119話 特大の恩恵を

 落下するオルティラ。そこへ飛び込んできたのは銀の影。鈍く輝く体毛をまとうオオカミだった。


 それはオルティラの下に身体を滑り込ませると、宙を蹴って音もなく地表へと降り立った。


「世話が焼ける」


 唸るオオカミ。それに目を瞬かせたオルティラはぽかんと目を丸めていたが、やがて状況を理解したのか、頬を染めて顔を伏せた 。思わぬ反応にぎょっとしてしまう。


 何やら歓喜に浸っているオルティラを揺すり落としたオオカミは、じいっと僕を見下ろす。


 血よりも赤い瞳。切れ長ながらも芯の強く、一方で顔色を窺うような見覚えのある目。それは紛れもなく。


「カーン」


 カーンは魔族である。同時に獣人でもあった。


 言語を操り、文化を築く、魔界の獣人。


 人間界の獣人――ニーナやネコ族の商人、今回の事件の被害者であるキツネ族など――と比べるとより獣に近く、また魔物とも近い、とは彼談であるが、『獣とヒトの中間地点にある生き物』という点では、カーンもまた『獣人』なのであった。


 ぺしょりと耳を伏せ、尾を下げる。大きな図体でありながらしおらしいその様は、どうしてもヒト慣れしたイヌや某オオカミ族を彷彿とさせる。


 凛然とした彼が〈変形の魔術〉を解くと、どうしてこうも幼く見えてしまうのか。


「……身体への負担を避けるため、〈変形の魔術〉は解きましたので」


「『ので』じゃない、『ので』じゃ!」


 それで復帰を見逃せと言いたいのだろう。僕はカーンに退避を命じたはずだが、よく思い返してみれば、彼にその気は微塵もなかった。すぐに戻る――そう確かに宣言していたのだから。


 やられた。顔を歪める。


「……それで、体力の消費は抑えられるの?」


「ええ」


「体調も問題ないね?」


「治療はしました」


「応急処置でしょ」


 神族との戦闘によって怪我を負い、疲労困憊であった相棒カーン。怪我に関しては、どうやら〈治癒の魔術〉で塞いだようである。しかしながら体力も一緒に回復するわけがなく、彼の足取りは重い。


 幸いにも、魔物の勢いは削がれつつある。万全でなくとも推し戻すことくらいならできるだろう。もうひと押し。鎖を緩めることなく、カーンの毛に手を埋める。


「カーン、魔力を貸す。あれに特大をぶつけてやれ」


 エギルの残した魔力の結晶はとうに尽きた。今あるのは手元の鎖と己、そしてカーンの魔力。二人の魔力が合わされば、ある程度の強さの魔術は扱えるはず。


 カーンの頭上に炎の塊が渦を巻く。


 〈火焔の魔術〉。カーンが最も得意とする、炎の魔術。戦前、戦時中、戦後、ありとあらゆる時と場所において僕を助けてくれた、熱く温かい炎。この恩恵は、これからも僕に授けられるのだろうか。


 火球はヒトの背丈を優に越え、夜の闇を祓う。咆哮とともに魔物へ向けて放たれた〈火焔の魔術〉は寸分の狂いもなく魔物の顔面へ、そして〈三界の門〉へと吸い込まれる。


 それを見届けて、僕の視界は伏せていった。


 鎖が、溶ける。



   ■   ■



「リーオーっ!」


「ぐえっ」


 どすりと腹に圧し掛かるのは、岩のような重みであった。チカチカとした星を見ながら目蓋まぶたを持ち上げる。まず目に入るのは茶色の毛玉であった。黒い鼻頭を突き付けて、橙色の瞳でじいっと見つめる獣人。


 ニーナ。ほんの少しだけ大人びた表情で、不意に口を開く。


「あのね、ニーナね、どうやって謝ろうかなって思ってたんだけど」


「うん」


「でもね、全部忘れちゃった」


 そもそも謝られることなどあっただろうか。


 唯一思い当たるのは、エギルと再会する前。神族の女性レドナと対峙した時だった。


 自分も戦うと宣言するニーナに守ってもらい、無様にも大敗を期したあの時。あの時、僕はレドナの一撃により戦場から吹き飛ばされた。その先でエギルに助けられた――のだが、当時のことはほとんど覚えていない。


「いいよ、大丈夫。むしろお礼を言うべきなんだ」


 これだけは覚えていた。罪と再会し、崩れかけていた僕を支えてくれた言葉。


「ありがとう、ニーナ。守ってくれて。僕を知ってくれて」


 ニーナの方がリオを知っている。


 出会ってから三十日にも満たない短い期間でありながら、僕を受け入れて分け隔てなく、まるで本当の兄弟か幼馴染のように接してくれた少女。


 彼女がいなければ、僕はもうとっくに飲まれていたかもしれない。過去に、そして罪に。


 僕の上に伏せて、恥ずかしそうに耳を伏せる少女。布団越しの圧迫が心地よい。寝起きに飛び込まれるのは勘弁だが、この感覚だけはたまにはよいかもしれない。


 その時であった。


 突然開ける視界。身体の上の重みが消えて、代わりに寝台の横から「ギャン」と悲鳴が聞こえる。騒ぎを聞きつけたカーンが、僕の上からニーナを剥ぎ取ったらしい。焦りと怒りと戸惑いと、様々な感情をごちゃまぜにした瞳が、僕を見下ろす。


「よくやった。ご苦労様」


「はい……」


 こうべを垂れるカーン。


 その顔は依然として渋いままだ。大方、僕が魔力を分け与えたことに複雑な感情を抱いているのだろう。責めてくれた方が気が楽なのに。


「〈門〉は……閉じられたんだよね」


 僕の問いにカーンはこくりと頷く。


 僕が魔力切れを起こしたのは、魔物が〈火焔の魔術〉を受けたと同時であった。腕をい付けていた鎖が解け、仰け反る魔物とその右腕は〈三界の門〉へと消えていく。そこへ次なる一手を繰り出したのは、意外なことに神族の双子。


 神族は結界術を得意とする。結界とは言うなれば境界を操るものであり、解釈を広めれば〈三界の門〉にも応用が可能――そう考えたのかもしれない。


 〈門〉を結界で囲み、圧縮に圧縮を重ねて、目に写らないほど小さく。


 〈三界の門〉は完全には閉まらないかもしれない。微量な魔力が流れ続けるかもしれない。しかしそれも、いずれ時間が解決するだろう。


 もともと三界――魔界、人間界、神界――は繋がっていた。しかしある時、深い霧に隔たれ、地続きではなくなった。


 一連の出来事は神話に語られる話ではあるが、実際に地続きであったことは文化、言語、地質、動植物などさまざまな学問によって裏付けされつつある。僕自身も、三界が地続きであった説は推している。


「他でもない、が後片付けをしてくれたなら、きっと問題はないだろうね」


「ええ。あの森は安定しています。魔界の魔力も感じない。すぐに癒着するでしょう」


 たった一人の少年によって開かれた〈三界の門〉は、霧に巻かれて、とまではいかないものの、いずれ塞がることだろう。何か影響は残るかもしれないが。


「ところでオルティラは?」


「ああ、あれならヘル・エンゲルス校長のもとに」


「校長の?」


「今後のことについて話がある、とのことで。向かわれますか?」


 思わず目を丸くする。カーンも不思議そうにこちらを見つめる。


「どうかしましたか」


「意地でも寝台から出さないと言われるかと思った……」


「ああ……いや、その気持ちは強いですが」


「僕、歩きたい気分だなー! 校長室とかいい感じの距離なんじゃないかなー!」


 慌てて布団を跳ね飛ばして起き上がる。魔力切れ後にしてはかなり身体が軽い。ひょっとしたら、僕が眠っている間に何か処置を施していてくれたのかもしれない。


 どことなく思い詰めた様子のカーンの頭をひと撫でして、逃げるように寝台から飛び降りる。そのまま貴賓室を出て校長室へと向かうが、ついてきたニーナにすぐ追い越されてしまった。

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