第9話 永遠(とわ)に残るもの

 草木も微睡むまどろむような昼と夕の間の頃。

 『緑が丘女学院』の広大な敷地の外れにある慎ましやかな森を、艶やかな黒髪と柔らかそうな栗色の髪が対照的な少女たちが、手を握り合ってゆっくりと歩いていく。

 方々に枝を伸ばした背の高い樹木が織りなす緑色の天井は、ところどころに穴がいていて、そこから入る陽の光によって森の中には適度な明るさが保たれている。

 名前も知らない鳥が歌うように交わすさえずりと、近く遠くにさざめく蝉のに誘われて真っ直ぐに進んでいくと、十分ほど歩いた頃だろうか、不意に目の前がひらけて、森を小さくり抜いたようなささやな草地が現れた。


「着いたわよ、汐里しおりさん」

 何かにすっぱりと断ち切られたように森の木々が途切れた辺りまで来ると、稚佳子ちかこはそこで足を止めた。

「ここが稚佳子さんのとっておきの場所……」

 汐里は目の前に広がる黄金色こがねいろに輝く草花に目を奪われながら、夢見るような声と表情で言った。

「素敵――」

「ふふ。気に入ってもらえたようで、嬉しいわ。……久しぶりに来たけれど、全然変わってないわね」

 稚佳子が不意にまた、過去を懐かしむような声で言ってからゆっくりと歩き出す。

 ここに来るまでの間、ひしと二人を繋いでいた手と手があっけなく解けた。

 そして、

 失われた温かな感触の名残を惜しむように彼女の方へ顔を向けた途端、汐里は思わず言葉を忘れた。

 稚佳子は軽い足取りで舞うように草地の中央まで行き、汐里の方にくるりと振り向いた。長い黒髪が遠心力に引かれてふわりと広がり、光を反射してきらきらと輝く。

 

 森の妖精――、そんな表現がちらりと頭をよぎる。

 

 この場所にいると、彼女の佇まいはまさに童話の世界をモチーフにした一幅の絵のようだった。


 自分が何のためにここにいるのかを忘れそうになる汐里の心に、先ほど稚佳子が何気なく口にした、〝ここは〟という一言が小さな逆棘かえりのように引っ掛かっている。

 そのチクリとした痛みが、汐里のやるべきことを思い出させてくれた。


「汐里さんもこっちにいらっしゃいよ」

 稚佳子がこちらに手を振って汐里を呼ぶ。

「――はい。今、行きます」

 汐里が足早に近づいてくと、

「ほら見て、汐里さん。これは白詰草と言うそうよ。小さくて可愛らしいわよね」

 稚佳子はスカートを足の間に挟むようにしてその場でしゃがみ込むと、足元にぽつぽつと咲いている丸く盛り上がった形状の白い花を指して言った。

「確か、クローバーとも言うんですよね。図鑑で見たことがあります。けれど、今の時期にも花が咲いているというのは知りませんでした」

 汐里は膝に手を当てて地面を覗き込むようにしながら言った。

 

 その視線の先には、ハート型の特徴的な葉っぱが一面に敷き詰められており、ぱっと見は緑色の絨毯じゅうたんのようにも見える。

 そのほとんどは三枚の小さな葉が組み合わさって一つの葉を成しているが、その中に稀に四枚の葉を持つものがあり、それを見つけた者に幸運が訪れるという言い伝えとともに『四つ葉のクローバー』と呼ばれ幸運の象徴とされていたらしい。

 四つ葉どころか普通の三つ葉のものでさえ近頃は珍しい存在となってしまった彼の植物が、この場所には無数に生えているのだった。


「この花は春から今の時期にかけて長く咲くの。わたしが図書委員の上級生の方に連れられて初めてここに来た時も、丁度今みたいに沢山咲いていたわ。春になるとね、この場所には他にももっと色々な花が咲くのよ」

 稚佳子はそう言いながら、一輪の白詰草を慈しむように優しく手で触れた。

「――それはきっと、綺麗なんでしょうね」

「ええ、とても綺麗だった」

 小さな花弁に視線を注いだまま稚佳子が答える。

 彼女の瞳はすぐ傍のものを捉えているはずなのに、どこか遠くに向けられているようにも見えて、その視線の先に一体何を映しているのだろうか、と汐里は思う。


「この場所はその上級生の人が見つけたんですか?」

「いいえ、そういうわけではないの。なんでも、昔から図書委員会の中で代々伝えられていたそうよ」

「ということは、今はもう他に知る人はいないんですね」

「さあ、どうかしら。確かなことは言えないけれど――、でもわざわざこんな場所まで来る人は他にいないと思うわ」

「…………」

「――どうしたの、汐里さん。急に黙り込んだりして」

 汐里が不意に黙り込むと、稚佳子は視線を上げ、汐里の顔を覗き込むようにして聞いた。




「あの、もっと教えてください。稚佳子さんの図書委員会にまつわる思い出を」

 汐里は自分を見上げる黒目勝ちな瞳に目を合わせて言った。その瞳の奥には、今は汐里自身の姿が映っている。

「改めてそう聞かれると、特に話すようなことは何もないのだけれど――」

「いいです、それでも。知りたいんです。稚佳子さんが誰の手も借りずに、一人で作業を続けることに拘るその理由を」

「知ってどうするの」

「……それはまだわかりません。だってちゃんと話を聞いてみなくちゃ、わたしに何ができるかなんて、そんなのわかりませんもの。そうする前から、『あなたの助けになれる』なんてそんな適当なこと、稚佳子さんには言いたくないんです」

 

 汐里が声を震わせてそう言うと、稚佳子はフッと肩の力を抜くように微笑んだ。

「あなたは顔に似合わず少し頑固なところがあるようね」

「稚佳子さんには言われたくありません」

 汐里が複雑な感情がない交ぜになった視線を向ける先で、稚佳子は突然地べたにお尻を落として座り込んだ。体育座りをするように足を揃えて、手の平で草の生い茂る地面をポンポンと叩き、「ほら、汐里さんもここに座って」と促す。

 汐里はおずおずとそれに従って、稚佳子のすぐ横に座った。そうしてみると、敷き詰められた葉っぱは本当に絨毯のように柔らかく、座り心地も悪くなかった。


 汐里が隣に座るのを満足そうに見届けてから、

「最初に言っておくけれど、どこにでもあるような、そんなつまらない話よ」と前置きして稚佳子はポツリと語り始めた。


「わたしが図書委員会に入ったのは去年の四月の終わり頃。やっぱり汐里さんと同じように、わたしも他にやりたいと思えることがなかなか見つからなくてね。このまま何もせずに卒業することになるのかしら、なんて思っていた折に偶然図書室の存在を知ったのよ」

「……そうだったんですか」

 汐里が相槌を挟むと、稚佳子は「ええ」と頷いてから先を続けた。

「図書委員になってからしばらくは平和だった。図書室がなくなるという話を学院から聞かされたのは、丁度去年の今頃の話よ。その頃はまだ、わたし以外に三人の図書委員がいたの。全員三年生だったけれど、みんな優しくて、わたしのことを妹のように可愛がってくれた。本をデータ化する作業をしながら、どうしたら利用者が増えてくれるかってアイディアを出し合うのは楽しかった」


 一度言葉を区切って、稚佳子はまた続ける。その声音が少しずつ変化していく。 

「……でもね、ここがなくなるってことがわかった途端、三人の内の二人が少しずつ活動に参加しなくなって、ある時それを良く思わなかったもう一人と喧嘩して、それ以降ぱったりと来なくなってしまったの。残った一人は罪悪感からか暫くわたしに付き合ってくれていたんだけれど、でも、それも長くは続かなかった。冬休みが明けてここに来てみたら、とうとう誰も居なくなっていた」

感情の伺い知れない声でそう言い終えると、稚佳子は視線を上にやり、遠くに浮かぶ雲を見つめるようにして一時黙り込んだ。

 汐里は何も言えないまま、辛抱強く彼女の次の言葉を待った。


しばらくして、稚佳子が不意にまた口を開く。

「――最後まで残ってくれていた人はね、わたしに一番良くしてくれていた人で、図書室の仮想化に一番熱心に取り組んでいたのもその人だった。順調にいけば、あの作業は彼女が卒業する前に終わっているはずだったのよ。だから、彼女が後の二人を引き留めようとしたのも、その予定を崩さないため。――でも今になって思えば、わたしのことを思ってくれてのことでもあったと思うの。だってそうじゃなければ、仲の良い友達とわざわざ喧嘩別れしてしまう必要なんてなかったもの。そうするぐらいなら、きっとあの人は初めから一人で作業することを選んだはず」


 だけど、わたしがいたせいで――、

 とても小さな声で呟かれた一言は、汐里の耳にはそう聞こえた。


「だからわたしは、その人がやり残したことを代わりに終わらせるって決めたの。たとえそれが彼女との思い出の場所を壊すことに繋がるとしても」

 痛々しく、それ故に美しいほどに決然とした声と表情で稚佳子は言った。


「――さて、昔話はもう終わり」

 急に、あっけらかんとした声を出したかと思うと、稚佳子は型にはまった申し訳なさそうな顔を汐里に向けた。

「そういうわけで、ごめんなさい。最近少しゆっくりし過ぎてしまったから、これからは汐里さんとはあまりお話しできないかもしれないわ。ここに来るのも今日で最後にするつもりだったの」

 ぴしゃりと言い終えて、

 稚佳子は汐里の返事を待たずに「そろそろ帰りましょうか」と立ち上がり、元来た方へ歩き出そうとした。

 その背中で揺れる黒髪を呆然と見つめながら、汐里はぐちゃぐちゃの気持ちと言葉を意味のあるものに纏めようともがく。


 きっとこの、自分でも支離滅裂としか言いようがない〝想い〟をぶつけたら、稚佳子にまたをさせてしまうかも知れない。

 だけど――、

 恐らくそれは、二人をへだつ図書室の分厚い扉のようなものだ。その先に一歩踏み込まないと、きっと本当に伝えたい〝想い〟は何も届かない。


「待ってください!」

 汐里は咄嗟に遠ざかろうとする稚佳子の手を取った。

「――そんなのずるいです。都合の良い時だけそばに居て貰おうなんて。散々思わせぶりなことをしておいて、今更そんなのって……!」

「――、汐里さん、早く戻らないと暗くなってしまうわ」

 稚佳子は足を止めさえしたものの、振り向きもしない。

 その儚げな後ろ姿に、汐里は一語一語確かめるようにゆっくりと言った。

「稚佳子さんは怖いんだ。独りぼっちは寂しい癖に、いざ誰かが近づいてきたら、近づき過ぎるとまた離れて行ってしまうかもしれないって、それが怖いんだ……!」

「…………」

 稚佳子は俯いたまま黙りこくっている。

 だから、彼女がどんな表情をしているのか汐里にはわからない。

 

 汐里は想像する。

 紙の本という文化の遺産に埋もれ、

 誰からも忘れ去られたようなあの孤独な部屋で、たった一人。

 無数に積まれたその本を、一冊ずつ手に取って黒い箱に入れていく稚佳子の姿を。

 それはまるで、

 思い出を少しずつ削り取って本と一緒に箱の中へ仕舞い込もうとするかのようだ。

 そうして仕舞われてしまった〝想い〟は、一体どうなるのだろう?

 再び取り出してもらえる日は来るのだろうか? 

 もし、誰に届くこともなく忘れられ、消えることすら許されぬまま、

 永久にただそこにあり続けるだけだとしたら――、

 そんなの、絶対、寂し過ぎる。


「わたしはどこにも行きませんよ。だってわたしには他に行く場所なんてないですから。稚佳子さんの居るあの図書室が、わたしの居場所なんです。誰が何と言おうと、わたしが決めたんです」

「――その居場所がもうすぐ消えてしまうとわかっていても、良いの?」

 滲むような視界の中で、稚佳子の背中が小さく震える。

 掴んだままの彼女の手から、そのわななきが伝播する。

「それでも良いです。だって例えそうなったとしても、稚佳子さんとの思い出はなくなったりしませんから。――それに、まだ諦めるのは早いと思うんです。あのままの形で残すのは難しいかもしれないけれど、何か方法はあるはずだって」


 汐里の言葉を遮るように、

「良いの、汐里さん。あなたがそう言ってくれただけで、わたしはもう――」

 稚佳子がようやく振り向き、汐里の目を見て淡く切ない笑みを浮かべた。

 

 震えているのは自分かもしれないと、今になって気づく。

 

「勘違い、しないでください。あの図書室は稚佳子さんの私物じゃありません。わたしにとっても大切な場所なんです。この学院の生徒皆のものなんです。――だから、もう〝手伝わせて〟なんて言い方はしません。……お願いです、稚佳子さん。わたしに〝協力〟してください――っ!」


「汐里さん……」

 汐里が声を枯らすようにして言い終えると、稚佳子は目を見開いてからそっとその目蓋を閉じた。

「うん、ありがとう――」

 微かな吐息とともに溶けだした言葉が汐里の耳に届く。

 彼女の心の扉の奥へ、汐里のありったけの〝想い〟がちゃんとそのままの形で届いたのかどうかはわからない。

 けれど、


「……あのね、わたしからも一つお願いして良いかしら――」


 開いた目蓋のはしに、小さな雫を一つ。

 夕焼けに染まり始めた空より顔を赤くして、

 小さくはにかんた稚佳子の表情は、汐里が見た中で一番記憶に残る表情だった。

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