第3話 まどかと椿・2

 三十分後――

 二人は寮から一番近いコンビニへと来ていた。

 普通ならば、寮の前の坂道を三百メートルほど下り、合流する国道を二百メートルほど歩くだけで時間にして十分ほどだ。


 それなのにこれだけ時間が掛かったのは、まず霧が原因だった。

 視界はせいぜい二メートルから五メートル。風の影響で刻一刻と有効視程が変化していくと言った感じだ。


 それに銀椿しろがねつばきは極度に周囲を警戒していて、少しでも物音がすると立ち止まって音がした方に刺又を構えてしばらく動かない。まどかが何か質問をしようとしても片手で喋るのを制するか、無言のまま何も答えない。


 その殺気だった子猫のような横顔を見ていると、まどかはただ黙って従うしかなかった。

 それに彼女には申し訳ないが、彼女の緊張とは真逆にまどかはなんとなくわくわくとしていた。


 なんだかんだと言いながらも久しぶりの外出と言うこともあったのかもしれない。それにこの濃い霧はお化け屋敷のなかへ入ったみたいな雰囲気もしていたし、後輩に唆されて外出禁止を破っているという、背徳的な楽しさも少なからず感じていた。


 しかし、それも坂道を降りるまでのこと。

 国道へ辿り着くと、そんな気持ちは脆いガラスのように粉々に砕け散ってしまった。


 霧に沈む車道には放置された車の列が出来ていた。しかもドアやトランクは開け放たれて、ほとんどのドアガラスやフロントガラスが割れていて、中には炎上して黒こげになっている車まであった。


 国道に沿ってコンビニへ向かう間も車の列は途切れることはなく、次から次へと霧の中から乗り捨てられた車が姿を現した。しかも街の中心へ向かう車線と、隣町へと続く車線の両方ともだ。


 一体この車はどこまで続いているのか。

 そして乗っていた人たちは今はどこへ……


 まどかはそんな疑問を口にしかけたが、ぎりぎりのところで踏み止まった。

 もし今それを口にしたのなら、これ以上先へは進めない気がしたからだ。

 目の前を歩く小さな背中。両肩に力が入っているのが後ろからでもわかる。

 この変わり者の後輩は何かを知っている。そしてそれを自分にも教えようとしている。


 二人とも緊張した面持ちで無言のまま、霧の中を慎重な足取りで先を急いだ。

 そして見慣れたコンビニへ辿り着いたのだが、そこでまどかは霧の中に幽かに浮かび上がる光景にまたしても言葉を失うことになった。


 寮生の憩いの場でもある見慣れたコンビニは、ドアとウインドウガラスが無残に割れて見る影がなかったからだ。窓際に設置してあった本棚が外側に倒されて無数の雑誌がガラス片とともに駐車場へ散らばり、その雑誌の上には沢山の足跡が付いていて、アスファルトには血痕のような黒い染みも見える。


「……私、街が霧に包まれた日からずっと夜な夜なこの近くを歩いて回っていたんです。だって世界規模の霧なんてどう考えても変じゃないですか。おかしすぎますよ、電波障害まで起きて外国とも連絡が取れなくなるなんて。先輩知ってました? 電波障害だからケータイや無線は使えませんけど、有線のネットは生きていて、霧に包まれた国からも少なからず情報は発信されていたんです」


「そ、それなら少しだけ知ってるかも。霧は中国の化学兵器工場が被災したのが原因だとかなんとかって……」


「それじゃないです。こういう時にも悪ノリして適当なことを言いふらす人間は存在するんです。そして、そうしたいい加減で物見遊山なネットの多くの連中のおかげで、何が真実でなにが真実でないのか誰一人として判断できなかったんです……」


「……」


「でも、どちらにせよ、霧の発生から全世界が飲み込まれるまでにおよそ二週間。余りにも展開が早すぎて、そして時間が足りませんでした。この街でも霧に包まれた最初の夜にはアレが発生して、爆発的に広まったみたいですから。ほんと大したものです。もしこれが神様の仕組んだことならば、私はブラボーと叫んで感謝のキスをしてあげたい気分です」


 そう言うと、銀椿はまどかのほうを振り向いて両手でピースサインをした。しかし顔は相変わらず能面のように無表情で、喜んでいるのか嘆いているのかわからない。

 いや、ダブルピースということは喜んでいると思ったほうがよさそうだ。


 そして突然彼女は持っていた刺又で地面に転がるガラス片をたたき始めた。

 刺又が力強く振り下ろされる度にガシャン、バリンッとガラスが割れる甲高い音が霧の駐車場にこだまする。


「し、銀さん、どうしたの急に……?」


「外国から幾つかの警告文と動画がアップされていました。そのどれもが同じ内容でした!」


 銀椿は初めてまどかの前で感情を露にした。

 喜びに弾む張り叫ぶ声、興奮して紅潮している顔。

 テンポ良く刺又が振り下ろされるたびにガラス片がリズミカルな甲高い音を上げていき、その中心で踊っているかのように見える変わり者の後輩。


 その姿はまるで悪魔を召還するための儀式を行っている魔女のようだ。

 そんな彼女の鬼気迫る行動に恐怖を感じて、まどかは自然と後ずさっていた。


 しかし、銀椿は突然動きを停止してまどかの方を見た。

 いや、正確にはまどかの背後の霧を見ていた。


「――先輩こっちへ!」


 銀椿はまどかに駆け寄って腕を掴むと、コンビニの壁際へと連れていく。そしてまどかを壁際に立たせると、自分はその前に立って霧に向かって刺又を構えた。


「な、なに? 今度はいったいなんなの……?」


「――霧の中では無条件に死者は甦り生きた人間を襲う。襲われた者も歩く死者となって、また人を襲う。先輩、これが霧に呑まれた新しい世界のルールです!」


「え? なに言ってるの……? 全然意味がわからないよ……」


 まどかがそう呟くと同時に目の前の霧が人影を吐き出した。

 スーツ姿の中年男性だったが、顔の右半分が獣に食いちぎられたみたいに肉片がぶら下がっていて、ワイシャツは真っ赤に血に染まっていた。そして関節が固まってしまったみたいな引きずるような歩き方に、低いうなり声。


 さらにその後ろからは学生服を着た中学生男子や、コンビニの制服を着た中年女性、男性警察官が次々と姿を現した。皆、顔や首筋から流血していて、土気色の顔色に焦点の合っていないガラス玉のような目をしていて、両手を前に突き出しながらゆっくりと二人に迫ってくる。


「先輩、これが現実です! 今までの世界は終わったんです! これからは死者が歩き回る時代の始まりです! 世界規模の霧とゾンビ! なんて素敵な時代の幕開けだと思いませんか!」


 銀椿は刺又で順にその歩く死体たちを霧の中へと押し戻しなから、まるで歌うようにまどかに問いかけた。


 しかし、まどかは叫ぶしかできなかった。絶望の悲鳴を。真っ白な頭のなかで、なにかが確実に粉々に砕け散っていくのを感じながら――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る