88話 ブルクハルト
魔界の一国、レークトレード。かつて僕が籍を置いていた国、ビヨルグ大帝国の隣国に位置する。
ビヨルグ大帝国とは古来より犬猿の仲であるが、一時期、王族同士の婚姻により関係が改善傾向に向かった時期がある。それがおよそ五十年前、人神戦争前後のことであった。
政治状況を鑑みる限り、確かにブルクハルトの思惑通りに動いていた未来もあっただろう。しかし僕たちはそれを選ばなかった。
「確かに僕たちは魔界ではなく人間界を選んだ。でも、まだそんなことに構っているとは……かの王は随分とお暇なんだね」
僕を救出してすぐに大勢を整えたカーンは、ぐっと足腰に力を込める。全身の筋肉を躍動させてブルクハルトへと突っ込んで行った。
ブルクハルトという男の最大の武器は、何と言っても巨躯である。カーンより頭一つ分も背が高く、胴や四肢は巨木のように頑丈だ。彼の纏う隆々とした筋肉は、僕の身体などいともたやすく吹き飛ばしてしまうだろう。
きっと僕と戦う時は手加減をしていたのだと思う。あえて打撃を加えられなかった胴を撫でて、僕は舌を打つ。
目にも止まらぬ速さで肉薄するカーンを、ブルクハルトは真正面から迎え撃つ。
厚い両の手には何もない。ただ諸手を広げるその様は、端から見ても異常であった。鋭い一閃がブルクハルトの首を捉える。しかし切っ先が皮膚を裂くことはなく、それどころかカァンと甲高い音を立てて刃が砕け散った。
「ハハ、〈硬化の魔術〉くらい基礎中の基礎だろ? ぬるま湯に浸り過ぎて忘れたか?」
「チッ」
剣が折れてもなおカーンの猛攻は止まらない。だが折れた剣にできることなど限られていた。
「俺程度に勝てねぇんじゃあ、この先が心配だな。修行し直した方がいいんじゃねぇか?」
「黙れ」
「リオさんでももう少し粘ったぜ? 何が眷属だ。隷属だけが眷属じゃねぇと、テメェのご主人様から教わらなかったのか」
それはブルクハルトが手加減をしていたからだ、という僕の声が届くはずもなく、カーンの気配が怒気を孕む。しかしそれも一瞬のことで、すぐにいつもの冷静へと戻った。
彼は何かを迷っている。余力を残そうとしている。カーンの脳裏には『ブルクハルトを殺すこと』ではなく、その後のことが引っ掛かっているのだ。
僕は布の包みに手を伸ばす。冷たく硬い皮膚、その奥に渦巻く魔力を取り出して、照準を絞った。
黒い一閃。魔力を凝縮し、塊として発する。魔術でも何でもない、殴打のごとき乱暴な一撃であったが、ブルクハルトの意表を突くことは成功したらしい。初めて焦りを見せた。
「おいおい、それができるなんて聞いてねぇぞ」
だがすぐに僕の手元――何者かの遺体に目を向けると、
「『ホムンクルス』から魔力を吸い取ったのか。さてはお前さん、知ってたな?」
「まさかこの大きさのものが存在するとは思わなかったけどね」
魚人族ダフネの工房にいた人工生物『ホムンクルス』。それが魔力によって生成されたことは、製作者より言質を取っている。しかし、まさか人間と似た寸法も存在するとは思ってもみなかった。地上で会敵した襲撃者と同類であろうか。
続けとばかりにカーンの片手に赤い炎が灯る。土壁を照らし、深い影を作る。炎は天井を舐めつくさんばかりに広がると、一斉にブルクハルトに襲い掛かった。
〈硬化の魔術〉はその名の通り、物体の強度を増す魔術のことである。斬撃や打撃を防ぎ、己の身を守ることに特化した術だ。しかしその効果が及ばないものもある。
「――燃え尽きろ」
それが炎を始めとした一部の魔術だった。
「アーッ、やめろやめろ、馬鹿!」
「これだから魔族は……!」
オルティラとアロイス、それぞれが悲鳴を上げる。
地下の空間は広しと言えど、それには限度がある。小部屋同然の範囲で燃え盛る炎は一息の間に空気を熱し、髪先を焦がす――その時であった。
カラン――異物が聞こえる。
はとして音の方に目をやれば、そこには筒状のものが転がっていた。微かな白煙をくゆらせている。地下墓地の入り口付近で見かけた筒と酷似していた。
「閃光筒――!」
悲鳴も束の間、それは眩い光とともに衝撃と熱、それから甲高い音を放つ。ふわりと身体が浮き上がり、壁へと叩き付けられた。
「チイッ、襲撃者か!?」
「あの商人どもだ」
商人――そう聞いて思い出すのはファントだった。
ネコ族の旅商人。僕たちを工業都市グラナトに導いた張本人。
彼が何かしら不穏な動きをしている、とはカーンから聞いていたが、まさかそれが事実とは予想もしていなかった。だが、全く想定外の動きではない。
「奴等、とうとう痺れを切らせたか」
どぉん、どぉんと、立て続けに大地が揺れる。天上からは砂の欠片がこぼれ落ち、塗り固められた壁にもヒビが入っている。このままでは生き埋めになる。
決闘に興じていた女戦士たちも事態の急変に気づいたようで、切っ先を地に向けている。
「こっち、まだ平気!」
身を隠していたニーナが声を張り上げる。彼女が顔を出したのは、僕たちが歩んできた道からだった。
爆発音が鳴り響くのはニーナの反対側――カーンが現れた通路からであるようだ。抜け道があることを知らなかったのか、はたまた回り込む時間がなかったのかは定かではないが、何にせよ命は繋いだ。
「でかした、ニーナ! 男子諸君、我々は先にトンズラさせてもらうぜ!」
心配そうに耳を垂れるニーナを担ぎ上げて、オルティラがいち早く闇に消えていく。
それを追うのはアロイス。アロイスに至っては煽り文句の一つもこぼさないのだから、ちゃっかりしている。
「……何とも締まらねぇが、今日はここら辺にさせてもらうぜ」
「ブルクハルト」
「ああ、分かってるって。誰にも言わねぇよ。敵を増やすような馬鹿な真似、進んですると思うか?」
否とも是とも断定できないのだが。喉元まで出掛かった言葉を飲み込んで、未だ警戒を緩めないカーンを
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