つめて、頷く。

「雨樹丸が女児だと知る者は?」

「お産に立ち会ったわたくしと、医師だけにございます」


「わかった。…それにしても、この国の制度に今ほど感謝したことはないな」

「陛下?」

 ヒタリの呟きを聞き取って、乳母が首を傾げる。

「男児は元服まで宮中には上がらず、剣技や勉学の向上だけに勤しむこと。なるほど元服まで他の者には目が触れぬわけだ」


「…と、いいますと」

「雨樹丸を男児として育てるのだ」

「お館さまそれは…!」

 慌てる乳母に小さな我が子を渡して、ヒタリは立ち上がる。



「―――アイノの希望を叶える。雨樹を、このくにの王に据えてやろうよ」 



 



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