第2話 まどかと椿・1
郊外の高台の上に第一さくら寮はある。
築三十年を越える二階建てでアールデコ調の古びた建物。外壁のコンクリートは既に茶色く変色していたが、それが百人近くの乙女が暮らす桜の園に一種独特の風情と風格をもたらしていた。
建物の正面にはテニスコート三面分ほどの中庭が広がっていて、さらにその外側には高さ二メートル程のコンクリートで出来た塀が敷地全体をぐるりと取り囲んでいる。そして塀の上には茨を模った黒く塗られた鉄製の忍び返しが鎮座し、外からの侵入者に対して優しい威嚇を発していた。
第一さくら寮はその名の通り、桜道女子学園の最初の寮で一番歴史が古く、まだ全寮制ではなかった頃に他県などの遠方からも生徒を受け入れるために作られた施設で、収容人数も決して多くはない。
それに場所が郊外にあることと、高台全体を覆いつくしている広葉樹林によって街の中心部からは建物の屋根が辛うじて見える程度なので、その存在を知っている者は学園関係者以外では稀であった。そして高台の上にあるその他の建造物と言えば電力会社の鉄塔があるだけで、まさに陸の孤島といった感じである。
むしろそういう意味での話題性では、全寮制に移行してから駅の近くに建設された近代的なマンション型の第二・第三寮が一手に引き受けていて、下校時間時に寮の前の道路に出来る乙女達の行列は、この街に住む年頃の少年達の間では知らぬ者が居ない程の日課行事であり、青春の晴れ舞台の一つとなっていた。
しかしそれも六日前までのこと。
世界中を覆い尽くした未知の霧は、この街も同様に全てを白い地獄の底へと引きずり込んでしまったから――
第一さくら寮寮日誌
5月2日 土曜日 記入者 花城まどか
昨日、ヤマコ先生から臨時の寮長を言い渡された。
その後で寮長の安城先輩からこの寮日誌を託された。先輩は優しい笑顔を浮かべて「花城なら大丈夫。安心して留守を任せられるよ」と言ってくれたけれど、不安……
はっきり言って寮長なんて柄じゃないし、面倒くさいからやりたくない。
そもそも今までの寮生活だって決して中心的なメンバーではなかったし、幾つも存在する派閥にも属さず、かと言って孤立することもなく、目立たず無視をされず無難に過ごしてきた。
せっかく作り上げたその絶妙なバランスの上に成り立っている寮生活を私は失いたくない。失うわけにはいかない。
と言うか、高等部の生徒が私一人しかおらず最年長の自分に自動的に役割が回ってきただけで、安城先輩も気を使ってあんなことを言ってくれたのは十分わかっている。
それにこの寮日誌もなにを書けばいいのかわからない。
そもそもこんな愚痴みたいなことを書いていいものなのかすらも怪しいが、安城先輩の話によれば、別に教師に提出する必要もなくただ伝統として寮長職とともに引き継がれているのだそうだ。
とにかくここまでの部分はあとでマジックで塗り潰しておこう。
とりあえず。
最初の日誌ということでいま私――私たちが置かれている状況を簡単に記しておこうと思う。
今から二週間ほど前に中国奥地のパミール高原に幾つかの隕石が落下した。
落ちた場所が高原地帯ということで大きな災害にはならなかったけど、隕石が気化したと思われる白い煙がクレーターから噴出したそうだ。延々と気化膨張を続ける白い噴霧は止むことは無く、あっという間に高原地帯を、周辺国を飲み込んで、一週間ほどで中国が、ヨーロッパが霧の底へと沈んだ。
霧の中では電波障害の発生で通信網がダウンして、辛うじて海底ケーブルを通じてひどく混乱している様子が伝えられるだけだった。
中国が霧の底に沈んで三日後。
日本にもついに海を渡って霧が到着した(ほんとウザい)
政府は具体的な対策を講じることもできず、この霧を生活環境壊滅的超広域視程障害――通称スーパーディストラクションデスモッグと命名するのが関の山だった。
私たちが通う中高一貫教育で全寮制の私立桜道女学園は無期限の休校となり、市内に点在する三つの寮で生活していた約千名の全生徒にも帰宅指示が出された。
但し、私のように家庭の都合が悪い場合や仕事で両親が海外に居るような場合のみ、そのまま寮での滞在を認めらていて、この第一さくら寮には現在私の他にもう一名の女子が残ることになった。
そして今日、この街もついに霧に飲み込まれてしまった……
もう、いつまで続くのやら。
マジ憂鬱……
5月3日 日曜日 記入者 花城まどか
管理人や食堂のおばさんたちは自宅待機を言い渡されているので今は居ない。
その代わりにヤマコ先生が寮の管理を任せられていて、昨日私たちのために食料を置いていってくれた。
カップ麺が十個に菓子パンが五つ……
いま街では食料品の買い占めが起きていて、これでも結構手に入ったほうらしい。
ヤマコ先生は明日また来るときに食料を探してくると言って帰って行った。
あ、それと帰る時に外出禁止をきつく言い渡された。なんでも道路は車で溢れていて視界が悪いこともあって事故が多発しているらしい。
その事を連絡しておこうと、さっきもう一人の寮生である中等部の子の部屋へ行ってみたがノックをしても応答はなかった。
もしかしたら寝ているのかと思い、ドアに外出禁止が言い渡されたことと、一度食堂で会って互いに自己紹介をしようと書いたメモを貼り付けてきた。
なんか寮長として一仕事やり遂げたって感じ?
なんてね。
5月4日 月曜日 記入者 花城まどか
今日もヤマコ先生が来てくれた。
本当は昼頃に顔を出すと言っていたのに、実際に来たのは夕方頃だった。
ひどく疲れた表情をしていて顔色も悪かったけど、先生は疲れているだけと元気なく笑っていた。
あと食料が手に入らなくて、自宅からお米を五キロとレトルトのカレーを幾つか持ってきてくれた。
ヤマコ先生の話では街の様子がかなり荒れているらしい。生徒だけで暮らすにはもう危険すぎるということで、ヤマコ先生もしばらくの間、寮に寝泊りすると言う。
しかもヤマコ先生だけではなく、市内にある他の二つの寮に残っている五名の生徒と、そちらを管轄している大森先生とその家族もこの第一さくら寮に移ってくるって。
いきなりの急展開って感じだけど、なんだか賑やかな寮生活が戻ってくるみたいで、少しだけワクワクしてきた。
もし上級生が居たら寮長の役職もやってもらおう。
ヤマコ先生は一旦自宅へ戻って荷物をまとめてから明日来ると言って帰っていった。
その後で中等部の子にも一応知らせておこうと思って部屋へ行ってみた。ドアに貼り付けたメモはなくなっていたが、ノックをしても返事もなにもなかった。
なんだか嫌な感じ。
もしかして無視をされているのかも。
だから寮長なんて面倒くさくてやりたくないのだ。
いまこの日誌を書いていると遠くから救急車や消防車のサイレンが聞こえてくる。
カーテンを開けて外を覗くが、窓ガラスに霧が貼り付いていて何も見えない。
でも明日からは賑やかになりそうだ。
5月5日 火曜日 記入者 花城まどか
結局、大森先生と第二・第三寮の女の子たちは来なかった。
ヤマコ先生も夜になってもこない(泣)
夜中の二時まで食堂で待っていて、知らない間にソファで寝てた(だから正確にはこの日誌は6日の早朝に書いてる)
そう言えば、昨日の夜も遠くでパトカーや消防車のサイレンがたくさん鳴っていて怖かったなぁ。
5月6日 水曜日 記入者 花城まどか
今日もヤマコ先生は姿を見せず。
大森先生も姿を見せない。
一体どうなってるの?(怒)
あともう一人の寮生である中等部の子と、いまだ会えていない……
メモは見てくれているはずなのに向こうから会いにも来てくれなければ、こちらが部屋のドアをノックしても反応はなし。
私の部屋は二階で、彼女の部屋は一階にあるのだけれど、深夜に廊下を歩く音や洗面所を使う音が聞こえてくる時があるので部屋に居ることは間違いない。
もしかして寮長としても先輩としても頼りにされていないとしたらちょっとショック。いや、かなりショック……
そもそも臨時の寮長なんてやりたくもないし、後輩と積極的に関わるタイプではない私には重荷すぎる。
ああ、止めよう。考えても始まらない。
5月7日 木曜日 記入者 花城まどか
今日も待ち人来らず。
昨夜はサイレンの音もほとんど聞こえずに静かな夜だった。
街の状態も落ち着いてきたってことだろうか。
なんだかそのうちにヤマコ先生が「いやいや色々と大変でさぁ」と、ひょいと顔を出しそうな気がする。
それと気がかりなことがもう一つ。
昨日の深夜に洗面所に居ると、階下から人の歩く音と玄関のドアが開く音が聞こえてきたので、慌てて一階へ降りてみると、施錠したはずの玄関のカギが外されていた。
ドアを開けて外を覗いてみたら霧のせいで人影は確認できなかったけれど、遠ざかっていく足音がはっきりと聞こえてきた。
中等部の女子は確実に外出禁止を破っている。
こういう時に私はビシッと叱るべきなのだろうか……
単なる臨時の寮長なのに?
二人しか居ない寮生なのに、先輩風をふかすべき?
ああ、寮長なんて面倒くさいなぁ、もう!
第一さくら寮の一階西側には食堂がある。あまり広くは無いが、六人掛けのテーブルが所狭しと並んでいて、最大で百人が一同に食事をとることが出来る。
その隅っこに設けてある談話コーナーのソファに赤いジャージ姿のまどかがやや緊張した面持ちで座っていた。ベリーショートの髪型と百六十センチの身長は遠目には少年のようにも見え、実際に街中で間違われることもあったがそれはそれで本望だった。
若い頃にほんの一時期だけ広告のモデルをやっていたこともある母譲りの細身の身体と、小学校時代に男子から「クモ女」と呼ばれる原因となった長いごぼうのような手足が、まどかは大嫌いだった。
今でこそ同級生に「モデル体型で羨ましい」などと言われたりもするが、その度に母親に近付いていっているような錯覚に陥り、全身から女らしさを剥ぎ取りたくていっそのこと坊主頭にでもしてみようかと言う激しい衝動に駆られたりもする。
そして三年前の中一の秋。桜道女子学園に転校してきたと同時にそれまでずっと伸ばしていた自慢の髪をばっさりと切った。何もかも切り捨てて再生を願っての断髪だった。
あれから自分はなにか成長したのだろうか……
「はああああああああああああああああああああああああああああああああ……」
まどかはベリーショートの髪を掻き毟りながら長い長いため息をついた。
自分の身体が女性らしく成長していくことを呪い全身にまとわりつく女っぽさを消し去りたいと思う一方で、やっぱり小さなことでウジウジと女々しく悩んでしまう自分を嘆いての怨念まじりのため息だった。
どうせならば「クモ女」よりも「水澄まし女」になりたい、とまどかは思う。長い手足で水面を華麗に走り回るように、人の間もすり抜けたい。水にも人にも情にも溺れて沈むことがなく、いろいろな物事を華麗にスルーしていきたい。
なのに。
「私は一体ここでなにをしているのだろう……? 」
まどかは恨みがましく壁の時計を睨みつけた。
時刻は午前二時を少しまわったところだ。
つい二時間ほどまえの事。
今夜も中等部の後輩は真夜中にこっそりと外へ出て行った。
本当はその時に追いかけて行って止めるべきだったのかもしれないが、まどかにその勇気はなかった。
確実に相手は自分のことを避けている。それはドアに貼り付けたメモが無視されていることからも明らかで、そんな相手に先輩風を吹かすのは得意ではなかった。
しかし一方で、臨時とは言え寮長という職務に対して責任感のようなものが芽生えていたことも確かで、自分が寮長を任せられている期間に後輩がなにか危険な目に遭遇してしまうのも嫌だったし、何よりもそのことで教師から叱れでもしたらやりきれない。
それにルール違反を知っていながら見て見ぬふりをする自分自身も嫌だ。
いや、それとも中等部の後輩がルールを破って要領よく生活をしているのに比べて、やりたくもない寮長をやらされた挙句に、律儀にルールを守って一週間近くも缶詰生活をしている自分の中途半端さに嫌気がさしていて、このもやもやした感情を誰かにぶつけたかっただけかもしれない。
結局、まどかの出した結論は偶然を装って注意をしてみよう、ということになった。
食堂で待ち伏せておいて、彼女が帰ってきたところを偶然を装って玄関へ出て行く。そして少し驚いた顔をしつつ、年上らしく余裕のある態度で優しい笑顔を浮かべて外出禁止を破ったことを嗜めてあげよう。
その案は完璧に思えた。
いや、完璧と言うよりこれが一番無難だ。
まどかが中等部の後輩にそこまで気を遣うのには、他の生徒たちが皆親元へと避難しているなかで、家庭の事情で寮に残ることとなった二人しかいない寮生という奇妙な連帯感もあったが、もう一つ理由があった。
それが中等部の後輩の名前だ。
中等部在籍の二年生で、まどかはこれまで一度も会話をしたことはなかったが、寮生活の中ではちょっとした有名人で、第一さくら寮に住む者で彼女の名前と顔を知らない人間は居ないはずだ。
彼女を有名にしたのはちょうど一年前のこと。
入学してまだ二週間も経たない頃に彼女は事件を起こしたのだ。
同じ部屋に住む先輩生徒への暴力事件だ。
まどかは事件の詳細をよく知らないが、先輩生徒にも非があったとして彼女は一週間の停学で済んだが、問題はその後に彼女が取った行動だ。
彼女は教師たちに相部屋ではなく個室を要請し、希望が適えられない場合は同じような暴力事件を引き起こすと恫喝したらしい。
勿論学校側はそんな特例は認められないとしていたが、結局はしばらくすると先輩生徒のほうが第二寮へと引っ越すこととなり、以来彼女だけは相部屋が当然の寮生活で個室生活を送ることとなった。
当然彼女は寮のなかで悪目立ちする存在となり格好の陰口の対象となった。特に高等部の一部の生徒たちが彼女の行為を許すまじとヒートアップしていたが、結局それも夏を迎える頃には自然と鎮火していた。
その理由は銀椿は徹底して他者との交流を避けていたからだ。基本的に学校へ行く以外は部屋へ篭りきりみたいであったし、部活動にも参加せず、食事も人の少ない時間を見計らって窓際の席でいつも一人。食堂が混んでいる時には絶対に中へは入ってこない。学園と寮を往復するスクールバスも利用せず、片道五十分をかけて自転車通学をしていた。
そうした彼女の徹底した厭世的で人間嫌いな行動に、周囲も自然とそういう人なんだと思うようになっていた。暴力事件のこともあり、下手に関わってキレられるといろいろと面倒くさい。
まさに触らぬ神に祟り無しというやつだ。
「あ~、めんどくさっ…… よりにもよってなんであの子と二人きりかなぁ。ついてないと言うか……」
まどかはジャージのポケットからスマートフォンを取り出す。その時に銀色のライターがソファの上に転がった。ジッポライターだったが、表面には見るからに手の込んだ十字架が彫られていて、純銀製のボディが蛍光灯の光を受けて鈍い光を放っている。
まどかはさして気にもとめない素振りでライターを掴むと、慣れた手つきでキャップを開け閉めし始めた。
カチンカチンとジッポ特有の音が響き渡る中で、もう片方の手でスマートフォンをいじっている。
着信履歴の画面には「お母さん」の文字がずらりと並び、一番最後の着信は街が霧に包まれた前日の5月1日となっていた。
まどかは無言でその画面を見つめているだけ。知らない間に、ジッポを握る手も固まったまま動かない。
不在着信の文字に、瞳の奥で暗い影が立ち上がりかけたが、それを認めぬかのように軽く息を吐くと画面を切りかえた。
留守電メッセージを知らせる画面では、5月1日の日付で一件の録音を告げていた。
しばらくの逡巡のあとで、まどかは思い切ってスマートフォンを耳に当てた。
と、同時に玄関の方からドアが開くときの軋んだ音が聞こえてきたので、弾かれたようにソファから飛び起きて、スマートフォンとジッポをジャージのポケットに突っ込みながら玄関へと向かった。
「もしかして銀さんなのかなあああああああああああーっ!?」
まどかは出来る限りの先輩お姉さん風の作り笑顔を浮かべて食堂を飛び出して行ったが、その倍の速度で後退り尻餅をついた。
いたたたた、と腰の辺りを摩っていると、食堂の入り口にすうっと人影が現れた。
その人影は見るからに異様な出立ちをしていて、白いエプロンにまどかと同じ学校指定のジャージを着ていて、背中には登山用と思われる大きなリュックを背負っていた。
そして頭には白いタオルを巻いていて、顔はバイク用のゴーグルと大きな風邪用マスクで覆われている。なにに使うのか、片手には身長よりも長い刺又、もう片方の手にはヌンチャクを持っている。しかもそのヌンチャクは握っていない方の柄には無数の釘が刺さっていて、なにやら赤黒い液体を滴らせていた。
そして何よりもまどかを一番驚かせたのは、白いエプロンやマスクの全面に飛び散っている赤い液体で、それはぱっと見てもじっと見ても血痕にしか見えない。
「し、銀さん……だよね? どうしたのその格好…… それにその赤い染み……」
動揺しているまどかを尻目に、銀椿と思われる異様な格好をした人物は背負っていたリュックを床へ下ろした。
いや、下ろしたと言うよりも、持ちきれずに両手をすり抜けて落ちたと言うべきか。
身長百五十センチほどの小柄な体に不釣合いなほど大きなリュックは、鉄板に吸い付く磁石のようにドスンと音を立てた。
まるで中に漬物石でも入っているみたいだ。
そして持っていた刺又とヌンチャクを次々に床へ放り投げると、頭のタオル、ゴーグル、マスクと外して、そのまま無造作に足元へ投げていく。
そうして現れたのはまどかも知っている銀椿の顔で、ほっと安心したのも束の間、今度はこの変わり者の問題児の奇行に新たな不安が芽生えた。
まどかが半ば呆気に取られていると、銀椿がボソリと呟いた。
「トマトジュース……」
「え……?」
「トマトジュースがありました。食塩無添加で低カロリーを謳った、まさに完熟って感じでおいしそうなのが。それも二本。でも賞味期限切れてました……。頭きたので台所の食卓の上に並ばせてキャロラインの餌食にしてやったんです。そしたらこのザマです……」
と、銀椿は疲れ切った顔と声でそう説明すると、外したエプロンを指で摘んで匂いを嗅いだ。
臭い、と顔をしかめてエプロンを傍らに放り投げると、両足を引きずるようにまどかの横をすり抜けて食堂の奥へと歩いていく
。
「キャロライン……?」
「その釘ヌンチャクの名称です。通り名は葬送鉄杭殺戮指揮者デス・オーケストラコンダクターミス・キャロライン。キャロイン、挨拶は――?」
「え……?」
「嘘です。ミャンマーのチン族とアナル族と同じくらい百回中一回くらいクスッとくるジョークです」
と、これまた疲れ切ってどうでもいい感じで言う。
まどかは床に転がるヌンチャクを一瞬でもまじまじと見つめてしまった自分の馬鹿さ加減に赤面しつつも、気を取り直して銀椿の方を振り返った
。
彼女は食堂の奥にある給水機から紙コップに冷水を注いで、ぐびぐびと喉を鳴らして飲んでいる。
ショートボブと言うよりもおかっぱ頭といったほうが似合いそうな黒髪に、ジャージの上からでもわかる薄い胸と細い身体つきは、どことなくこけし人形を連想させた。
しかし今目の前に居るこの後輩は全身からとげを生やしたこけし人形だ。
「銀さん、今日はどこへ行ってたの? 私、ヤマコ先生からの言いつけをメモに書いてドアに貼り付けておいたんだよ。あれ、読んでくれたよね? あと何度も部屋へ行ったのに居留守使うのはどうかなあ。それはちょっと共同生活するうえでのモラルに欠けてるんじゃないかな……?」
まどかは作り笑いを浮かべ、言葉を慎重に選びつつも取り合えず言いたいことを言った。
あまりこういう口うるさいことを言うのは好きではなかったが、彼女のどこか人を小馬鹿にした態度にカチンときていたのかもしれない。
銀椿は水を飲み終えると、静かにまどかと向き合った。
意思の強さを感じさせる黒目勝ちな二つの目が真っ直ぐにまどかを見ている。
一瞬だけ二人の間に張り詰めた空気が流れたが、それを壊したのは銀椿だった。
彼女はすっと視線を逸らすと、また紙コップいっぱいに水を注いで一気に飲み干した。
「……先輩って、優しいのかのん気なのかよくわからないですね」
「銀さん、こういう言い方って好きじゃないけど、年上の先輩に向かってそういうふざけた態度をとる気なら、さすがに私も怒るよ」
「――米……」
「え……?」
「人が居なくなった民家をまわって米二十キロとありったけの缶詰、調達してきました……。私の部屋にはそのリュックのなかの二倍の食料があります。この一週間夜な夜な出掛けては家人が居なくなった家へ忍び込んでかき集めてきたんです」
「な、なに言ってるの……? それじゃあ泥棒じゃないのよ」
それを聞いた銀椿は、予想していましたと言わんばかりの顔で軽く息を吐いた。
「泥棒……。確かに泥棒です、私のしたことは。他人の家に忍び込んで賞味期限の過ぎたトマトジュースに切れて、キャロラインで叩き壊すなんて狂気の沙汰と自分自身でも思います。でも……」
彼女はそこで黙り込むと、まどかの顔をじっと見つめた。
まどかはなにか嫌な気配を感じてつい後ずさる。
しかし銀椿は一気に間合いを詰めて、まどかの腕をむんずと掴み、
「先輩のその優しさや?気なところは言葉じゃ壊せませんから。私と一緒に来てください」
そう言いながら、食堂を出て行こうとする。歩きながら床に転がる刺又と釘ヌンチャクを片手で拾っていく。
「ち、ちょっと、行くってどこに? 銀さんどこへ行くつもりなの?」
「すぐそこのコンビニまで付き合ってもらいます。あと先輩と言えど、夜道は絶対に騒がないでください。もし騒いだりしたらキャロラインの餌食になりますよ?」
と、こけし人形のようなシルエットの後輩はまどかの目の前でぶるんと釘ヌンチャクを回して見せる。
微かな風圧がまどかのまつ毛を揺らし、トマトジュースの甘酸っぱい香りがほのかに鼻腔の奥に突き刺さる。
本気とも冗談ともわからない無表情は一体なにを考えてるのか全く読み取れず、まどかは涙目になりながらも、仕方なしにこの小柄で変わり者の後輩のあとをついていかざるをえなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます